水面-3

 ヘドロのにおいと、記憶の中の汚物のにおいを払うように、空を仰いで大きく息をすると、自分の身体から立ちのぼる、汗と日差しの合わさったようなにおいがする。頭からうなじに汗が流れる。汗と熱でちくちくする首まわりをタオルで拭い、またブラシをかけ始める。

 薬かタンポン、という話を聞いた早瀬は、「どっちも怖えよ」と顔を歪める。新島は、同感だと言うように苦笑し、「でも、海とか温泉とか、断れないときもあるんじゃない?」と言う。

 茜の身体中から、汗が流れていた。暑さのせいだけではないと、茜自身気付いていた。早瀬が「でもなぁ」と言うのが聞こえて、茜は思わず

「競泳の選手なんか、使うしかないよね」

と口を挟んだ。その声が、妙に大きくなってしまったような気がした。笑っているつもりだが、自分がどんな顔になっているか分からない。顔が紅潮している気がしたが、西日を受けているからかもしれないと思った。

 早瀬は、茜の態度に何か言うことはなく「ピルだっけ、排卵止めるの。それでセーリ来ないようにしてんのかな」と言い、「どっちもやだけど、使うなら薬の方がいいな、タンポン怖い」と顔を歪める。

「痛そうだよね」と新島が同意する。

 補助具のついたものならそんなに痛くなかったよ、という言葉が頭に浮かぶのをすぐに打ち消し

「それにタンポンて、漏れることもあるって聞くし」

と、苦笑いを浮かべて言った。

 タンポンを買って臨んだ水泳は、結局気温が上がらずに、保健体育の授業になった。昼休み、誰もいないトイレの中で、それを抜こうと下着を下ろすと、サニタリーショーツの白い防水布には、赤く丸いシミができていた。

「漏れるって、血が?」

早瀬は茜を振り返って尋ねる。色の薄い髪が、光に透けて赤く光っている。

「うん」と頷きながら、茜はその赤い髪を見ていた。新学期が始まるたびに、早瀬の髪は墨を被ったように黒くなる。四月にはカラスのようだった頭は、少しずつ色が落ち、今は地毛よりはるかに赤い。水泳の授業が始まれば、もっと赤くなるだろう。

「水泳中に漏れるとか、悲惨だなぁ」

 新島は、自分が血を漏らす姿を想像したように、嫌そうな顔をする。茜は、「だよねえ」と困ったような笑いを浮かべて頷いた。

「それってさ」早瀬は二人の間に割って入り、声をひそめて

「ガバガバってことなんじゃないの」と言った。

 茜は思わず早瀬を見つめた。夕日を受けた色の薄い髪、それが光るのを見て茜はふと、一年のときその髪を、不良のようだふしだらだ、と思っていたことを思い出す。

「またお前は」

 新島がまた足を突こうとブラシを構えると、早瀬は自分のブラシで応戦する。ブラシとブラシがぶつかって、ヘドロが高く跳ね上がり、茜の方に飛んでくる。早瀬と新島が「あっ」と声を上げたのと、茜の体操服にシミができたのはほぼ同時だった。茜は、ぼんやりとそのシミを見下ろした。汚泥は腹のあたりに飛び散って、黒い大小のシミになっている。

「ごめん、茜ちん」と新島と早瀬がかわるがわる謝る声が聞こえる。茜はその声を聞きながら、なんで漏れたんだろうと考える。新島が、自分のタオルで茜の服のシミを拭き取ろうとする。叩いても叩いても、シミは落ちない。

「大丈夫だよ」と言ってから、「血じゃないから洗えば落ちる」と続けそうになったのを、茜はすんでのところで飲み込んだ。




 血が漏れたのは、奥まできちんと入らなかったからだと思った茜は、別の種類のタンポンを探しに、一人で薬局に向かった。きちんと入らなかった、ということは母には言えなかった。言えば茜に不具があると、母は思う。

「精密検査、受けてみる?」

 母はいつも、茜の身体に自分の知らない不調を見ると、そう言った。だが実際に連れて行かれたことはなく「精密検査」が具体的に何を指すのかは分からない。

生理用品の棚には「初めてでも使いやすい」と書かれた、アプリケーターという補助具のついたタンポンがあり、一年最後の水泳の授業は、そのタンポンをつけて臨んだ。補助具付きのタンポンは説明書通りすんなり入り、きちんと定位置に収まった。

その日は急に天気が崩れ、午後の水泳は中止になった。下腹部にそれを入れたまま帰宅した茜は、自宅のトイレで引き抜いた。羽の形に膨れたそれは半分以上白かったのに、血液は膣から流れ、ナプキンの上に広がっていた。




「早瀬たち、ずっとタンポンの話してたよね」

 掃除を終えて、着替えのために入ったトイレで誰かが言った。

「ちがう、あれは新島と茜ちん」

 早瀬は個室の中から声を上げ「水泳部、生理のときどうすんのか聞いてただけ」と言葉を続ける。

 それを聞いた陸上部の女子が「えっ、タンポン使うの」と色めき立つと、水泳部の女子は「使わないよ」と声を上げ、「新島ぁ」と、既に着替えを終えて鏡の前に立っていた新島を見る。茜は個室が開くのを待って、制服を抱えたままその隣で立っている。

 新島はげんなりしたような顔をして、「競泳の選手どうするんだろって話。うちらは普通に休む」と言い切る。

「てか、生理って言い出したの私だったね」と茜が苦笑すると、新島は笑って、「早瀬が引っ掻き回すから」と言う。それを聞きつけたように、早瀬は個室から飛び出して、「そうだよ、タンポン使うとか漏れるとか私情報じゃないよ」と声を上げ、また周りの女子に小突かれる。

 入れ替わりに個室に入った茜は、すれ違いざまに早瀬を見て、

「日ごろの行いが悪いからだよ早瀬ェ」と笑う。ブラウスの下に、ピンクのブラジャーが透けているのが見えた。扉を閉めた個室の外で、早瀬が半ば笑いながら「茜ちんひでえ」と声を上げている。

「ごめん、冗談」笑ってそう返しながら茜は、プールでの早瀬の言葉を思い出す。説明書には、きちんと入れれば血は漏れないと、許容量を超えれば溢れると、そう書いてあったはずだった。「精密検査」という言葉が頭に浮かんだが、気にする事はないと自分に言い聞かせ体操服を脱ぐ。このままブラウスを着たらブラジャーが透けるだろうが、スポーツブラだし問題ないだろう、と考える。

「てか、みんなタンポン使ったりする?」

 外から誰かがそう言って、茜はびくりと身体を震わせる。ないない、怖いという声がして、

「男もまだなのにタンポンとか」

と、早瀬の笑い声がした。その露骨な言葉に、他の女子がまた笑い声を上げる。自分が個室の中にいてよかったと茜は思った。自分は今ひどい顔をしている。

清潔さを装うために、茜を包んでいたはずのものが、外から中から、身体にしみこみ、汚く赤く錆びていく。取り除きようのない汚点が身体のそこここにできてしまったような気がする。

早瀬の赤い髪よりも、遊び歩いている女子よりも、錆で固まった自分の身体がいちばん醜く歪んでいるようだ。

 鼓動が喉の奥にまで響いている。白いスポーツブラの垢ぬけなさが、突然醜悪なものに思えた。




 生理になっちゃったからと、母に一言書いてほしいと頼んだのは、七月最後のプールの授業の前日だった。ノストラダムスの予言は外れ、半月経っても何も起こらず、茜の身体はいつもの通り、月経血を流し始めた。母はソファーに座ってテレビを見ていた。茜はテーブルの上に生徒手帳を開いて置いて、

「欠席理由と判子。私が書くとバレるから」

と言う。母は不思議そうな顔をして娘を見る。

「タンポンは」

「使いたくない」

「どうして」

と問う母に、嫌なものは嫌だと言いたかった。誰もそんなものは使っていないし、水泳部ですら休んでいるのだ。茜が黙っているので、母はテレビの電源を切り、立ったままの娘の顔を、覗き込むように見上げる。

「どうして」母はもう一度言った。

 血が漏れるから無理だと言おうと思ったが、それを言うと母に、処女であるのに穴の緩い女なのだと思われるような気がして言えず、

「あれ、お腹が痛くなるから」と言った。これは嘘ではなかった。入れている間の違和感はやむを得ないが、抜いたあと、一二時間経ってもまだ、下腹部に鈍い痛みが続く。激痛ではなかったが、茜を不安にさせる痛みではあった。痛みは、半日もすればなくなって、一日経てばその不安も忘れた。

「使ってる間じゃなくてあとで、鈍痛があって。おへその下がじんじんする」

言いながら茜は、その痛みを思い出して不安になる。図書館に行って医学書を探そうと、何度か思った。だが、探し、見つけ、本に手を伸ばすことが何かを決定的にしてしまうようで、怖かった。

 月経はみんな始まっている。「ナプキン貸して」というやりとりも聞こえる。だが、膣の中にそれを入れたという話は、茜の耳には入らなかったし、茜自身も言えなかった。

「痛い?」

 母の表情が曇る。茜が発した不安の種が、母の中に落とされ、見る間に成長していくのが、茜の目にも分かった。

 母は、いつも茜の不安を増長させる。だから茜は、母の前で不安がることができない。

「それ、どこか悪いんじゃないの。婦人科で精密検査受けてみる?」

母は、胸の中で育った不安を噴き出させるように、そう言った。とっさに「大丈夫だよ」と茜は返す。

「説明書にも、たまに痛みが残ることがあるって書いてあったし、時間が経って消えるなら問題ないって」

 思いつくままに出まかせを言ってから、問題ないならプールに入れと言われると思い、「でも、水泳のあと、数学で小テストあるし、痛いとちょっと辛い」と、また出まかせを重ねる。

 母はソファーに深く身体を沈めたまま、茜の方は見ずに、身体の中で不安がぽこぽこ沸き立っているような顔をして、それを吐き出すように「でも」と言う。母は茜の顔ではなく、腹のあたりに目を向けて、

「気になるほど痛いのは、ねぇ」と言って黙りこむ。

 間違いを探るような視線を向けられ、茜は息苦しさを覚え、生徒手帳に目を向ける。開いたページにサインをして、判子を押せばいいだけだった。

「あ」母が突然何かを思い出したように声を上げる。母は、一瞬不安の池から浮かび上がったような顔をしていたが、すぐにまた不安の中に沈んでいき、「あの婦人科、関口さんが受付やってる」と、茜の同級生の名前を口にした。受付に座るその母親と、茜の母は顔見知りだが、だから何、と茜は思う。

 月経そのものを恥ずかしいと思ったことはなかった。怖いと思ったこともなかった。いつか来るのだと分かっていたし、初潮のときもとうとう来たかと思っただけだ。学校の授業でも自然なことだと聞かされて、サニタリーショーツを買うことに抵抗もなかった。汚さないこと、きちんと処理すること、男の前で話題にしないこと。それだけ守れば十分だと思う。だが、成長するにしたがって、それそのものに恥の要素が付随していく。

「あ、明日休んじゃう? それか、風邪ってことにしようか」

名案を思いついたように仮病を提案する母に、茜はすっかり面食らう。

「私、夏風邪とかひいたことない」

 中学に入ってから欠席もしたことがない。そっちの方が目出つし嫌だと、どうして母は分からないのか。

 母は「でも生理って書くよりは」と言う。

 被らなくてもいい恥が、茜の上に降ってくる。その一つを跳ね返すように茜は

「薬局のレジ、飯田幸子の母親だった」

と早口で言った。母は茜の顔を見た。母の顔一面に、不安が満ちる。茜は自分を恥ずかしいと思った。いや自分ではなく母が、茜を恥ずかしい生き物だと思いながら、目の前の娘を見つめているのだと思った。

 風呂場の開く音がして、「あっちぃ」と弟の声がする。母も茜もハッとして、目だけで廊下を伺った。

「アイスあるよね」という声と共に、弟がこちらに向かっている。茜は生徒手帳を母の手に押し付けて、「私べつに気にしないから」と言って、弟とすれ違うように居間を出る。

「茜」という声がして、母が立ち上がるのが分かった。茜は構わず廊下を抜けて、階段を上る。その背中に向かって、母は叫ぶように言う。

「あんたが気にしなくても、周りが気にするの」

 茜は足を止めずに二階に上がり、振り返ることなく自室に向かった。

 周りってなに。

 アイスを取りにきた弟は、母の言葉を不審に思ったはずだった。母はいつでも間違いを恐れる。間違わないことだけを、いつでも必死に考える。

 ベッドに身体を横たえて、しばらく天井を見ていたが、生理中だと思い出して起き上がった。今日は湯船には入れない。だが母は、そんな日に限って、もらいもののおしゃれな入浴剤を入れたりする。入れたあとで、弟のいる食卓で「今日お姉ちゃん湯船入れないんだ」と言ったりする。何も聞かれなかったのは、小六になった弟が、何のことか察したからだった。

 部屋に置いてある水泳用の袋を見ながら茜は、明日もし書いてもらえなかったら、学校に来てから生理になったと言い訳をして休もうと考えた。



 翌日、天気は朝から快晴で、水泳は実施されることになり、茜は母のサインの書かれた生徒手帳を、体育教諭に提出した。白髪交じりの女性教諭は、手帳を見ると「貧血」と呟いて茜を見る。

朝、「書いといたから」と渡された手帳には「貧血のため」と書いてあり、茜は礼も文句も言わずに、それを制服のポケットにしまった。

 老眼鏡越しの視線を受けて、茜は

「てか、ほんとはセーリで」

とわざと照れるような口調で付け加える。教師は「ああ」と頷くと

「普通に生理って書いてもらって大丈夫よ」と言って、確認欄にサインをし、「恥ずかしい事じゃないんだから」と生徒手帳を茜に返した。

「そうですね」と笑みを作って、ジャージのポケットに手帳を入れた。

水着姿で恥ずかしがる女子たちを、プールサイドのベンチから眺め、恥ずかしがる方がみっともない、と思いながら、教室から持ってきた下敷きで顔を扇ぐ。桜並木で陰になり、風も強く乾いていたが、吹く風はもはや熱風で、「足だけでも水につかりたい」という声が見学者から漏れる。汗と一緒に血液がしみ出しそうだった。

見学者は二クラスで五人。うち一人はギプスを巻いていて、一人は何度も咳き込んでいた。他はみんな生理だろうかと茜が思っていると、一人が茜に声をかけ、「吉川さんも、モナカ?」と聞いてくる。

「モナカ?」と茜が聞き返すと、その女子は「生理のことだよ」と言って、恥ずかしそうに笑う。あんたが気にしなくても周りが気にするの、という母親の言葉が頭をよぎる。そういう話ではない、母が言ったことと、たった今聞いた隠語は、なんの関係もない、と茜は思う。

茜は無理やり笑顔を作ると、「そんな言い方あるんだ」と感心したような口調で言い、自分がまた何重にも包まれるような気持ちを持ちながら「うん、私もモナカ」と言って、はにかむように笑ってみた。

濃い緑色の桜並木から、今年初めて聞く蝉の声がした。秋になれば葉は色付いて、赤い葉っぱを水面に降らす。落ち葉は虫と一緒に溶けて、腐って底に沈むのだろう。

強い風が吹き、蝉の声がやむ。茜はゆっくり目を閉じた。

春に水面を彩る花は、プール一面を覆い尽くして、腐り淀んだ水面の色を、ほんの束の間忘れさせる。

 茜は、その薄紅の花びらが赤く茶色く朽ちていくのを、瞼の裏に思い描いた。

(了)

原稿用紙四十一枚


【蛇足】

・処女でもタンポンは使えます。中学から使っている人も少なくありません。

・作中に、「ピルで生理が止まる」という表現がありますが、ピルで生理は止まりません。排卵がなくても、月経はあります。

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水面(短編小説)原稿用紙41枚 Umehara @akeri

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