第一章-2



 ひよりは「切った」という事実こそ聞いていたが、紀子の腕に傷や跡があるのを見たことがなかった。一度わざとらしくリストバンドをした紀子を見てその下を想像したが、外れてみれば見えるのは人並みの血管ばかり、露出の多い花嫁衣装も何の躊躇いもなく着こなし、二次会で「妊娠中だから」と酒を断る紀子の手首は何も纏っていなかった。

 綺麗な腕、欠落のない身体に夫と娘という幸福を背負う従姉を見ながら、ひよりは自分の欠落と、消えない傷跡を見せて笑った友人を思い出すのだ。

その友人は前田夏子という、民俗学を専攻する女だった。大学一年の冬、瀬戸内海の離島で行われたフィールドワークで、ひよりは前田と同じ班になった。班には芸術学部の三木本頼子という女もいて、三人で島民に聞き込み調査を行った。頼子もひよりも、前田に声を掛けられて同じ班になった。

真冬の離島での三泊四日は参加者二十一名に奇妙な連帯感を生み、ひよりはそこで、普段は耳にしないような噂話も聞いた。女子十一人の寝床では、高校の修学旅行の夜とは比べ物にならないほどえげつない話も飛び交った。

だが前田の腕の話が女たちの口の端に上ることはなく、飛び交う噂の中に現れる前田の姿は変わり者で個人主義、恋愛話を嫌悪する守銭奴であった。

それを見たのは宿の風呂場だった。フィールドワークの最中、生理と変わらない量の出血のあったひよりは、規定の入浴時間のあと、一人で底冷えのする廊下を渡り風呂場に向かった。脱衣所に入ると中から水音が聞こえた。籠には一組の衣類がある。自分以外にもいたのだなと、曇りガラスの向こうの人影を見て思う。もっとも、自分は生理ではなく薬による不正出血、普通の女の流す血液とは違い、ひよりから流れるそれの中に卵子が入りこむことはない。

排卵を止める薬だった。排卵を止めホルモンバランスを整えることで生理不順や月経困難症、月経前症候群の症状を緩和する。排卵を止めれば生理も止まると思っていたがそうではなかった。排卵はないのに子宮内膜は卵子を守るために血を溜め、剥がれ落ちる。

服を脱ぎ、曇りガラスの戸を開けると中にいた人物があれっと声を上げた。前田が、濡れた髪をかき上げてこちらを見ていた。

前田の隣に座り、身体を洗い始めたひよりは前田の骨ばった身体をちらりと見て「生理だったんだ」と言う。

前田は身体を流しながら「おう」と頷き「うちの班、出血率高いな」と笑う。タオルを頭に巻いて立ち上がると、前田は貸し切りみたいだと喜んで、誰もいない湯船に勢いよく飛び込む。ひよりは、湯の中で身体を伸ばす前田を見て首を傾げた。

身体を流すと椅子の下から赤いものが流れるのが見えた。それをシャワーで排水溝に流す。血液の塊は排水溝の網に引っ掛かりなかなか流れず、じっと湯を当て続けると、やがてバラバラになって見えなくなった。

身体を拭うと、ひよりは「お先に」と立ち上がって、風呂桶と椅子を片付ける。前田は湯に浸かりながら「入んないの?」と不思議そうな顔をする。ひよりはガラス戸の前で立ち止まり、困惑気味に「生理だから」と言う。前田はあっと声を上げ、そのことをすっかり忘れていたというように「そうか、そうだよな」と呟く。ひよりが戸を開けると前田は水音を立てて風呂から上がり「私も出る」と言ってひよりについて来る。

脱衣所は寒く、ひよりはすぐに服を着る。その横で前田は身体を上気させて、下着姿でバスタオルを羽織り、手で顔をあおいでいる。

「そうだよな、生理だったらあんなに思いっきり湯船に入らないよな」と苦笑を漏らす。ひよりはその言葉の意味を図りかね、何も言わずに濡れた髪をタオルで乾かし続ける。

 前田は不思議な女だった。一浪のひよりと同い年だったが、浪人ではなく大学を一年休学したために留年していた。一年の後期から一年間の休学、二年目の後期に、また一年として復学した。休学の理由を前田は、一人暮らしをするための資金稼ぎだと言った。

 前田はにじむ汗を拭って服に腕を通しながら「本当は生理じゃないんだわ」と言い、左の袖をまくりあげて「これが見苦しいからさ」とひよりの前に腕を突き出す。縦横に伸びる筋と、赤く丸いふくらみが点々と散らばっている。切り傷と火傷の跡だと少しして分かった。自分でやったのかと尋ねると前田は頷き、「一時期病んでてね」と恥じ入るように言う。

前田と知り合ったのは、一年の後期の民俗学の授業だった。知り合って五ヶ月、ひよりはその跡に気付いていなかった。気付かなかったと言うと、夏も長袖を着ていたから、気付かなくて当然だと前田は話す。

「紫外線対策が流行ってるおかげで、長袖でも突っ込まれないからね。助かるわ」と言って前田は笑う。

 そうまでして見られたくないものなのかと聞くと、見られてメンヘラ呼ばわりされるのは気にならないと言う。

「ちょっと無理あるけど、猫にやられたとか油が跳ねたとか言えるしね。でも見た目気持ち悪いじゃん」

血がダメな子がいるみたいに、こういうのがダメな子もいる、だから隠すと前田は言った。確かに前田のそれは、目に入れば多少なりとも驚く類のものだった。気付く人であれば、それが自分でやったものだというのも気付く。

気持ち悪くてごめんと恥ずかしそうに笑う前田に、ひよりは大丈夫だと答える。

「猫にやられたって言われても信じたと思う」

紀子の、わざとらしく隠した手首を思い出す。紀子が手首を切ったことは貴子から晴久、晴久から恵美子、恵美子からひよりに届いた。貴子は娘を哀れんだ。両親の離婚に悲嘆する娘を哀れんで胸を痛めた。

前田は袖を戻しズボンをはくと、行こうかと言ってドアを開けた。廊下の冷気が吹き込んできて、前田は「さむっ」と声を上げた。

鳥肌の立つ両腕に荷物を抱えて歩きながらひよりは、その腕のことを、家族は何も言わないのかと尋ねた。

「母親はミミズ腫れみたいで気持ち悪いって言ったな。だから隠せって」そう言われて以来、家でも長袖なのだと何でもないことのように前田は言った。どう答えてよいか分からず、ひよりは間の抜けた相槌を打つ。前田が家族と折り合いが悪いことは、話の端々から窺えた。留年してまで家を出た理由を、前田は「家と相性が悪かったからだ」と言って、詳しくは語らなかった。

紀子のことを可哀そうだと言って同情した恵美子の姿を思い出した。息子への不甲斐無さを嘆いた貴子の姿を想像した。自分が腕を切るようなことがあったら、恵美子はどういう反応をするのだろうか。ひよりには「五体満足に産んであげたのに」と腹を立てる姿しか想像ができない。

 前田は身体を抱くようにして廊下を早足で歩きながら「せっかく温まったのに湯冷めする」と顔をしかめる。その姿を横目で見て、家と相性が悪かったからという理由で腕を切り、大学を休み、自力で稼いで家を出てきた女が目の前にいるのだとひよりは思う。冷え切った体が震えた。

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