ゆらめく中央分離帯(原稿用紙304枚)

Umehara

第一章

第一章-1

第一章



 赤ん坊の声がしたと思い顔を上げると、中庭から廊下に上がり込んだ寺の飼い猫が、障子を開けろというように木枠に頭をこすりつけて自分を見ていた。猫が「なぁ」と鳴いたのを聞いて、それが赤子の正体かと気付く。ひよりには紀子のもうすぐ二歳になる娘が、死んだカツ江を呼んで声をあげたように思えた。

 カツ江の三回忌であった。お茶を配り終えた葬祭会社の恰幅のよい女が広間から出て、勢いよく開いた障子戸に驚いて飛び退いた猫を見て、会食の席に入られてはたまらないというように盆を振り「しっ」と猫を追い払う。中で男たちの笑い声が弾けた。

 女はひよりに気付くとバツが悪そうに頭を下げ笑みをつくる。「ごくろうさまです」と頭を下げ女と逆方向に歩きだすひよりの後を猫が鳴き声をあげてついてくる。

広間の中で大叔父と叔母一家が話しているのが聞こえた。叔母の貴子と共に、その子供の紀子と康平が来ていた。叔父の康夫は来ていない。ひより、紀子、康平の三人が、カツ江の孫のすべてだった。

「姉さんもあと一ヶ月生きてりゃ」とカツ江の弟の朋作が言い、貴子が猪口に酒を注ぎながら「楽しみだったでしょうね」と頷く。その向かいで娘を義母に預けて来たという紀子が泣き笑いのような顔で座っている。

 そのやりとりを障子越しに聞きながらひよりは廊下を抜けて女子御手洗と張り紙のある戸を開けて中に入った。猫はトイレの戸をひっかいてひと鳴きすると静かになった。

 祖母の死んだ九月十九日はじっとりと暑い曇り空で、昼過ぎから黒くなった雲を見て洗濯物が濡れてしまうと思ったひよりは駅から自転車を走らせた。家ではカツ江が死んでいた。車庫に置かれた自転車ごと倒れた祖母の頭から血が流れ、コンクリートに滲み込んでいた。

 その日の湿った空気は三回忌の今日とよく似ていた。汗の噴き出す肌を風が弄るのを感じながら、自転車を押して車庫に向かったひよりは、それを見たのだった。

 楽しみだったでしょうねという貴子の声が甦る。そこだけ夏の空気と切り離されたようなトイレの中で、祖母は曾孫の誕生を待ち望んでいただろうかとひよりは考える。

 月経でもないのに身体は出血していた。吐き気や乳房の張りはすぐに消えたのにこれだけどうして一年も止まらないのかと顔をしかめる。薬の副作用だった。月経前症候群、略称PMSの治療で飲む薬がひよりの子宮内膜に溜まる血液を押し流している。血は黒ずんだ茶色をしていた。

 広間に戻るとひよりのいた席に親戚が座り、父の晴久と何事か相談している。母の恵美子は自分の実家の親戚と話し込んでいた。ひよりはテーブルから外れた祭壇の隣に、空いた座布団を引きずってきて座った。大叔母の一人が作った柚子まんじゅうが、祭壇の上から柚子の香を漂わせている。その香の届くかどうかのところに紀子と康平が並んで座り、向かいに貴子と朋作がいた。康平は黒いスーツを着ていた。二十歳になったばかりだった。顔を赤くした朋作は康平のコップにビールを注いで「姉さんも喜んでるべ、立派に成人してよぉ、いいとこ入ってよぉ」と言い、「なあ」と貴子を見る。

「んなたいしたとこじゃないです」と答える康平を紀子が「ゼータク」と笑いながら小突く。康平が苦笑するのを謙遜だと見た朋作は「浪人もしねえで国立で、親孝行だよ康ちゃん」と手酌で日本酒をあおる。別に飲みたくもないが注がれたので仕方なくというふうにビールに口をつける康平を「飲み過ぎないでよ」と諌めて、貴子は「でもホント、助かってますよ、親バカですけど」と娘とよく似た泣き笑いのような顔で言う。

 不本意な入学だったとひよりは知っていた。貴子から晴久へと伝わった話は恵美子を介してひよりまで届く。

浪人して早慶という康平の考えは康夫の負債が明らかになった時点で崩れていたのに、康平は高校三年の秋まで納得しなかった。康夫と貴子が別れ、貴子、紀子、康平は2DKのアパートで暮らし始めた。紀子と康平は姓を変えなかったので家の中で母だけが飯田姓であった。ほどなくして紀子の姓が変わり、アパートは姓の違う母と息子だけになった。

 祖母が死んだのは康平が高校三年の秋だった。

「おばあちゃんの遺産入れても国立が精いっぱいって」と恵美子は血のつながらない余所の家の話でもするようにひよりに聞かせた。そのくせ「康ちゃん頭いいから悔しいだろうねぇ、もったいない」と人一倍哀れがるのだった。

ひよりが受験勉強に専念し始めた十一月、康平が家出したという貴子からの電話で飯田の家は捜索に引っ張り出された。一晩探したが、康平は翌朝思いつめたような顔をして帰ってきて、貴子と晴久の前で浪人はしない私立も行かない、地元の国立なら今からでも大丈夫だから安心してくれと告げた。ひよりにはそれは当然のことに思えたので叔母がその場で自らの不甲斐無さを詫びたと聞いて茶番だと思った。ひよりには二人が晴久や飯田の家にあてつけているとしか思えなかった。

 康夫が会社の借金を肩代わりし、家と土地が抵当に入れられていると気付いたのは晴久だった。短大を出て事務の仕事をしていた紀子は不安定になり腕を切った。それは妊娠が分かるまで続いた。

「国立で四大行ければ十分だよぉ」と紀子は自分の家の苦労を思い返したように言い、そのため一層弟の成長が嬉しいというように目を細めるが、康平が三年のときに妊娠し結婚し家を出ていた紀子は康平が謙遜でなく本当に不満に思っているということを知らない。紀子がまた不安定になるのを貴子は恐れた。娘や元夫に話さない代わりに飯田の家の電話が鳴った。

 頭がいやに重たく感じ、首をまわしてそのまま後ろを窺う。血の気が引いていくような気持ち悪さと共に視界が白くなり、二三度瞬きをしてもう一つの長テーブルに集う女たちに焦点を合わせる。生理前はいつもこうだ、と重たい後頭部を撫ぜる。そこにも血が凝っているように感じる。

祖母の妹や義妹たちはそれぞれの家庭の話とカツ江の思い出話で忙しく、ひよりは夫や血を分けた子供の話で表情を変える大叔母たちを見てこの人たちはみな結婚して出産して今ここにいるのだと思う。そういう意味で紀子と大叔母たちは一緒だ、とひよりは感じる。

 子を産むのはどんな感じかと、血の溜まる下腹部に手をあて、紀ちゃん、と従姉を呼び「真菜ちゃん二歳になるんだっけ」と膝立ちでテーブルに近づく。朋作と貴子の会話をぼうっと見ていた紀子はひよりの声にあかるい顔をつくり「まだ、あと一ヶ月半」と言う。

「もう歩く?」

「家じゅう歩き回ってる」紀子は嬉しいが大変だというように苦笑する。じゃあ危なっかしいね、と言いながら訊くまでもないことをわざわざ口にする自分はバカだと思う。

 カツ江の死んだ一ヶ月後に真菜は生まれた。二年前の十月の末、残暑も消え冷え込むようになった朝晩、まだ床の間に置かれた骨壷に食事を供えた。納骨に真菜を連れてきた紀子を見て参列した親族はあと一ヶ月生きていれば曾孫を抱けたと涙を拭った。痴呆の始まったカツ江の相手はひよりの役目だった。杖なしで歩けないほど足腰が弱っていることを忘れ、しかし買い物が必要だと分かる程度に頭の覚めたカツ江は財布をそのまま自転車のカゴに入れ、こぎ出そうとして死んだ。玄関のドアは開いたままだった。

「ひよちゃんは二年生だっけ」と紀子が康平の学年を思い出しながらというように聞く。

「うん一浪したから」と笑うひよりに康平が「俺も浪人したかったー」と笑い返す。

「やあ、康ちゃんまで親不孝しちゃだめでしょ」とおどけるひよりに朋作が「だな、ひよりちゃんはうんと勉強して親孝行すんだ」と言って、ほれ、とビールを傾ける。手近なグラスで酌を受けながらひよりは逃げ出したい気持ちを腹の底に沈める。



 それが現れ始めたのは中学に入った頃、月経が始まって二年が経ち、子宮内膜の血液が月に一度剥がれ落ちるのを面倒だと思いながらも日常に組み込まれたものとしてやり過ごすことができるようになった時分だった。強い眠気があった。一時限目から五時限目の授業の内容の半分も覚えていない日が一週間続くとそれは治まった。そんなことが何度かあった。それが月経の直前に起こると気付いたのは、高校に入り校舎まで徒歩二十分の道のりがその期間になると一時間かかるようになってからであった。朝は途中の酒屋のまだ開いていないシャッターに寄りかかり公衆電話から遅刻の連絡を入れた。身体が砂袋のように重かった。それでも学校に行ったのは母恵美子が出席停止の疾病以外での欠席を嫌っていたためだった。三十八度の体温で授業を受けその足で病院に向かうのはひよりにとって普通のことだった。

 毎日通えないなら行くべきではないという了解が恵美子とひよりの間にあった。進学も就職もしないひよりを奇異なものとして見た同級生や教師の視線の感触は今でもひよりの記憶の中で鮮やかだ。体調を理由にした。だが望んでいた進学をはっきり諦めたのは両親が通学も通勤もできそうにないひよりに痴呆の始まったカツ江の介護を期待したからであった。

 葬祭会社の用意した引き出物を、帰る親戚に手渡しながら、ひよりは私が早く帰っていれば祖母は死ななかったのだと言ってしまいたかった。祖母の葬儀で泣かなかったのは心のどこかで解放を喜んでいたからかもしれないと告白したい。そしてそれを罵ってほしい。

母と共に母の兄夫婦、妹夫婦を見送りに行ったひよりは笑顔で礼を言いながら、母方の親戚のいる栃木、そこに住む祖母と従兄妹を思う。母の兄夫婦には今年大学院に入った息子と、ひよりと同い年の娘がいた。大学三年の利発な娘で、夏休みに短期留学に行ったと聞いた。叔父夫婦に、しっかりした娘さんをお持ちで幸せですねと腹の底で呟く。

ひよりの入学が決まったとき、母が電話で義姉に言った言葉を、栃木の親戚を見るたびに思い出す。

「介護してればまだ体面もよかったけど、もうただのプータローですしねぇ」

 その明るい笑い声を、ひよりは縁側で祖父母の仏壇の線香立てを掃除しながら聞いていたのだ。

栃木の親戚の乗ったタクシーを見送りながら、ひよりは胸の内で呟く。誰も、うちにそんなに関心持っちゃいないんだ、と。

帰り際、最後にもう一度と両親と叔母家族とひよりで墓に手を合わせた。四年前に祖父久夫、二年前に祖母カツ江の入った、まだ建てられて六年の新しい墓だ。祖母が死んだ時、真菜はもう紀子の腹にいたのだと思い、ひよりは墓を拝む紀子を窺う。手のひらを合わせた二本の腕はとても綺麗で、真菜がその白い腕に抱かれて腕や胸をつかむのを想像する。真菜も夫も腕の傷跡など気付かないで、紀子自身もそれをなかったことにして生きるのだろう。

「紀ちゃん」階段を下る従姉の後ろ姿を呼びとめる。

「真菜ちゃん、ここ来たことあるの?」

紀子は足を止めて振り返り「あー、まだないな」と答える。その前から叔母が「育休取れるうちに連れてくる?」と娘を振り返る。

「まだ産休だっけ?」紀子の隣に立って、ほっそりとした喪服姿の従姉を見ながら、なにが不幸だと腹の中で思いながらひよりは尋ねる。

「育児休暇。勤務時間減らせるの、三歳まで」

へえ、と呟いて紀子の横に並んで歩いた。もうじき二歳になる真菜の泣き声はもう猫とは違うだろうか。蒸し暑いね、と紀子が額の汗をぬぐう。ハンカチを手にした左腕に、傷の跡は見つけられなかった。

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