第2話



 しとしとと降る雨の音。木の葉に当たり、土に染み入る音が聴こえる。

 頭上より降り注いでいる雨水が、私の剥き身の身体をゆっくりと伝う。

 周りには砕けた木々の破片が散乱しており、蜘蛛の巣も大きなものが創られている。

 そんな、ひどく寂れ、壊れ果てた小さな木造の建物の中で神である私は一人、身を潜めていた。

 本来の私であればこのような朽ち果てた場所には目も向けなければ、長居もしないだろう。だがこうなってしまっている以上、そうも言っていられない状態なのだ。

 ぽつぽつと雨粒が降り注ぐ頭上を見上げれば、砕けた屋根から灰色の雨雲がびっしりと空を覆い尽くしているのが見えた。

 あの瞬間の後――雌型の「御使い」が私の首に剣を振り下ろし、私の身を粉砕して捨てた後、私は砕けた身体を繋ぎ直し、新たに私の身体を再構築した。

 だが再構築した身体は幼く、そのうえ私は私の外殻たる「帯」であさえ新たに作り直すことのできない状態だった。

 殻のない私。それも剥き身の身体もヒトの子供と大差のない幼体。これでも頭部だけで浮遊する羽目にならずに済んだだけまだ幸いではあるが――こんな姿を他の神や魔なるモノに見つけられでもしたら餌と認識され、捕食されてしまいかねないだろう。

 そんな状況にあった私は「御使い」たちに見つからないよう、私は故郷とも呼べるその地を捨てて、大陸を渡り、海を越えた。

 幼くなってしまったこの身体でそのような荒業を行うことは、容易いことではなかったが、それでも私はそうした甲斐があったと、自負している。何故なら私がたどり着いたこの場所は、ひいてはこの列島の土地は、神や魔が無差別に入り混じる緑豊かな場所だったからだ。

 神と魔が無差別に入り混じる列島。私の知る限り、神と魔は相反し、互いに駆逐しあうような間柄の存在であり、住む場所も明らかに区分されていた。にもかかわらずこの列島ではそれらが混じり、むしろ共存しているのだ。

 そんな理解しがたい光景が広がる列島の状況に戸惑っていた私だが、降り立ってしまえばすぐさまその理由が分かった。

 何故なら、私たち神や魔なるモノと呼ばれる存在に対して力を与える神気が、地脈を通してあらゆる場所へと吹き出していたからだ。そして、だからこの列島のモノたちは、自分たちを存在させるための力を奪い合う必要が無く、それ故に相反したり、駆逐したりすることなく共存できているのだ。

 おそらく地質や地殻の造りがこのような状態を作り出しているのだろう。特に年代としても、噴出する巡りの頃合いに違いない。

 そんな状況下の列島。山々が連なる谷部分で神気の吹き出し口を見つけた私は、ソコに身を潜め、今に至っている――。

 灰色の雨雲が張り付く空から目を背けて、私は顔を下ろす。

 幼くなってしまった自身の身体。その脆弱とも言える身体を庇うように、私は自身の膝を抱える。何時もなら外殻たる「帯」で私の身を包むのだが、再構築できないほど力を失ってしまっている以上、私にはこうするしかないのだ。

 建物の内部で細々ながらも噴出している神気と繋がり、身体を癒していれば、私の中にこの列島に住まう者たちの総体的な情報や言語知識が流れ込んでくる。

 どうやら私が今居るこの廃れた建物は「社」というもので、神を祀る場所らしい。そして、その「社」でヒトに崇められる神、あるいは強固な念で取り憑いた魔なるモノは、その「社」と繋がっている神気を管理ことが出来るようだ。だが管理されていない「社」から噴き出る神気は、力を得たがる魔なるモノを引き寄せる傾向があるらしい。

 加えて、力を得たがる魔なるモノや、餌に飢えた魔は凶暴化しやすく、人里に下りた場合、田畑を襲ったりヒトを襲ったりすることも儘あるらしい。そのうえ、その状態で神気を得れば荒神なるモノにも変化しやすいという。

 幸運にも、私が居る此処は魔なるモノにも見つかっていない場所らしい。だが、何時なんときそれらのモノが現れるか分からない以上、私は出来るだけ力を蓄えていた。

 魔なるモノに襲われた時、私がそれに抗うかどうかはさておき、此処から逃げ果せられる程度の神気は蓄えておくべきだろうから。

 ――魔に喰われて、それらの糧となる。それもまた輪廻転生の、命の巡り――と、言ってしまえばそうであり、仕方のないことではあるのだが。それでも命の巡りの輪へ自らの意思で飛び込むのは、あまり推奨すべきことではないだろう。私自身、他殺も自殺も生贄も推奨はしていない神なのだから。

 だが、今の私には誰にも求められていない神だ。

 そんな私が現存していたところで、一体誰の救いになるというのだろう。

 ヒトの救いの形は万別であり、ひどく移ろいやすい。

 そう――ヒトの心は移ろいやすいのだ。

 私が至った結果として「御使い」たちが私を邪神と罵り滅ぼそうとしたのも、私の信者たる人々が殺されたのも、ヒトが求める救いのかたちの変化が根源。すなわち、総対的な命の巡りに混じり繋がりあうのではなく、個を主体とした魂の救い、一個人の幸福と報いのみを求めるという心の移り変わりによるものなのだ。

 ヒトが抱く心の移り変わりは、神たる私にとってめまぐるしく早い。

 それはヒトの命が私たち神より短く、それ故にヒトたる彼らはその尺度に合わせるようにして心を移り変わらせているからに他ならないことは私も理解している。故にヒトは喜びを感じた時、怒りを抱いた時、哀しみで涙した時、享楽を身に受けた時、愛を知り、愛を与えた時。ありとあらゆる瞬間において、その彩りにあわせて心を移り変わらせることが出来るのだ。

 そしてそれ故に、果ての見えぬ魂の行く先に「不安」を覚え、その「不安」を解消するために「神」の座に坐る私を創り上げ、私の在り方を定め、崇め、救いを求めた。

 だから、人々が新たな救いを求め、「御使い」からなる新たなる「神」に求めたとしても。私の信者たちの求める救いの形が、一個の魂の救いへと変わってしまったとしても。彼らが私の在り方を否定し、私を邪教の神だと糾弾し始めたとしても。最期の瞬間まで私を信じてくれていた者たちが殺されるに至ってしまったとしても。それは致し方のないことなのだ。

 そう、私の信者や私自身にされた仕打ちこそ理不尽ではあるだろうが、その行いは決して忌むべき行為ではない。私や私の信者たちにとってはその仕打ちが定めであり、巡りであり、必要なことなのだろうから。

 だから私は私を不要とした彼らを恨まない。妬まない。嫌悪しない。心の移り変わりは仕方のないことであり、必然なのだ――、と結論付け、それ以上の事を私は考えないようにした。

 穴の開いた社の天井からは相変わらず雨水が落ちてきており、ぱたぱたと音を立てて私へと落ちる水滴は、私の目尻を伝い、頬をなぞる。

 ほろほろ、と涙のように次から次へと零れ落ちてゆく雨水をぬぐうことも無く、私は抱えていた膝を更に固く抱きしめる。

 ヒトは、私にとって慈しむべき創造主だ。

 ヒトの心の移り変わりは妥当であり、自然的だ。

 例えそれらがもたらす行いが理不尽であろうとも、私は創造主たる彼らを恨まない。妬まない。嫌悪しない。されど。されども、ほんの僅か、ヒトという種に対して私は落胆の念を抱いていた。

 嗚呼、今はただ。ゆっくりと眠りにつきたい。

 傷つき、落胆を抱くこの身体を癒したい。

 ぱたぱたと音を立てて降り注ぐ雨から逃れるため、動く気さえ起きない私はゆっくりと自身の瞼を閉じる。例え、このまま誰にも知られることなく消えてしまうことになっても。このまま誰も私を求めず、私に望まず、私に願わず、私に祈らず、私を知らなくとも――それもまた、私の巡りなのだろうから。



「がさがさ」

 濡れた木の葉が擦れる音がした。

「ぱしゃん」

 水たまりが弾ける音がした。

 聞こえた不自然なその音に触発され、私は閉じていた瞼を開く。

 朽ち果てた社の天井から覗く空には既に灰色の雲は無く、澄んだ青が広がっていた。

「がたん」

 社の扉――最早壊れ果てて、扉と呼ぶには聊か不相応なモノが音を立てる。天井を見上げていた顔を下ろし、そちらの方を見れば、一人の子供がそこから顔をのぞかせていた。

 少年と呼ぶには幼い子供。身なりはこの列島に住む村人や子供のソレと変わらない地味な色合いの直垂だ。

 どうしてそんな子供が、ヒトから忘れさられているはずのこの場所へやって来たのだろうか。もしかしたら私が来る以前からこの子供は此処に入り浸っていたのかもしれない。

 だが私はその子供に場所を譲るようなことはせず、ただ目を背けて先程までと同じように瞼を閉じた。

 どうせヒトには、神たる私の姿は見えやしないのだから。居ても居なくても、何も変わりはしないのだ。

 がたん、と再度扉が音を立てる。きしきしと木のきしむ音を立てながら子供が社の中へと入ってくる。その音は徐々に私の方へと近付き、ついにその子供は「……だいじょうぶ?」と声を発したのだ。

 一体誰に対して、その子供はそう言ったのだろう。子供の発言をいぶかしく感じた私が目を開けば、目の前には子供が居て、私をじっと見下ろしていた。そう、しっかりとその茶色の瞳に私を映して、私をその眼で認識していたのだ。

「……お前には、私が……見えているのか?」

 半ば信じがたい、現状に僅かに自身の声が震えているのが分かる。

「……? みえてる、よ?」

 その子供にとって私が見えるという事は当然のことなのだろう。私が発した問いかけの意味を理解できていないその子供は、何のためらいもなく私にその小さな手を向け、私の頭を撫でてきた。

 ――この子を、なぐさめなくちゃ。

 ――ないているこの子を、なぐさめなくちゃ。

 私に触れる子供の手から、その子供の思いが伝わってくる。

 そうか、私は泣いていて、この子供は私を慰めてくれているのか。

 子供から伝わってくるその思いと行いに、漠然とそう結論付けた私。彼の掌から伝わってくる彼の優しい思いに、私はゆっくりと息を吐いた。

 この子は、とても「優しい」子だ。

「……ふく、きてないけどさむくないの?」

「寒くはない」

 ヒトと、そもそも他者とまともに会話をしたことのない私が返したその言葉はひどく冷たいモノだっただろう。けれどその子供は「ふぅん、そう」と、すこし淋しげに言うだけで、私の頭からその「優しい」手を離すことはなかった。

 ぽんぽん、と母親が小さな子供をあやし、慈しむようにする手つきと同じようにして私を撫でる子供。神たる私に対して何たる不敬、と判断するべきところなのかもしれないが、私はそれに抵抗することも無く、彼の手の赴くまま彼の好きにさせている。

 少なくとも、この子供が私に向けてくれる「優しい」思いは心地よかったし、なにより――そう、なにより私を見て、触れるヒトは、この子供が初めてだったから――私はどう行動するべきなのか分からなかったのだ。

 おそらくこの子供も、私が神であるとは認識してはいなくとも、ヒトでは無いことぐらいは分かっているだろう。

 「優しい」手で私を撫で続け、慰めてくれているその子供は自らを「ナツヲ」と名乗り、私の名を問うてきた。

「私は繋ぐ神、イーヴァ・ニーヴァ」

「いーば、にーば? ……かみさま、なの?」

「嗚呼。私は神だ」

 私の名を口にした彼の言葉は拙い発音であったが、構いはしない。私の故郷とも呼べる土地とこの列島の人々の言葉は異なり、それ故にこのヒトの子にとっても私の名は口にしたことのない発音だったのだろうから。

 そんな彼ははにかみながら、そして拙いながらも「いーばは、かみさま」と私の名を呼んでくれた。

 ――ソレが私とナツヲの出会いであり長く続く巡りの輪の始まりとなることを、この時の私とナツヲは知る由もなかった。



 私が居座っているこの社には、子供が遊ぶための道具は無い。加えて私も他の者と話をしたことが無いため、会話もまた成立しがたい。それにも関わらず自らをナツヲと名乗ったヒトの子は、私と出会ったその日から毎日と言っていいほど頻繁に、私の元へと訪れてきていた。

 一応彼に私の名を名乗った際に、神であるとも告げたはずなのだが、彼は私を同じ年ごろの子供か、自身より少し幼い子供と認識している節がある。というのも、私に触れるナツヲの「優しい」手から伝わってくる思いは、いつだって私を心配し、慈しむようなモノばかりだからそう判断せざるを得ないのだ。

 実際、私の身体はヒトの子と変わらぬ幼体であるから、彼が私へ向行ける思いに「不平」や「不満」はない。むしろ当然の事だろうと納得さえしてしまう。だが、「神である」と自称している以上、もう少し私を「神」として扱ってくれてもいいように私は感じるのだ。

 そんな碌に会話もできない私と、廃れた社しかないこの場所でナツヲがすることと言えば、始終膝を抱えて蹲っている私の隣に腰を下ろし、独り言と大差ない話を私に聞かせてくれたり、私と共にぼんやりと空を眺めていたりする程度。

 一体それのどこが「楽しく」、此処へ来る理由になっているのか。私には理解が出来ない。けれど私に触れる彼の手は何時でも「優しい」ものだったから、おそらく彼はこの現状に不平はないのだろう。

 そしてそんな彼が、稀に思い立ったようにすることと言えば「いーば、いっしょに村へ行ってみない?」という誘いだった。数日に一度の頻度で私を自身が暮らす村へといざなおうとするナツヲ。だが、私がその誘いに答えることはなかった。

 そう、たった一度。ナツヲに「いーばに、さくらの花を見せたいんだ。おねがい」と涙ながらに請い、願われた時以外は。

 そも、ただ単純に誘われているだけならばいざ知らず、ヒトの望みより生まれた私はヒトに願われたり、請われたりしたが最後、断ることに躊躇いを覚えてしまうのだ。

 春の陽気が満ちる中、出会った時と変わらない直垂姿のナツヲに手を引かれ私は廃れた社から足を踏み出した。ヒトの子たるナツヲの歩調と高さに合わせるため、浮遊するのではなく、自らの足で私は地を踏みしめ歩く。

 私とナツヲの差はさほどはないが、隣り合って歩いていると私の方がナツヲより少しばかり小さい。それを鑑みれば、ナツヲが私を「神」として扱わず、むしろ「心配」や「慈しみ」を向けるのも頷けた。

 ヒトは、自らより劣る弱者には優しい。それは自らの支配欲や劣等感を満たすためであり、ヒトという種が生き残っていくためにも必要な生存本能のような感情の動き。だからこそ、ヒトの子であるナツヲもまたそのくくりに囲われ、弱者たる私を気に掛け「優しく」しているのだろう。

 一歩一歩、ナツヲとほぼ同じ歩調でナツヲが住まう村へとおりていく私。私の手を引くナツヲからは、「焦燥」と「喜び」の入り混じった感情が伝わってくる。

 どうして彼は「焦り」を抱くのだろう。どうして彼は「喜び」を抱くのだろう。

 ヒトの心の移り変わりや考えていることが多少分かりはしても、ヒトではない私は彼のヒトたる心のすべてを理解することは出来ない。だから私は、ヒトが至った心の結論にただただ「仕方がないのだ」と、終止符を打つしかできないのだ。

 同種たるヒトを殺したヒト。

 同じ信仰を胸に抱いていたにもかかわらず離反したヒト。

 私を創ったにもかかわらず、私を不要と捨てたヒト。

 その全てのヒトの心を、私は理解できない。だから、仕方がないと――諦め、落胆し、それ以上の事を考えないようにして今に至っている。

 だが、そんな私の考えを知らないナツヲは無邪気な笑顔を私に向け、その「優しい」手でヒトではない私の掌を握ってくれている。

 嗚呼、今はソレで良いではないか。ヒトの心のすべてを理解こそ出来なくとも、感情の共有を経て、私は彼が何を思っているのかは分かるのだから。

 ナツヲの優しい手に引かれるまま、村に流れ込む川沿いで咲く薄桃色の桜の木までやって来た私たち。桜の木そのものは小ぶりながらも、厳かな雰囲気を漂わせており、ナツヲが私に見せたがるのも何処か頷けた。

 この木はもうじき、神が宿る。私のような祈り、願い、望まれる神ではなく、純粋にこの桜の木を守るためだけの神。場所が違えばおそらく精霊とも呼べる存在だろう。そしてナツヲは無自覚にもソレを感じ、私にその様を見せてくれようとしたのだろう。

 私の傍らでそんな桜の木を眺めるナツヲ。その「優しい」掌から、ゆっくりと「喜び」と「期待」の感情が私へと伝わってきた。

 ――いーばといっしょにさくらが見られて、うれしい。

 ――もっと、いーばといっしょにいたい。

 彼のその思いが伝わってきた瞬間、私が胸に抱いていたヒトに対する落胆の意思が、僅かに揺らいだ。

 小さなヒトの子が喜んでくれている。

 私の傍に居るナツヲが、私ともっと一緒に居たいと望んでくれている。

 それも誰にでも出来るような、なんてことのない私の行いで。

 ソレを再認識した瞬間、私は僅かに満たされたのだ。

 私を望み、私を創った人々。そして私を不要とし、私の信者を迫害し、あまつさえ殺した人々。そんなヒトを、人類を、私は恨んでいるわけではない。不要になるならどうして作り出しなどしたのだと憤慨するつもりもない。ただほんの僅か、ヒトという種に対して落胆の念を抱いていたことは確かであり、ヒトが刻む時の流れや、心の移り変わりがひどく理不尽であるという認識を抱いてはいた。

 ――されど。嗚呼、されど心も巡り、還ってくるのだ。

 時代も、場所も、関係なく。「繋ぐ神」たる私が掲げていた信条でもある「輪廻転生」と同じように、同種のヒトの心は巡る。そして私の「喜び」の感情もまた巡り、私へと還ってくるのだ。

 人々に望まれ、創られた私。その人々が私の行いで「喜んだ」からこそ私は彼らと同じように「喜んだ」し、そう在れていた自分を誇りだと捉えてさえいた。

 そんな覆しようのない、私が私足り得るための根幹を改めて刺激された私は、風に舞う桜の花びらを取ろうと私から手を離したナツヲを抱きしめた。

 互いの幼い身体――衣服という隔たりのない私の素肌に触れる小さなナツヲの身体は柔らかく、温かい。

 じんわりと私の身体に染み入るナツヲのぬくもりに、私は静かに瞼を下ろす。

「いーば? くすぐったいよ」

 彼を抱きしめる私の髪がナツヲの頬に触れていたのだろう。ほんの少し、私の腕の中で身を捩る彼がクスクスとあどけない声で笑った。

 ――ヒトが嬉しいと、私も嬉しい。

 だからこそ目の前で喜ぶヒトの子――ナツヲが嬉しいと、私も嬉しいのだ。

 再び私が瞼を開けば、喜びに満ち、笑顔を見せる幼いナツヲが私の眼に映る。

 嗚呼、ヒトの子である彼も、すぐに大人になり、その優しい心を別のかたちへと移り変わらせ、巡らせるだろう。むしろ大人になる前に私のことなど見えなくなって、何時しか忘れてしまうに違いない。

 それは少し理不尽ではあるけれど、決して忌むべきことではない。命が巡るのと同じように、心もまた巡り、還ってくるのだから、落胆すべき事柄ではないのだ。

 物事の巡り、心の巡り。それを体感し、知った私は、否、それを知った私だからこそ、このかけがえのない一瞬一瞬を噛みしめ内に守っていくべきなのだろう。「楽しかった」という記憶や「嬉しかった」という共有された思い出だけは巡ることなく、私の中に留まり続けるのだから。

 それにヒトの一生は、私たちとは違い儚く短い。そんな彼らの生きざまを見守り、見届けるのもまた神たる私の役目。

 幼体姿の私の腕の中で「いーば」と、何度も私へ声を掛けるナツヲ。

「私の名は、イーヴァ・ニーヴァだ」

「イーヴァ、ニーヴァ……?」

「そうだ、上手だナツヲ」

 上手く私の名を呼ぶことのできたナツヲを手放し、私は彼の頬に触れる。

 柔らかく、それでいて温かな頬。薄く紅をさす小さな耳。触り心地の酔い滑らかな髪。それらにゆっくりと指を滑らせ何度も撫でつけていれば、私に触れられているナツヲがハッと何かに気付いた表情を見せた。

「イーヴァが、はじめてさわってくれた!」

「ふむ……、そうだったか?」

 覚えていないな、と不確かな答えをナツヲに言いながらも、私はその言葉が正しいことを知っている。

 そう、私はナツヲから触れてもらうことは度々あったが、私自らがこうやって触れるという事はなかった。もとより神たる私を視認する者は愚か、言葉を交わす者も、こうやって触れ合える者も私の傍に居なかったため、自らの意思で触れるという発想に至ることができなかったのだ。

 自らの命に救いを求め、私を望みながらも私と触れ合うことのできない人々。そんな彼らに寄り添い、見守ることしか知らなかった私。互いに隣り合ってはいても、私たちの間には大きな隔たりが何時も存在していた。

 されどその隔たり容易に飛び越えたナツヲは私に触れた。そして私もまたナツヲに、ヒトに、触れた。それも何の疑問も抱くことなく自然に、自らの意思で触れたのだ。

「イーヴァ」

 私に抗うことなく、私の手に弄り回されているナツヲは私の名を呼ぶ。

 嗚呼、嗚呼。やはり私はヒトが「好き」だ。

 いくらあり方を否定され、糾弾され、故郷と呼べる地を追われても。

 いくらヒトの刻む時間が短く、その心の移り変わりが早すぎても。

 いつか彼が私の事を忘れ去り、命の輪へと還ろうとも。

 私は彼らの傍に、「喜び」を抱くナツヲの傍に在り続けたい。



 そんな、私にとって大いなる転機となった春の一時を境に、ナツヲと私の関係はより親密なものへと変わっていっていた。とは言っても、今まで通り社へ遊びに来るナツヲを見守るだけではなく、自らの意思でナツヲの隣に座ったりする程度の変化でしかないのだが。

 春の陽気と梅雨時期の湿気が移ろいゆくのをナツヲと共に感じ、夏の盛りに入り始めた頃、ナツヲが急激に痩せはじめた。

 もとよりふくよかではない子ではあったが、それでも骨の形が露骨に目立ち始めてきているとなれば、神でありながら、ヒトの子であるナツヲの傍に在り続けていたいと「望む」私は聊か「心配」になった。

 だが、どうしてそうなっているかをナツヲは決して口にしなかった。むしろ幼いながらに気丈に振る舞おうとしているのか、乾いた口からこぼれる言葉は何時もの当たり障りのない平穏な日常だとかその類ばかりだった。

 だが、彼の本音を知りたいと、そう「思ってしまった」私は、彼に触れ、その心に繋がる。そうすれば、ナツヲのなかで渦巻く「不安」が私へと伝わってきた。

 ――水がにごっていて、みんなのぐあいもわるい。

 ――村のはたけがケモノにあらされて、みんなとてもこまっている。

 ナツヲが抱いている、「不安」。それは村の畑を襲う獣や、濁り始めた水。それらの発端はおそらくこの社や、その周囲から噴出している神気の力を求めて現れた魔なるモノの仕業であり、影響だろう。

 餌に飢えた魔なるモノは凶暴化しやすく、人里の田畑を襲ったり人間を襲ったりするようになるという知識は、以前より神気伝って私の中へと流れ込んでいた。だが、まさか私が居座る社の、それもナツヲの村でそのようなことが起きてしまうとは。

 今回は未だ人間が襲われてはいないらしいが、それらが人間を襲いはじめるのもおそらく時間の問題だろう。

 ――特に、神たる私を「視る」ことのできる眼を持つナツヲは、他の人間よりも幾ばくか狙われやすいに違いない。

 餌に飢え、凶暴化した魔なるモノにナツヲが襲われる。ナツヲが奪われ、殺される。ナツヲが私の手の届かない命の輪の巡りに乗ってしまう。きっと彼は還って気はするだろうが、その命は、その魂は、決してナツヲのソレではない。

 そんな未来を私は予測してしまった私は、そのような結果に至ることだけは避けなければと判断する。命の巡りとしては順当なのかもしれないが、そのような結果は見過ごし難い。

 だがそう判断しはしても、この社に祭られる神ではない私は、その予測出来得る未来を回避させる力を持ち得ていないのだ。そう、社に住まう神、社に祭られる神であるとヒトに承認されていない脆弱な、それも幼体姿で外殻たる帯さえも未だ再構成できずにいる私では、人々を魔なるモノから守るどころか、ナツヲ一人でさえ守ってやることができないのだ。

 私はただ此処に居座っているだけの、野良神とでもいうべき存在でしかないのだから。

 されど――もしヒトに、村人に、あるいはナツヲに、私をこの社の「神」だと承認しさえされれば、私は彼らを、ひいてはナツヲを魔なるモノから救ってやることが出来るのだ。

 私を望み、私を創った人々の心の移り変わりによって不要とされ、一時はヒトに対して落胆の念を抱いていた私。だが今はナツヲを通じて再び人々の傍に在り続けたいという念を抱いている。

 そう、私とて人々の望みを叶え、救うことに異論はないのだ。むしろ、ナツヲに対してならばいくらでもその望みを叶えてやりたいと自ら望みさえしている自負もある。

 私はもう一度、ヒトに望まれる神になりたい。

 否、私はナツヲの望みを叶え、ナツヲに喜びを与えられる神になりたい。

 彼は今までの信者たちとは違い、私そのものを見てくれる。私を認識し、私と会話し、私の行いに喜び、私に感謝をしてくれる。だから私は、彼のために。ヒトの子であるナツヲを守ってやりたいし――そのためにならば卑怯な手を使うことを厭わない。

 この近辺で起きはじめている事の本質を知らない、ただのヒトの子であるナツヲに対して私は「なあ、ナツヲ。私はこの社に住まう神なのだろうか」と、私欲に塗れた卑怯な問いかけをした。

「?」

 どうして今更そんなことを訊くのだろう、とナツヲが思っているのが私へ伝わってくる。けれど彼はそのことをおくびに出すこともなく、ただ、しばしの間不思議そうな顔をして私を眺めていた。

「……イーヴァは、ここの神さまだよ?」

「そうか、ありがとうナツヲ」

 ――私を此処に住まう神だと承認してくれて。

「……?」

 何も知らないヒトの子たるナツヲは私をこの社に住まう神だと「承認」した。そのことにより私は正式にこの社や周囲に噴出している神気の管理が可能となる。

 例え問いそのものが卑怯であっても、この承認は村人たちを、ひいてはナツヲを守るため。そして、ナツヲの内なる望みを叶えるために必要なことなのだから、誰にも文句は言わせない。

 私を此処の神だと承認したことを知らないナツヲが村へと帰った後、私は手始めにこの土地一体にある水から瘴気を取り払う作業をし始めた。

 根本として、瘴気――すなわち魔なるモノの粗悪な影響を受けた神気の成れの果てが水に混じっている状態は良いとは言い難い。何しろ水は植物には勿論、山に住む動物や人間が生きていくには欠かせない代物であり、必ず巡り、還ってくる代えの利かない代物なのだ。それに水に混じる瘴気は、爆発的に広まり易い。

 しかもその瘴気を、母体を通して蓄積しやすいヒトの胎児は最悪胎の中で死に至るか、生まれたとしても「悪鬼」なる存在に陥りやすいのだ。

 命の巡りや輪廻転生の信条を掲げている「繋ぐ神」たる私。それもナツヲや村人たちを守ってやりたいという念を抱いてさえもいる私にとって、そのような負の連鎖は看過し難い。

 故に、私は彼らを救ってやるため、神としての力を振るう。

 幼いヒトの子であるナツヲ以外が訪れることのない寂れた社の中で、私は一人、彼らに救いを与えよう。



 ――そんな経緯の元、ナツヲが私を社に住まう「神」だと承認してしばらく経った頃にはナツオの頬にも肉が戻り、痩せた印象は綺麗に拭い去られていた。それに昼間に触れたナツヲの思いからも、最近は村のはたけが荒らされたり、水の状態も解消されてきていたりするようだった。

 相変わらず「優しい」手で私に触れてくれるナツヲは、その状況に安堵しきっているらしい。彼から伝わってくる思いに「不安」は紛れてはいなかった。

 だが完全にこの地域から魔なるモノが取り払われたわけではないことを、私は知っている。魔なるモノである彼らは今、これ以上飢えないために体力を温存しているだけに過ぎないのだ。

 社に住まう「神」としてナツヲに承認された私が地脈から噴出する神気を管理し始めたことにより、四散していた神気を得ることのできなくなったそれらは今、ひどく飢え、弱っている。だが、此処から立ち去る気配は一向に見られない。

 私としては、神気の恩恵を受けられなくなったそのモノたちは此処ではなく別の場所へと直に移動するものだと予想していたのだ。そうした方が彼らにとって簡単であるし、わざわざ飢えという苦痛を味わってまでこの土地に固執する理由が、私には無いように感じられたから。されど彼らはこの地から離れることは無かった。

 よほどこの地が気に入っているのか、あるいは、この地でなくてはならないナニカが在るのか。魔なるモノの思考もまた理解できない私には知りえないことだが――、現状を鑑みるに、これ以上彼らを此処に留まらせておくべきではないことは、容易に判断できた。

 飢えた物は、凶暴化しやすい。それは魔なるモノだけに通ずることではなく、獣や、思考する力のあるヒトでも陥りやすい事柄だ。

 故に、凶暴化した魔なるモノが、最後の力を振り絞り村などの人里で暴れはじめる前に、彼らをこの地域から追い出す必要があるのだ。

「あまり、暴力的なことはしたくないのだがな」

 今は既に黄昏時となり、訪れてきていたナツヲも既にこの社には居ない。故に、一人になった私はそう呟きながら、熱心に神気を身に取り込んでいた。

 というのも、現状において社からの神気とナツヲ一人分の認知だけでは私の身体が万全には成りえていないからだ。そう、社を管理することで得られる潤沢な神気を得てしても、私の身体は一向に幼体のままであり、成体になることは愚か外殻たる帯も未だ再構成できていないのだ。

 ナツヲから得られているものが信仰心ではなく「認知」止まりのものでしかないのも起因しているだろうし、もしかしたらナツヲからのその認知が私の姿を幼体として固定してしまっているのかもしれない。

 だが、弱体化していても凶暴化している魔なるモノ。それも複数を相手取るにはやはりヒトの子供と大差のない姿で対峙するのは躊躇われる。そもそも私はそう言った荒事には不向きな神なのだ。

 何時か来たる魔なるモノたちの襲撃に備え、もくもくと社に繋がる地脈から神気を吸収していると、「――たすけて」というナツヲの声が届いた。

 音としての声ではなく、意思としての声。それも私に対して信仰心のないはずのナツヲの意思が、直接触れていないにもかかわらず私に届いているという事は、もしや、ナツヲの身に危険が迫っているのではないだろうか。

 ナツヲの元へ、行かなければ。

 瞬時にそう判断した私は社から出て、上空へと飛ぶ。そして茜に染まる空を渡り、村の方へと移動すれば、そこからは男たちの低い声がいくつも聞こえてきた。しかも男たちの集まる場所には不穏な黒の瘴気も漂っている。

「ナツヲ!」

 一声、彼の名を呼ぶが返事は無い。おそらく遠すぎて私の声が聞こえていないのだろう。高度を落とせば、男たちの中心にナツヲが居た。しかも彼は瞼や額の部分を重点的に傷つけられ、何時も着ている直垂は土と泥にまみれて汚れている。

 まさかヒトが、同種たるナツヲを襲っているのか?

 一瞬そう至った私ではあったが、ナツヲを取り囲んでいる男たちのその距離と様子がどうにもおかしい。

 もっと彼らの様子を近くで見ようと、彼らの頭上付近まで近付けば、ナツヲの周りをイノシシたちが取り囲んでいるのが見えた。それもただのイノシシではない。イノシシの死体に取り憑いた魔なるモノたちがナツヲの周りを取り囲み、襲おうとしているのだ。

 おそらく、私が神気を管理し始めたことにより著しく餌を失った魔なるモノたちが、飢えたその身の渇きを癒すため、ヒトを襲い始めたのだろう。しかも私が予測した通り、彼らはナツヲの目を餌の類と認識し、標的として。

 そして、その標的となってしまったナツヲをイノシシたちの群れから救い出そうと、男たちはしているのだ。だが、彼らは農具や狩猟道具を持って対抗しようと集ってはいるものの、手出しの仕方にかなり戸惑っているらしい。

 周りに居る男たちを時折威嚇していた魔なるモノたちも、その男たちの戸惑いを察知したのだろう。彼らは一斉にナツヲへと視点を定め、その身をナツヲへと跳びかからせた。

「たすけて、かみさま……!」

 誰とは言わない。けれどナツヲが思い浮かべ、願い、祈り、望んだ神の姿は間違いなく私の姿だった。

「――お前がそう、望むなら」

 ナツヲの目の前に降り立ち、そう言葉を返した私を中心に風が強く吹き荒れる。

 ナツヲが、私を求めてくれている。

 ナツヲが、私を望んでくれている。

 ナツヲが、私に祈ってくれている。

 そんなナツヲからの強い望みを向けられた私は、彼に跳びかからんとしていた魔なるモノたちを勢いよく――外殻たる「帯」で薙ぎ払った。

 「帯」が生み出す風圧も相まって更に吹き荒れる風の中心に在る私の姿は、幼体の形から、本来あるべき成体の形へと戻っていた。おそらくナツヲからの向けられた、信仰心として十分に足る強い願い、祈り、望みが私の姿を元に戻すに至らせたのだろう。故郷とも呼べる地で失った外殻たる「帯」もしっかりと再構成されている。

 私の「帯」に薙ぎ払われ、私たちからそれなりの距離を取らされた魔なるモノたちを牽制しながら、私は私の背後に居るナツヲに振り返る。

「イー、ヴァ?」

 震えた声のナツヲが、私の名を呼ぶ。幼体の姿しか知らないナツヲにとって、今の私の姿……私本来の姿は、私だと信じがたいのだろう。

「ああそうだ、私はイーヴァ・ニーヴァだよ、ナツヲ」

 そう言って私はやわらかなナツヲの頬に触れる。瞼や額には魔なるモノたちに傷つけられたのだろう、赤い血液をしみださせるそこはひどく痛々しい。

 私の言葉を聞き、そして私に頬を撫でられたナツヲは安心したような表情を浮かべて「イーヴァ」と再び私の名を呼んだ。

 だが、そんな私とナツヲの逢瀬を引き裂かんとするべく、イノシシの死体に取り憑いた魔なるモノたちが私の外殻へと突進を試みてきた。

「ッ!」

 私の外殻を破壊し、私とナツヲを食い荒らさんとするために、勢いよく飛び込んでくる魔なる者たち。それらに狙われている ナツヲが息を飲み、怯えを抱いたのが伝わってくる。

「ナツヲ、あれらを恐れるな。恐れもまた、信仰である」

「え……?」

「救われたくば、あれらを恐れるな。私に祈れ。助けてほしいと強く望み、願え。さすれば私がお前を救ってやろう」

 ナツヲの頬を再度撫でてやった後、私は彼から手を離す。そして私たちの周りに集っていた魔なるモノたちを見据えた。

 背後にいるナツヲからは、未だに魔なるモノに対しての恐れは消えていない。けれど、私に向かって伝わってくるのは「助けてほしい」という強い思いだった。

 助けて、助けて、助けて。イーヴァ、助けて。

 たったそれだけの願い。されど、強固な望み。

 信仰心と言っても差し障りのないナツヲの強い意思。それが私へと向けられ、届く度、私の身体は強く脈打ち、身体の奥底から途方もない熱量が湧いて出てくるのが分かる。

 嗚呼。おそらくこれが、ヒトの言う「昂り」や、「高揚」などという事がらなのだろう。

 故郷とも呼べる地で信仰されていた時にさえ味わったことのない高揚感。きっとそれは、私を見て、私と言葉を交わせ、私にとって最も近しい存在となったナツヲからの強い思いだからに違いない。

 途方もない熱量をもった高揚感に身を任せるようにして、私は溜めこんでいた神気を一気に解放する。そうすれば、ごう、と私とナツヲの周りで再度風が吠え、渦巻いた。

 そして次の瞬間、私の周りにはナツヲの身の丈はありそうな杭が複数、輪を描くようにして出現していた。

 この列島の外ではクリスタルやエメラルドと呼ばれる鉱石にほど近い色合いの、巨大な杭たち。

「――これで、命の巡りより逸脱した彼らを穿ち、その命を輪へと繋ぎ還せ、ということか」

 武器と呼ぶには聊か煌びやかすぎるが、串刺しにすれば致命的な傷を負わせることが可能な物体を得た私。そんな私から、周囲にいた魔なるモノたちが一歩、二歩と下がり距離を置く。

「危機を判断できるほどの意思はあるようだが……すでに遅い」

 まずは試し打ちに、一本のみ杭を射出させ、イノシシの屍ごと、魔なるモノを貫いた。

「まずは一頭」

 そう言葉を発したところで、魔なるモノを貫いた杭から、魔なるモノの心――いわば根源たるナニカが魔なるモノに至らざるを得なかった経緯、あるいは根幹なる意思が老人たちの声で届いてきた。

「私はただ、帰りたかっただけなのです」

「老いた私たちが、何の役にも立たないことは知っていました。一定の歳になれば、山へと捨てられる覚悟もありました」

「けれど、けれど、やはり思ってしまうのです。死の直前、村へ、家へ、家族の元へ、帰りたかった、と」

 じゅわじゅわと音を立てながら、イノシシの屍から昇華されてゆく魔なるモノ。

 嗚呼、おそらくこの村の住人達は、労力と成りえなくなった老人たちを口減らしの為に山へ捨てていたのだろう。あるいは山へ連れて行き、二度と戻ってくることの無いよう、殺したか。

 なんにせよ、魔なるモノへ落ち、イノシシの屍に取り憑いてしまったこの者たちは、村へ、家族の元へ帰りたがっているだけの哀れなヒトの子の魂であり、それゆえ彼らは飢えてもなお、この地から離れなかったのか。

「……お前たちは、ただ。此処へ帰って来たかっただけなのか」

 ぐるり、と身の周りを囲う煌びやかな杭をイノシシの屍に取り憑く魔なるモノたちへ向ける。

 背を見せて逃げ出すモノはいないが、それでも、数歩、彼らは後ろへと下がった。

「怯えることは何もない。お前たちは、真っ当な巡りへ還るだけなのだから」

 行く先こそ村や家ではないが、正しい命の巡りの中へ、お前たちに繋がるすべての命が巡る輪へ、お前たちは還るのだ。

 自身の腕を振りかぶり、それに合わせて杭を射出し、すべての魔なるモノたちを貫いた。

 杭を媒介に、彼らと繋がる私には、魔なるモノへと落ちてしまった彼らの思いが次々と伝わってくる。

「帰りたい」

「家に、帰りたい」

「家族の元に、帰りたい」

「どうか、どうか。帰しておくれ」

「私をどうか、村に、家に、家族の元へ」

「帰しておくれ」

 伝わってくるその全ての思いが、この村へ、そして自分の家へ、家族の元に還りたいというものばかり。その望みを叶えてやることは出来ないがそれでも、彼らの為に彼らの魂と縁を繋いでやることは私にもできる。

「お前たちの次なる生を、此の地へと繋いでやろう。さすれば命の巡りによって、お前たちも此処へと帰って来るだろう。その時まで、しばし――眠れ」

 「帰りたい」という念を持ったその者たちに、私の言葉は聞こえてはいないだろう。否、そもそも魔なるモノへと落ちてしまった彼らにソレを聞き入れ、判別するだけの知能は無いだろう。

 ただそれでも私に穿たれたすべての魔なるモノたちは何の抵抗もすることなく、その身を塵に変えて、元となった魂を命の巡りの輪に還していた。

 しばらくの間、彼らが命の巡りの輪へと還る様を眺めていれば、おもむろに尻部に柔らかなナニカが抱きつき、「喜び」と膨大な「感謝」の感情が伝わってきた。

「……?」

 ぐるり、と振り向いてみるが、周囲にはこと切れて数日が既に立っているイノシシの屍が数体転がっているだけ。むしろ、私が守るべくしていたナツヲの姿が見当たらない。

「ナツヲ……?」

 触れられている感覚はしっかりと在るのに、その姿が見えない。一体ナツヲは何処に? と、彼の名を呼べば、私の尻部。すなわち私の目が届きにくい場所から「イーヴァ!」と私を呼ぶナツヲの声が聞こえた。

 その声に合わせて、おもむろに私は視線を下げる。そうすれば、私の腰に抱きつくナツヲの姿が在った。

「助けてくれてありがとう、イーヴァ」

 私の目をしっかりと見て、私に直接礼を言ってくれたナツヲ。しかも彼は傷と土にまみれながらも、顔には笑みを浮かべている。

 そんな彼から、ありがとうという「感謝」の気持ちと、「嬉しい」という気持ちがあふれんばかりに伝わってくる。

 止めどもないナツヲからの感情。私を見て、私と言葉を交わし、私と触れることが出来る、私に最も近いヒトの子からの多大なる「喜び」。それらの感情量にほとんどと言っていいほど耐性のない私は、その強い思いに揺さぶられた。

 もっとナツヲの喜びを私は知りたい。

 もっとナツヲと喜びを分かち合いたい。

 私の心を容易く揺さぶったナツヲからの「喜び」の感情を、もっと得たい、と。

 コレが心の移り変わりというものなのだろうか。ならば、これは本当に――どうしようもないことではないか。

 今までは漠然と、ヒトはその心を自身たちの命の尺度に合わせて移り変わらせていると思っていた。だが、私自らの心が揺さぶられた今、これはどうしようもなく仕方のないことだと心底理解する。

 こんなに嬉しくなってしまえば。こんな多好感に包まれてしまえば。逃したくないと、もっと欲しいのだと、貪欲になってしまっても――仕方ないではないか。

 私の腰に抱きつき、私に膨大な量の「感謝」と「喜び」を教え、私の心を揺さぶり、移り変わらせたナツヲの頭を私はゆっくりと撫でる。

 ナツヲ――私は、お前ともっと喜びを分かち合いたい。



 ナツヲが魔なるモノたちに襲われた翌日、ナツヲに教えられたのだろう。彼が両親と思しき者たちと数人の村人たちを連れて、私の居る社へ供物を捧げに来た。

 供物と言っても畑や池で採れた食材や小魚ではあるが、村人からしてみたら十分なご馳走だろう。

「イーヴァ、昨日はありがとう」

 廃れた社の中で腰を据える私。その私の目をしっかりと見据えそう言ったナツヲ。大人たちの手前、本人は礼儀正しくしようとしているらしい。私に抱きつきたいのを我慢して、居るのが如実に見て取れる。

 そんなナツヲとは違い、私を見ることの叶わない大人たちは、私を見据えはしない。ただナツヲが見ている部分を見ているだけだ。そして触れなくともそんな彼らからは、ナツヲに対しての「疑心」が向けられていた。

 昨日の行いはナツヲの為だけに行われた者であり、彼ら村人には何の恩恵も与えられなかったから当然と言えば当然だろう。むしろ、凶暴化したイノシシをナツヲが呼び寄せたのだと言われていないだけ、流れとしては良い方だろう。

 私に抱きつきたいのを我慢し、うずうずとしているナツヲの元へ近付き、その小さな頭を撫でてやる。

「なぁに、ナツヲは私の初めての友達だからな。当然のことをしたまでだ」

 流石に「お前の喜びは、私の喜び」などと言えるわけもない。ただ、それでも私は彼を私の特別なのだと伝えたくて、「友達」だと呼称してやる。

 そうすればナツヲはきらきらと目を輝かせて、私に「喜び」を伝えてくれた。けれど、彼から伝わる感情は、その喜びだけではなかった。

 大人たちからの言い知れぬ重圧。そして村に住む者たち全員からの「不穏」。小さなナツヲであっても、周りの者たちから向けられる「疑心」には敏感であるらしい。

 それらを含めて「不安」を抱くナツヲを安心させてやろうと、私が「だからな、ナツヲ。私は友であるお前の望みはを、叶えてやりたいのだよ」と言ってやれば、彼は目をぱちくりとさせ、次の瞬間、ナツヲが抱いていた「不安」が消えた。

「なら、村に雨をふらせてほしいっていうおねがいも、イーヴァはかなえてくれる?」

 唐突なナツヲのその言葉に、周りの大人が怪訝な顔をする。

「嗚呼、勿論。お前が祈り、願い、望むのなら、私はお前の望みを叶えよう」

 ナツヲがごくり、と覚悟を決めたように息を飲む。

「なら、おねがいイーヴァ。村に、雨をふらせて」

「――お前がそう、望むなら」

 ナツヲの望みに頷き、彼の小さな頭を再度撫でる。そうすれば彼から伝わってくるのは、喜びの感情だけになる。そう、私の心を揺さぶり、「喜び」で満たす、ナツヲの「喜び」の感情だ。

 嗚呼もっと、もっとナツヲが抱く「喜び」の感情が欲しい。

 嗚呼もっと、ナツヲとこの「喜び」を共有しあいたい。

 嗚呼もっと、たくさんの「喜び」に包まれてみたい。

 ナツヲから伝わる「喜び」の感情に酔いしれる私。けれどソレを知らないどころか、私さえ見えていないナツヲの両親は、私が触れるナツヲの背を押し、社の外へと出て行かせた。

「なんて不気味な子だろう」

「我子ながら、恐ろしいよ」

「きっと昨日の獣も、あの子が呼んだに違いない」

 母と思しき女に手を引かれ村へと帰るナツヲの背を見送る私。その傍では未だ社に残る村人と、ナツヲの父親が集いそう話していた。

「今はまだ良いが、次に何かが起きたら……わかっているな?」

 ナツヲの父親を睨みながらそう言った男。そしてその男に頷き「……嗚呼、わかっているさ」と答えたナツヲの父親。

 嗚呼、君たちは間違っている。

 君たちのそういった行いが、昨日のような魔なるモノを呼び寄せてしまったのだ。

 君たちが口減らしの為に老人たちを山に捨てたから、昨日のようなことが起きてしまったのだ。

 けれどソレを知らない君たちは、同じことを繰り返そうとしている。それもその標的を、私の友であるナツヲに定めて。

 嗚呼、そんなことは許されない。

 彼は、私と会話のできるたった一人の友であり、私に「喜び」を伝えることのできるたった一人のヒトの子なのだから――老人たちと同じように山へ捨てたり、殺したりすることは、決して許されてはならない。

 私への供物を回収した村人たちの後姿を見送った後、私はナツヲの願いどおりに村へと雨を降らせるため地の上に集う空の水分を繋ぎ、この地の上へと誘う巡りを創りだした。

 きっと明日には雨が降り始め、乾いた土も潤いに満ちるだろう。そうすればナツヲは「喜び」、ナツヲを危険視していた大人たちの目も多少は変わるだろう。



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