水面-2
明日水泳休むから判子押して、と生徒手帳を差し出した茜に、母が「タンポン使えば入れるでしょ」と言ったのは、生理二日目のことだった。中学一年の茜は、生理、と言えば水泳は休めるものだと思っていた。だが母は、「生理で見学なんて、先生にも周りにも恥ずかしいでしょ」と言った。母があまりにも当たり前のように言うので、茜は、学校で女子だけ集められ、「生理の場合も、風邪や体調不良と同じように、見学してかまわない、言うのが恥ずかしければ、他クラスの女の先生や救護の先生に言えばいい」と言われていたのにも関わらず、それは建前で、みな生理だなどと打ち明けることなく、その期間をやり過ごすものなのだと思ってしまった。
居間に寝そべって、弟と一緒にテレビを見ていた父に、母は何がとは言わず、どうしても必要なものがあるからと、薬局まで車を出してくれと頼んだ。めんどうくさいと渋る父に、母は繰り返し「明日までにないと、茜が困るから」と言い続ける。何がそんなに必要なのかと聞かれるのを恐れた茜は、自転車で行って買ってくると言った。それを聞いた父は、娘の非行を非難するように「何言ってんだお前はこんな時間に」と言って、ひどく腹立たしそうな様子で車を出した。
閉店まで二十分を切った店内は、まばらに人がいて賑わっていた。顔見知りがいないことに、茜は安心した。父は、かごにアイスの箱と牛乳を入れ、茜に早く商品を取ってこいと言う。茜は、父が一緒に会計を済ませるつもりなのだと気付き、
「自分で買うから、お父さん先買ってて。お金貰ってるし」と言う。
父は怪訝な顔をして、
「一緒に買った方が、レジ一回で済むだろ」と言う。
二つあるレジはそれぞれ客がいたが、混雑している様子はない。父の気遣いはいつも外に向けられる。茜は一瞬ひるんだが、さすがに父親に生理用品を買ってもらう娘はいないと思い、
「自分で買いたいの。だから別々にお会計させて」と言い募る。
だが父はそれを幼子が大人の真似をしたがっていると取ったように
「父さんね、袋持ってきてんの。いっぺんに買ったら袋一つで済むだろ」と、噛んで含めるように言う。父のハーフパンツのポケットからは、何度使ったのか分からないほどくしゃくしゃになったビニール袋がはみ出している。父は、エコロジストのつもりなのか、買い物に行くときは必ずその店のビニール袋を持って行く。そのみっともない癖を、茜も母も嫌っていた。茜はじれったくなって、父からかごを奪い取ろうと手を伸ばし、
「じゃあ、私が会計するから、かごと袋ちょうだい」と言った。
途端に父は眉を吊り上げ、母の言う「鬼のような剣幕」になり、耳が遠いために苛々しながら相手の言葉を聞き返すときのように「ああ?」と声を出し、「ほんとお前何言ってるか分かんねえよ」と、独り言のように呟く。
「生理用品だから」
茜は恥を忍んでそう言った。
「だから?」
父は苛々した様子で腕時計を見る。
「買うもの決まってるならさっさと取ってくりゃいいだろ」
茜は、父を見上げて茫然と立ち尽くす。売り場に行ってレジに行き、父を無視して買ってやろうかと思ったが、それをするには店は狭い。
父は今度は表情を崩し、さも困ったような声を出し、「ほら、アイス溶けちゃうから」と言い、弟がいるために茜のことを「ねえちゃん」と呼ぶその呼び方で「ねえちゃん、早く」と笑いまで交えて言い出す。アイスを最初にかごに入れるのが悪い、なんで父さんの自己満足で、こんな恥ずかしい気持ちにならなきゃいけないの、と胸の中で反発しながら、茜は生理用品売り場まで走り、目当ての物を探した。生理用品や紙オムツの棚のいちばん端に並んだ、数種類の箱を前に、どれがいいか分からず戸惑う。一つ一つ手に取って比べたかったが、じっとこちらを見ている父の視線にせかされ、「スタンダード」と書かれた箱を手に取って戻り、かごの中に投げ入れた。父はその商品をちらりと見た。
店のBGMが、薬局のオリジナルソングから「蛍の光」に変わる。俯いたまま父の腕時計を盗み見ると、閉店まで十五分を切っていた。
当店はもうすぐ閉店させていただきます、というアナウンスで父は初めて気付いたというように「もう九時かあ」と言い、人の増え始めたレジに向かった。茜はその場に立ち尽くし、父が並ぶのを見ると、サッカー台の前で会計が終わるのを待った。
店員が「こちら紙袋にお入れしますか」と言うのを父が「いいです」と断ったので、タンポンの箱はくしゃくしゃで穴のあいた半透明のビニール袋から透けて見えていた。車に戻ると、茜が黙りこんでいるのに構わず、父は
「さっきのレジの人さあ」
と話しながら、車を発進させる。茜は、聞きたくないと言う代わりに、窓の外に目を向け、隣のコンビニにたむろする、中学生らしい少年たちを眺めた。父は構わず続ける。
「飯田君のお母さんだったよ。太一の同級の」
「向こうも知ってるの」
茜は思わず父を見た。父は正面を向いたまま
「知ってる知ってる。飯田君のお父さんと俺がね、同級」
だったらなんでそのレジを選んだ、と茜は思う。その飯田君には姉がいて、姉は自分と同級だった。「紙袋にお入れしますか」という声を思い出す。レジを打っていた人の顔はほとんど覚えていなかったが、その言葉だけが耳に残って、茜はまた、紙袋くらい使ってくれてもいいじゃないかと父を詰りたい気持ちでいっぱいになる。
父は「しっかしなあ、子供置いてこんな時間にパートって、不況かねぇ」と同情するような調子で言ってから、思い出したように
「あ、さっきのお金はね、お父さんが払いましたから。もらったお金は、お小遣いにしときなね」
と、また幼子をあやすように言う。茜は、母からもらった千円札を、父の顔に突きつけて、ドアを開けて車から飛び降りたいと思った。
「外走ってるよ。冬メニューと一緒」
新島は、体毛のことを指摘されたときのように恥ずかしがる様子もなく、なんのこだわりもなくそう答える。生理であることを言うのか言わないのかという意味で質問した茜は、月経中に水に入らないのは、言うまでもなく当たり前のことだといった様子の新島の答え方に、自分がとてもいやらしい質問をしてしまったように思え、上気する顔をタオルで拭いながら「夏にそれって、きついね」と言う。タンポン使ったりしないの、という言葉が、喉まで出かかっていたが、ありえない、というような反応が目に浮かんで、尋ねることができない。
「大会あっても休むの?」と尋ねたのは早瀬だった。
陸上部は、月経中でも体調が悪くなければ休まない。もし体調が悪くても、大会に出たい生徒は、痛み止めを飲んで出る。思うような記録が残せなかった先輩の、女の機能を呪うような言葉を、茜も早瀬も何度か聞いていた。新島は少し考えて
「うちのガッコは基本休むよ。禁止されてるわけじゃないから、出たければ出てもいいと思うけど」
タンポンを使って? という問いが、喉の奥まで出かかっているのに、喉に栓をされたように、何かがつかえて出てこない。今までの会話の流れなら、口にしても大丈夫な話題だと思う。だがあえてそれを口にすることが、茜にはどうしても躊躇われる。
新島は、足の裏でプールの底をこすり、そのあたりが綺麗になったことを確かめて、数メートル移動する。早瀬と茜もそれにならって移動した。汗で、服の中がべたべたしていた。腰の回りの感触が、生理で粗相をしたときのようで、茜は落ち着かない気持ちになる。
「出てもいいって、どうやって」
早瀬が、ブラシの柄に顎を乗せて首を傾げる。新島は足でプールの底の感触を確かめながら「タンポンとか?」と言い、ブラシを構えて「あと、ずらす薬とかなかったっけ」と言う。
「タンポン!」早瀬は小声で、面白がるような声を上げた。茜はどきりとして手を止める。汗が、服の中で流れている。尻や大腿を、生温かい汗が流れて、一瞬、血が流れているような錯覚を覚える。移動したところも桜の下で、植物の腐った臭いなのか死臭なのか、一段と強い臭気が漂っている。茜は、似てもいないのに女子トイレの汚物入れのにおいを思い出した。月経血そのもののにおいではない、ナプキンをはがして捨てたときとは違う、一日二日経った汚物の、女であればそれと分かるにおい。ファミレスのトイレの汚物入れに、タンポンの袋が捨ててあるのを見たことはあるが、学校のトイレで見たことは、茜はまだない。
一年生二度目の水泳の授業の日は曇りで、中止かどうかはギリギリまで分からなかった。水泳の直前の休み時間は着替えで忙しく時間がないだろうと思った茜は、その一つ前の休み時間に、クラスメイトに「トイレに行こう」と言われる前に立ち上がり、教室を出て、特別教室しか入っていない別棟の最上階のトイレに向かった。廊下にもトイレにも人はいなかった。和式しかないそのトイレのいちばん奥の個室で、茜は片足をペダルに乗せ、片膝を突き出すような格好で下着を下ろした。
タンポンはなかなか入らなかった。ただの栓のようなそれは、痛みをこらえて歯を食いしばって押し込んでみても、タンポンの半分も入っていないのにそれ以上奥に入らない。腹に力を入れているわけでもないのに、中から押し返してくる強い圧力があった。腕時計を持たないので時間が分からず、焦りと痛みとが暑さに拍車をかけて、顔や股から汗が吹き出し、狭い個室は茜自身の臭気で満ちる。
ポケットに入れた説明書を、汗で濡れた手で開き、方向が間違っているのかと思い、おそるおそる引き抜くと、こすれるような痛みに呼応するように、赤黒い液体が滴り落ちる。しまったと思い膣に力を入れ、血の落ちた場所を確かめると、幸い、黒い短パンの上に落ちただけで、あとは大腿を伝って下に流れるところである。青色のジャージにつけばごまかしようがない。茜は、説明書を口にくわえてトイレットペーパーをちぎり、大腿の血液を拭き取り陰部を押さえ、また紙を取り血液が垂れたらしい個所に押し当てる。幾度が叩くようにして押さえていると、紙には梅の花弁のような丸いシミが二つできた。
茜は、入れる方向を確認しようと、おそるおそる右の中指を膣内に押し込んだ。指は、抵抗なくぬるりと入り、ほぼまっすぐの状態で指の付け根まで入る。一体どこでひっかかったのか分からなかった。
血が垂れないようにと、紙で周囲を押さえながら指を引き抜くと、指には血液だけでなく透明な粘液が絡みついている。それを見た途端、自分がとんでもなくいやらしいことをしたような、激しい羞恥心が湧き起こった。顔や頭が熱を持ち、目の奥がじんじんと熱かった。その指がにおうのか、陰部がにおうのか、月経血のむれるようなにおいが強くなる。これはただの生理用品だ、と言い聞かせるように、もう一度挿入を試みようと目を向けると、それはわずかに血を吸って赤くなり、先端の部分が少しだけ膨らんでいる。一瞬躊躇ったが、それでも指と同じくらいだと思い、赤く汚れた先端を膣口に押し当てた。
それは、やはりすんなりとは入らなかった。身体中が熱くなり、体勢が苦しくて息が上がった。自分の身体に押し返されながら力づくで押し込むと、熱さに似た痛みを感じ、激痛でもないのに、額に汗が滲むように涙が出た。指を差し込んだ方向を思い出しながら、奥に奥にと押し込む。指を第二関節まで入れたところが定位置なのだが、とてもできそうになかったので、タンポンが身体の中に入り切ったところで諦め、血と粘液で汚れた手と陰部をトイレットペーパーで拭き取ると、下着やジャージに血が付いていないのを確認して、服を上げた。
手洗い場で、普段誰も利用しないために固くひび割れてしまったレモン型の石鹸で両手をこすり、血がしみこんでいる爪の先まで泡立てて、しみついたにおいをそぎ落とすように洗うと、鏡を前に、もう一度血の汚れがないか確かめた。背中には、広く汗のシミができていた。体操服の胸元をつかんで熱気を外に逃がすように何度か引っ張ると、胸元から汗臭さと甘酸いにおいを含んだ熱気が立ちのぼる。そのにおいが、自分のものというより、今、女子トイレで息を上げながら性器に指を入れ、そこの水道で血と粘液のこびりついた指を洗った女のものだという気がして、潔癖な少女がふしだらなものに感じるような嫌悪の思いが湧き起こる。嫌悪を抱くのもその対象も、自分自身だった。
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