水面(短編小説)原稿用紙41枚
Umehara
水面-1
水の中に落ちた血は、溶けもせず、沈みもせず、かといって水の表面に浮いているでもなく、赤い糸を垂らしたように、水面から便器の底へと一直線に伸びている。血がそうやって水面近くに留まるのを、茜は自分の月経血でしか見たことがない。他の子の血も、こうやって落ちるのだろうか。汗ばんだ太腿の間から、下を覗きこんでいると、赤黒いかたまりがぼとぼとと落ち、水を赤く染めながら、溶けるように沈んでいく。底は、血で黒ずんで見えた。
茜は顔を上げて、手に持ったものに目を向ける。血を吸って羽のような形に膨らんだそれは、半分以上が白いままで、けれど血液は羽に赤い筋を作って、先の紐まで濡らしている。念の為にと敷いておいたナプキンは、重みを感じるほど血を吸っていた。
性器の中で押さえつけられていたかたまりが、ぼたりぼたりと落ちていく。
やっぱり漏れる、と声に出さずに呟いて、血と粘液で光るそれを見つめる。プールが中止になって本当によかった。自分のにおいか、それのにおいか、月経血の持つすえたようなにおいが、個室の中に満ちている。換気窓の前に置かれた、小型の扇風機の音と、蝉の鳴き声が聞こえる。紙で何重にくるんでも血がしみ出してくる羽を、ナプキンで丸めて捨てる。血と汗で汚れた手を拭きながら、茜は、来年、ノストラダムスの予言が当たればプールに入らなくて済むのに、と思っていた。
およそ九ヶ月振りに水を抜いたプールの底は、死体の一つや二つ隠れていても不思議ではないような顔をして、飛行機雲で四つ切りにされた空を見上げている。
熱気とともに立ちのぼってくるような悪臭の割には、底に数センチ残された水は冷たく、西日を受け汗の噴き出している身体に心地よかった。
人一人くらい埋まっていそうに見えたヘドロは、思いのほか浅く、腕に力を入れてブラシをこすれば、水色のプールの底が、濁り水の中に現れる。その表面をアメンボが泳いでいた。茜は構わずブラシを動かした。
春、プールの水面を埋め尽くした桜の花弁は、花が終わるころには錆びたように色を変え、プール開きが近付く頃には、藻で覆われた水の下に、どろりと溶けて沈んでいた。
校庭よりも一段高い位置にある桜並木は、中学の敷地を取り囲むように植えられているから、敷地の角にプールを作れば、そこに桜が入るのはやむを得ない。だが茜には、水面に浮かぶ花びらが、やがて汚く朽ち、それが水底に沈む過程を演出するために、桜を見上げる場所にプールがあるように思える。
プール掃除に駆り出された女子たちは、陸上部顧問の男性教諭がいなくなると、途端に黄色い声を上げ始め、男がいないのをいいことに、ブラシを持ったまま水着がどうの、だれそれのスタイルがどうのと話しだす。不用意に足をつくと、ヘドロが跳ねる。それを避けようと飛び跳ねた足元でまたヘドロが飛び散り、そのたびに嬌声のような悲鳴が上がる。白い体操服には、黒ずんだシミが点々とついていた。立ったままブラシを動かしていただけなのに、茜の腕にも汚れがついて、汗に溶けて広がっている。首にかけたタオルでそれを拭うと、腕の産毛が縮れて、肌にへばりつく。後ろから、水泳が好きか嫌いかという会話が聞こえる。茜は、顔の汗を拭いながら振り返ると「わたしきらい」と言い、「恐怖の大王、ほんと来てってぐらい、嫌い」と軽口を叩くような調子で言った。近くにいた女子が、甲高い声で笑う。七月まで、もう一ヶ月を切っていた。
プール掃除は毎年、水泳部と陸上部の一二年がすることになっている。男女に別れ、女子がプールの中、男子がプール回りの草むしりや掃き掃除をしている。男子が外なのは、プールわきに捨てられた、机や棚といった廃材の移動も含まれているからだと言われているが、一部の女子の間では、「体操着姿でプール掃除をする女子生徒の姿を見て、陸上部顧問が楽しむためだ」と囁かれてもいた。
「泳ぐのは好きだけど、スネ毛の処理が地味にめんどい」と言いだしたのは陸上部の早瀬だった。あけっぴろげな早瀬の言葉を面白がるように、笑い声が起こる。早瀬は、周りと一緒に笑ってから、
「でも実際どうしてんの。みんなどこまで剃るの」と、真剣ぶった口調で尋ねた。輪の中の女子たちは、中途半端な笑みを浮かべたまま、お互いを見回し、自分の腕や脚に視線を走らせる。短パンからのびた脚はどれも生白く、表面の産毛は汗に濡れ、西日を受けて光っている。
「新島、つるつるじゃね?」と輪の中の一人が小さく呟いた。水泳部の新島は、後輩の一年生と一緒に桜の枝の張り出している下を掃除している。毛虫が落ちてきそうで嫌だと、皆なんとなく避けていた場所である。新島は、自分の名前が呼ばれたのに気付いたのか、手を止めて茜たちの方を見て、何? と言うように首を傾げる。短くまっすぐな黒髪が、揺れて顔に影を作る。いちばん近くにいた茜が、何でもないと言おうとしたが、それより早く早瀬が新島に近づいて、近くにいた全員に聞こえるような声で
「新島ってさ、全身剃ってるの?」と言った。
新島は、何を言われたのか分からず一瞬きょとんとしたが、意味を理解すると真っ赤になり、「バカ早瀬」と言って、プールの底にブラシを押しつけて早瀬に向かって行く。慌てて逃げる早瀬の足を、新島はブラシで二度三度突く。早瀬は痛い痛いと笑いながら、「だって新島、腕も脚もつるつるなんだもん」と息を上げて言う。早瀬と新島の足元で、ヘドロが生き物のように飛び跳ねている。桜の下だからか、そのあたりだけヘドロは濃く、厚く、重たそうに見えた。茜は、プールサイドまで張り出した桜の、濃い緑の葉を見つめる。あと二ヶ月もしないうちに蝉が鳴く。プールサイドには、死んだ蝉が転がり始める。自分の足元のヘドロの中にも、たくさんの蝉が溶けているかもしれなかった。そのヘドロが、毛のない新島の足に絡みつく。一年生二人は笑いながら新島と早瀬を見ている。その腕は、細かい体毛で覆われていた。
小学校の修学旅行で、生え始めたばかりの陰毛をどうするか、茜はずいぶん悩んだ。今はもう、それで悩むことはない。ワキは剃る。下は剃らない。もともと体毛の薄い茜は、一年の夏もワキしか剃らなかった。濡れて汚れた、自分のスネに目を向ける。相変わらず薄かったが、去年よりも色が濃くなっているように見えた。
早瀬は「ごめんごめん」と謝りながらも、懲りずに「腕も脚も全部剃るの?」と聞く。
新島はしぶしぶというように「先輩が昨日剃ってたから、自分も気になって剃っただけ」と言い、水泳部でも、腕や脚を剃っているのは半分もいないと言った。
「早いなあ、私まだワキも剃ってないよ。ほら」
片腕を上げてわざわざ見せようとする早瀬を、新島と茜が慌てて押しとどめた。
中学一年の水泳の前、体毛をどうしたらいいかと不安がっていた茜に、ワキだけ剃れば十分だと言ったのは母だった。一年の水泳の授業でクラスメイトを見回すと、腕や脚まで処理していた子は半分くらいで、毛が濃いことを気にしている子や、おしゃれなグループに属している子は剃っているらしかった。体毛は、ワキだけ剃れば問題なかった。問題があったのは、別のことだった。頭から溢れる汗が、顔を伝って鼻の先から水の中に落ちる。水はねっとりしているように見えるが、汗の落ちたところから綺麗な波紋が広がった。服の中はとっくに汗びっしょりで、下着は絞れば水が出るのではないかと思う。生理じゃなくてよかった、と唐突に思った。
新島と早瀬は毛の話を続けている。除毛クリームはどうだろう、高いカミソリの方が肌にいいのか、陰毛ははみ出る場合のみ切るか剃るかすればいいのか。
話がひと区切りついたところで、茜は手を動かしたまま顔を上げ、
「水泳部って、セーリのときどうするの?」と尋ねた。
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