人類最後のアイラビュー

雷藤和太郎

閉じる宇宙、逝く地球、二人

 人類によって最後に発見された自然現象は「ジッパー」と名付けられた。

 ジッパーは太陽系の外に存在する宇宙の溝のようなもので、ブラックホールとは別種の、あらゆるエネルギーを飲み込んで閉じるを繰り返す現象であった。宇宙を飲み込み、畳み、また飲み込むを繰り返すその現象が閉じる道具としてのジッパーを連想させるためにそう呼ばれたのだった。

 ジッパーは終焉の溝であった。

 それが分かったのは、太陽系外縁天体である冥王星をジッパーが飲み込んだという事実によってである。軌道上に現れたジッパーが偶然にも冥王星の位置と重なり、どのような結果を迎えるかがつぶさに観察された。その結果、冥王星は消失した。

 ジッパーは惑星を飲み込むようにして徐々に太陽に向かっている。

 その事実は科学者を震撼させた。冥王星がジッパーによって消失したことを最高機密として情報規制をしようとしたが、時すでに遅く、在野の科学者によってジッパーの存在とその軌道が地球を襲うことが明らかになった。

 ジッパーは太陽系の破壊者として怖れられ、人類は残りわずかの時間の中で、生きる術を求めるのであった。

 現象に対して攻撃を行ない太陽系の破壊をくい止めるという方策が、地球上最も巨大で若い国家によって採決され、科学者たちはその現象をどのようにすれば破壊できるのか、さまざまなシミュレーションを作成した。しかし、その演算の全ては「不可能」と表示されるばかり。そもそも、ジッパーは出現する場所、規模、周期、その全てにおいて人類の計算と予想とをことごとく裏切り、また正しく算出され、観察されたと科学者が確信した途端に観察結果そのものが揺らぐという、説明のしづらい特質を持っていたのである。人生を宇宙物理学、天文学、数学に捧げたような科学者をもってして理解の範疇である現象を一物書きである筆者が全て説明できるはずもなく、またジッパーという現象自体が極めて超自然的な現象であるということをもってここでの説明に代えさせていただく。

 いずれにしても、人類によってジッパーを破壊することは不可能であるという事実だけが伝わればよい。

 人類に破壊不可能なジッパーという現象を前にして、次に人類がとった方策は、恒星間航行による人類種の保存を目的とした宇宙船の建造と、外宇宙に存在する居住可能な惑星への移住である。

 幸いなことに、宇宙工学と人工知能の発達した現在(言うまでもないことだが、ここで述べる現在とは、ジッパーの存在する現在ということであり、読者の存在する現在とは全く異なることに留意していただきたい)、外宇宙にある恒星とそれに付随する生物が生存可能な惑星には見当がついており、またそこへ向かうだけの宇宙船は建造可能であった。

 恒星と惑星は三つ存在し、いずれも光速による航行が可能な宇宙船であろうと到達するのに人間の寿命では足りないことが分かっていた。そこで、コールドスリープと凍結受精卵による二通りの方法を同じ宇宙船内に乗せて、三つの宇宙船が建造された。

 コールドスリープされる人類が誰になるか、という一点で戦争に発展しかけたのだが、ここではその血みどろの争いに関する詳細は書かずに留める。おおよそ一般人が想像しうる全ての権謀術数が用いられ、想像しうる混乱をはるかに超えた混乱が政治の水面下で繰り広げられた、とだけ述べておこう。

 宇宙船は耐久テストや人工知能のテストが何度も繰り返され、人類の最高傑作と呼ばれる存在になったのが、ジッパーが木星とその衛星群をすべて平らげた頃であった。

 さて、ここで読者に思い出して欲しい。

 ジッパーは人知を超えた挙動をするものだ、ということを。

「人類の明日を乗せた最高傑作である宇宙船、ノア―Ⅰは、本日太陽系の外、生物の新たな母星を目指して飛び立ちました」

 科学者たちは、その行く末を見届けていた。木星が消失した方角とは真逆の軌道をとって、太陽の重力によるスイングバイ航法による亜光速航行。その航宇宙は成功するかに見えた。

「ご覧ください!ノア―Ⅰが……あああ!亜光速航行に突入したと同時にその眼前に現れたジッパーによって、消失してしまいました!」

 ノア―Ⅰの消失は全世界に報道された。ジッパーの出現を予見できなかった科学者に非難の声が浴びせられたが、言うまでもなく科学者の観察も計算も間違ってはいない。ただ、ジッパーが正解ではなかったのだ。

 人類を嘲笑うかのように、ジッパーは残り二隻の宇宙船も平らげてしまうのであった。

 残された人類に出来ること、それはジッパーが地球を飲み込まず、太陽を飲み込まず、その存在が消えるのを祈ることだけだった。

 そして祈りもむなしく、宇宙の溝は突如地球の軌道を挟み込むようにして地軸の延長線上に現れた。ジッパーは地軸の延長線上からゆっくりと宇宙に溝を開いていく。それと同時にジッパーは閉じてもいく。

「地軸の果てのそれぞれにパックマンがいて、その口が開閉を繰り返して宇宙を食べながら地球に近づいているのを想像してください」

 ジッパーの様子をこの上なく適切に言い表した科学者の言葉である。

 人類の、もとい、地球の寿命が科学者によって計算された。悲しいことに、科学者の計算は一切の間違いを含んでおらず、そしてジッパーは宇宙に溝を開け始めるようになると、観察による不可思議な揺らぎを一切含まなくなる。けだし人類に残された時間は二週間である。

 余命二週間!

 個人が宣告されることと、人類全体が宣告されることとのどこに違いがあるのか!その違いはたった一つである。一切の、余命を宣告された者を慰める存在の消失だ。全員が等しく余命を共にし、誰一人として、いや地球に存在する何一つとして生き残ることのできない世界。そこに生き永らえる希望はなく、逃げ場もなく、救いもない。

 人々は宇宙船のコールドスリープにまつわる宗教間の非常に醜い争いを目の当たりにして、そこに救済の無いことを知ってしまった。あらゆる新興宗教と暴力の支配する世界。余命二週間の世界はあっという間に人間の文明と心性を破壊しつくしてしまった。誰も社会のために働かず、インフラは途絶え、既に生産されたわずかばかりの食料と社会資本を消費するだけの世の中……。


 荒廃した世界の、極東の国の、山奥。そこにポツンと建っている一件のコンビニエンスストアに、その少年はいた。

「荒らされてると思ったけれど、まだ使えそうなものはあるかな……」

 押していた自転車をだだっ広い駐車場に駐める。残雪は下の方が凍っており、人の足跡はない。代わりに昨晩薄く降り積もった新雪に獣の足跡があるということは、この一帯に人間はもう残っていないのかも知れない。

「咲綾、中に入ってみよう」

 咲綾と呼ばれた少女は、少年の自転車に並べるようにして自転車を駐めると、すぐに少年の横に貼りついた。

「動きにくいって」

 しがみつく咲綾の腕を振りほどこうとするも、強く出ることは出来なかった。ほんのわずかの抵抗を見せたものの、それでも咲綾が離れないことが分かると、少年はそれ以上のことはしなかった。

「和幸……怖い」

「大丈夫、怖くないよ。多分、この辺りにはもう人はいないんじゃないかな。ほら、そこのコンビニで必要そうなものを拝借していこう」

 和幸が咲綾を連れてコンビニに入る。入ると言ってもドアが自動で開くはずもなく、店員もいなければ電気もない。

「お邪魔しまぁ……す」

 電気のついていない店内は非常に薄暗い。奥に行くほどそれは顕著で、最奥の弁当が並んでいるはずの商品棚は、真っ暗である。もっとも、そこに一切の弁当はない。弁当や総菜は配送されなくなって久しく、また配送された弁当も、これは野生の獣が食べた跡だろう、無残に引きちぎられたビニールや容器がころがっているだけだ。真冬なのが幸いしてか、それとも食品添加物のおかげか、腐臭はしなかった。

「ここは人の手で荒らされていないのかも……」

 総菜だけでなく、パンなどの袋も荒らされていたが、レトルト食品や缶詰、それから冷凍食品の棚などはほとんど手付かずの状態に近かった。それでも店主によって商品の多くは持ち去られているようだったが、それが全てではないことには素直に感謝するほかない。

「何らかの宗教に熱心な信者だったのかも……日本では珍しいね」

 地球の余命が二週間と宣告されると同時に、全ての宗教は一斉に世界の救済と現世の安寧を唱えた。その方法に関しては宗教によってまちまちだったが、最期にあって欲に惑わず、残し、与え、施すことこそ大切だと説いた宗教がどこかにあったことを和幸は思い出していた。

「咲綾、何か食べたいものはある?全部持っていくことは出来ないけれど、欲しいものは持っていこう」

「……お肉」

 了解、と缶詰を見ると、そこにはちょうど焼き鳥を缶詰にしたものが数個残っていた。その他にもたんぱく質を得られるような缶詰がいくつかあったので、和幸はそれらを手際よくリュックに詰めていく。

「カップ麺やお菓子は……ほとんどないか……あ、でもチョコレートが少しある。ありがたくもらっていこう」

 咲綾のリュックにも必要なものを入れていく。

「あ、下着がある」

「着替える!」

 咲綾が突然大声を出したので和幸は驚いたが、すぐに笑顔になって同意した。

「そうだね。着替えちゃおうか」

 キャンプ地や登山客が訪れるからだろうか、店内にはガスボンベや防寒グッズ、それと着火剤が置いてあった。ボンベ用の折り畳みコンロを持っていた和幸は、その場でボンベを拝借し、小型の鍋を使って火をおこして湯を沸かす。鍋が小さいので何度か繰り返し沸かす必要はあったものの、何とか体を拭く分程度の湯は確保できた。

「タオルはある?」

「あったよ!」

 店内には未使用のフェイスタオルがあり、咲綾はそれを二人分用意する。

「それじゃあ、体を拭かないとね」

「ここで……?」

 電気も点かず薄暗いとは言え、コンビニの店内ど真ん中だ。常識的に、脱いで良い場所では無い。咲綾の心の裡で、羞恥心が勝った。

「恥ずかしい?」

「……ちょっとだけ」

「じゃあ、奥で拭いてくるといいよ。僕はここで見張っているから」

「やだ!一緒にいないと、怖い……」

 咲綾は肩にぴったりと貼りついて泣きべそをかく。

「うーん……困ったな」

「ごめんね……私、頑張る」

 この場を訪れる一切の人間は、もはや存在しない。それでも咲綾の羞恥心は、ほんの数年前まで一般的な感性だった。現存する人類に恥ずかしいという言葉の意味を本当の形で理解できる人間がいるかどうか……そんなことを考えながら、和幸はコンビニの外を見張るように、咲綾に背を向けた。

「和幸……?」

「誰も来ないとは思うけれど、警戒は怠らないようにしないと。それに、僕がまじまじと見ていたら咲綾は恥ずかしいかな、と思ってね」

「私、和幸になら見られてもいいよ」

 咲綾のその言葉は、彼女の胸の辺りにすっぽりと収まって消えてしまった。

「え、何て言ったの?」

「ううん、何でもない……それじゃあ、手早く済ませるね」

 和幸の耳に衣擦れの音が聞こえてくる。それから湯の中にタオルと手指を浸す音。パシャパシャとタオルから絞られた湯が滴り、咲綾の肌が拭きあげられていく。

「石鹸を見つけたの……使っていい?」

「いいけど、お湯の中に直接入れないでね」

「分かってるよ」

 クスクスと、鈴の音のような咲綾の笑い声が和幸の後頭部をくすぐる。機嫌のよい声を聞くと、自分も自然と幸せな気持ちになる。出来ることなら、少しでも長くこんな気持ちが続いてくれればいい。

 背後から聞こえる咲綾が自身の身体を拭く音と、機嫌のよくなった時にふと出てくる鼻歌、そして石鹸の良い匂い。

 しかし、幸福のイコンは長く続かず、たちまち歪で不吉な不協和音を奏で始める。

「落ちない……」

 咲綾のつぶやきに、和幸はギョッとした。

「落ちない、落ちない。血が……私の……」

 すぐさま振り向く。上半身裸の咲綾は、石鹸を拭い取ったタオルで前腕を必死に擦っている。やや日に焼けた咲綾の前腕は、摩擦によって赤く傷つく。肌は痛みを訴えるも、色を失った咲綾の意識はそんなもの意に介さない。

 和幸はすぐさま咲綾のタオルを奪い取ると、それ以上擦らせないように、腕ごと咲綾を抱きしめた。咲綾の耳元に口を寄せて囁く。

「大丈夫、大丈夫だよ。血なんてついてないから。まずは落ち着いて、それから大きく息を吸うんだ」

 言葉に合わせて、二人は大きく息を吸った。抱き寄せた体は共に膨らみ、密着の度合いを増していく。十分に息を吸い込んだら、ゆっくり吐き出す。何度か繰り返していくうちに、狂気に彩られていた咲綾の目に正気が戻り、強く抱きしめられていることに気づいてわずかに呻き声を発した。その呻き声を聞いて和幸はそっと抱きしめていた腕と体を離して、咲綾の顔を見る。

 咲綾はわずかにボーッとしていたが、みるみるうちに顔を真っ赤に染めて現状を理解した。

「キャッ!」

 胸元を隠してうつむく。和幸はその様子に安心して再び外を警戒するという名目で咲綾から背を向けた。

「えっち……」

「男の子はみんなえっちなんです」

 そのやりとりは、二人にとって気恥ずかしさの証であり、同時に互いの理性を確認しあう儀式でもある。

「いつもごめんね……」

「気にしなくていいよ」

 咲綾の謝罪の言葉も、和幸の返事も、片手で数えきれないほど繰り返してきた事だった。

「……いい匂いの石鹸だね」

「それは多分、シャンプーの匂いかも」

「珍しいシャンプーなの?」

 キャンプ地に近ければ、それだけシャンプーや歯みがき粉などの需要も増え、棚に置かれる種類も増えるらしい。そのコンビニには、普通のコンビニではあまり見られないような種類のシャンプーが残っていたようだった。

「外国のだと思う。大人が使うようなシャンプーだけれど、背伸びして使っちゃった」

 背中を向けていても、咲綾がはにかむように笑っているのが和幸にはありありと見えた。今すぐ振り向いてその表情を見たいと思うものの、その行為が、咲綾に対する裏切りのようにも感じられて、肩を身もだえさせる。

「……くしゅん」

「ほら、あんまり時間をかけると風邪ひいちゃうよ」

「ごめんね、すぐに着替えるね」

 再び聞こえる衣擦れの音。それからかくれんぼの合図のような「もういいよ」の声。頬にさした赤みは、恥ずかしさのものか、それとも久々に肌が感じた湯の温かさによるものか。

「お湯、ぬるくなっちゃったし、捨てちゃおうよ」

 咲綾が言う。

「いや、沸かし直すのには時間がかかるし面倒だよ、このままでも僕は大丈夫」

 和幸がそう言うと、咲綾は目を泳がせてもじもじし始めた。何か言いたいことがあるのだろうかと首をひねる和幸に、咲綾が蚊の鳴くような声でつぶやいた。

「それに、お湯……が、汚くなっちゃったから……」

 そんなこと僕は気にしない、と言おうとして、以前にも同じようなことがあったことを思い出す。その時は少しだけ口を聞いてもらえなくなって、その理由を聞いたときに、なぜそんなことを気にするのだろうと思ったものだが、自分の垢で汚れた湯というものに女の子は敏感なのだと記憶に留めておくことにしたのだ。

 あの時と同じ状況になって、同じ轍は踏まないようにと気を遣う。

「沸かし直すの、待っててくれる?」

「……!うん、もちろん!いくらでも待つよ!」

「まあ、手早く済ませるよ。それじゃあ、このお湯、捨ててきてくれる?その間に僕は新しい水を用意しなくっちゃ」

「分かった!すぐに捨ててくるね!」

 鍋を両手でよいしょと持ち上げて、咲綾はコンビニの外に向かっていった。お湯の汚れを気にするのだから、和幸が自ら捨てに行くことを咲綾は望まないだろうと思っての言葉だったが、それで正解だったらしい。

「少しずつ、咲綾のことが分かってきたかな」

 互いのことが分かるって素敵なことだな、と思いつつ、和幸は新しい水を用意するのだった。


 久々に体を拭くと、タオルもさることながらお湯も真っ黒になる。確かにこれをそのまま異性に使わせるのは和幸にもはばかられた。

「温泉、入りたいなぁ……」

「温泉!この辺りにあるの?」

「あると思うけれど」

 かけ流しでない限り、温泉は機能していないだろう。源泉かけ流しを謳う温泉なども、ポンプによる汲み上げが必要なところがほとんどなので、二人の期待するような温泉は求むべくもなかった。

「そっかぁ……私も温泉入りたかった……」

 そういう施設があれば良いのだが、今はもはや悠長に自作するほどの時間もない。道すがら、蒸気を思わせる白煙があれば様子を見に探索するくらいのものだ。和幸は咲綾の期待に応えられないことに落胆の表情を見せた。

「あっ、ごめんね。私ばっかりわがまま言って」

「そんなこと無いよ。僕にもっと力があれば……」

 望むこと全てを望むままに叶えられる、ランプの精のようなものは現実には存在しない。そんなこと、今の人類は痛いほど知っている。

「落ち込まないで、私まで悲しくなっちゃう」

 そっと和幸の手を握る咲綾の手。小さくて、少し冷たくて、でも握っているとだんだんと温かく感じられる。薄暗いコンビニの店内で、そこだけがぼんやりと光っているように、和幸には見えるのだった。

「うん……。そうだよね、落ち込んでいても仕方ないもんね」

「薄暗いところにいると、気分も暗くなっちゃうよ。ほら、外に出よう。外に出て、もっと上を目指そうよ」

「そうだ……そうだね。よし、頑張って山を登ろう!途中で温泉が見つかるかもしれないし!」

「そうそう!食べ物も確保したし、いざ、山登りの旅~」

 咲綾が強がっていること、それが和幸に痛いほど伝わってくる。その強がりの原因が自分の落ち込みにあることを理解しているからこそ、和幸は自分が気を落としていてはいけないと思う。わざと動画のナレーションのように語る咲綾に勇気づけられている。胸の奥に、切ない感情がこみ上げてくる。それを必死に押さえて、和幸が咲綾に笑顔を見せると、咲綾もまた、和幸に微笑んでみせるのだった。

「リュックは重くない?大丈夫?」

「大丈夫だよ、心配しないで。これでも私、少しだけ力持ちだから」

 荷物は二人で分けてそれぞれのリュックに詰めた。もちろん和幸の方が力持ちだったから、その荷物の比は和幸の方が重い。それでも、咲綾がどのくらい重たいものを背負えるかどうかは相対的に判断できるものではない。咲綾は大丈夫と言った。だとすれば大丈夫なのだ。本当に大変なときは、咲綾はちゃんと大変と言ってくれる。そのはずだ、と和幸は信じていた。

「それに……これが今の私たちの命の重さだって思ったら、何か色々とへっちゃらになっちゃった」

 命の重さ、という言葉に和幸はドキリとした。

 確かに、余命わずかの二人にとって、必要なだけの物資をコンビニから持ちだしていくと決めたのだから、二人の背負うその荷物はそのまま二人の寿命を全うするまでに使う物資そのものである。

 ろうそくが周りを照らし終えるまでに、自身のろうではなくその中の芯を燃やし尽くしてしまうように、二人の背負う荷物は、彼ら自身の命の火を燃やし続けるための芯になる部分と言って過言ではないのかもしれない。

 しかし、和幸に不安はなかった。

 この荷物が二人の残り寿命だとして、何が不満なのか。真に想うことは、芯が燃え尽きることでも、ろうが残ることでもなく、その光が美しいかどうかだ。そして咲綾の命の火は、今までこうして消えることなく残っている。和幸自身の命の火も、こうして残っている。

「何か、クサいこと言っちゃった?」

 リュックは背負ったままに、駐めていた自転車のスタンドを外し、ハンドルを握って、二人はそれを押して山道を登り始めた。前カゴと荷台には、防寒具や簡単なキャンプ用具がまとめてつけてある。大抵の場合は空き家となった民家に残った布団などを拝借して夜を過ごすのだが、万が一の場合を考えると、寒さに負けないよう準備しておく必要はあった。装備は二人分、それぞれの自転車に付いている。

 並んで自転車を押して歩く。その様子は、高校生のカップルが放課後、共に家路について離れがたさのために自転車に乗らず押して歩く姿のようであった。

 世界で一番悲しい放課後を、二人は自転車を押して歩く。

「そんなことないよ。全部、美味しく食べようね」

「……缶は食べられないよ?」

「食べないよ!」

 世間話が山間に響き渡る。二人の笑い声がこだまとなって、山鳥たちが眠りから起こされたかのように飛び立っていく。太陽ははやくも西に傾きかけているものの、雲一つない晴天が幸いし、歩いている間は身体が汗ばむ程度には暖かかった。逆に夜間の放射冷却は覚悟しなければならず、今日の泊まるところを早めに探さないといけないな、と和幸は考える。

 しかし、山を登れば登るほど、人家は少なくなり、道を覆う木々と凍り付いた根雪は厚みを増していく。歩きづらさもあいまって、二人の歩みは遅々として進まなかった。

「夕方になる前に、建物を見つけたいね」

「ねえ、あれはどうかな?」

 足元に注意するあまりいつの間にかずっと下を向いていた和幸に代わって、咲綾が、上り道の果てにある展望台と、その展望台に隣接する土産物屋を発見したのだ。

 しかし、展望台までは、山肌に沿って蛇行する道を登っていかなければならないことが一目で分かった。そして一目でわかると言うことは、それだけ傾斜がきついということでもある。道が蛇行しているのも、傾斜が急であるからだ。

「結構時間がかかりそうだけれど、大丈夫?」

「大丈夫だよ。目的地がはっきりしている方がペース配分が分かるし」

 一度大きく息を吸って、咲綾の表情が凛々しくなる。強い女の子だ、と和幸は感じた。咲綾が強気でいるのだから、自分が弱気でどうする。和幸も心の中で頬を打ち、気を引き締める。

「よし、じゃあ目的地は展望台に決定。日が暮れるまでに到着するように頑張ろう。でも、足元が滑りやすいから、注意だけは怠らないようにしないとね」

「わかりました、隊長!」

 顔を見合わせて、再び二人は笑い合う。

「いい返事だ、目的地に到着したら共に肉を食おう」

「やったね、頑張るぞー」

 二人は自動車の轍すらない新雪の上を、一歩一歩噛みしめるように歩いた。二人の歩みと自転車の細い轍だけが、山肌を蛇行する道の上に記されていく。

 それもあとわずかな時間だけの記録。新雪が溶けるよりも先に、地球はこの宇宙から消えてなくなるだろう。それでも、今この場には、確かに二人の歩みが記録として儚く頼りなく残っているのであった。


 展望台に着くころには、わずかに西の空に赤みが残っているほどであった。東の空はすでに夜と言って差し支えなく、見上げれば月が煌々と照っている。雲一つない晴れ空と眼下の街に灯りの無いことから、満天の星空になるだろうと和幸は考えていたが、その期待はあっさりと裏切られた。

 夜空にあるのは月ばかり。あとはわずかばかりの星が、闇の中に吸い込まれるように寂しく存在しているだけである。

 ジッパーは、あらゆるエネルギーを閉じてしまう。それは光においても変わらないらしい。何光年と離れた星の光が、線状に届くその間にジッパーが生じると、その生じた分の間だけ、地球には星の光が届かなくなるのだ。

 冬の大三角の一角を担うオリオン座も、カシオペア座も、北極星さえもなくなった夜の世界。二人の眼前に存在するのは、そういう夜である。

「せっかくの展望台なのに、何か寂しいね」

 備え付けられた望遠鏡を覗き込みながら、咲綾が呟いた。

 ジッパーの存在する前であれば、満天の星空や眼下に広がる人類の営みの灯りが一望できたはずである。それが今や、満天の星空も電灯の恩恵も存在しない。

「秋の日中なら紅葉が見られたかもね」

「冬の宵の口にはちょっと荷が重かったかしら。葉っぱの落ちた木が、暗がりで三倍怖く見えるもの」

 望遠鏡から体を起こして和幸の方を振り向くと、咲綾は肩をすくめて言った。

「どう?アメリカのドラマみたいな言い方だった?」

「ちょっと思った」

 ひとしきり笑い合って、閑話休題。

「さて、土産物屋の中を見に行こうか。夜風を防ぐにはちょうどいいからね」

 土産物屋は、入口のガラス戸が割れて、中の土産は荒れ放題だった。展望台の側のガラス窓も割れており、風が強いからか、ガラス窓のすぐ下方には入り込んだ雪がわずかに積もり残っている。

「足下、気をつけないとね」

「ねぇ、和幸……。何か、変な臭いがしない?」

「変な臭い?」

 言われて鼻をすするように二、三度鳴らす。確かに、何か生臭さを感じる。荒らされている土産物の中には、漬物や鮎の甘露煮なども含まれており、破られ放置されているものもあるのでその臭いかと和幸は思ったが、どうやらそんな生易しい臭いではないように感じた。

 どこかで嗅いだことのあるような……。

 頭を巡らせているうちに、電流のようにある記憶が駆け巡った。それと同時に、咲綾を一刻も早くこの場から立ち去らせなければならない、と確信した。

 あれから何日経ったかはっきり覚えてはいないが、何が起こっていたのかははっきりと思い出せるその光景。フラッシュバックするたびに、吐きそうになるのをこらえる。今もまた。

 体育館の用具入れで咲綾を取り囲む三人の男、その隣に一人の男性が血まみれで倒れて一人の女性に覆いかぶさっている。女性は気絶しているが、間もなく出血多量で死ぬ運命にあり、三人の男はその男女の様子など見向きもしない。男の中の一人が、咲綾に手を伸ばす。振り払う咲綾。振り払う手の先に、和幸を見つけて立ち上がろうとするところで、三人の男が襲いかかろうとする。手に持った拳銃を三人の男に照準を合わせて、次々と発砲する。撃たれた男たちは次々にくずおれて、顔を血で真っ赤に染めた咲綾が、和幸の胸に飛び込んで大声で泣くと、ほとんど同時に気を失う。

「咲綾、残念だけれどここは駄目だ。今日は展望台にテントを張ることにしよう」

「変な臭いが嫌?」

「うん、変な臭いはきっとあのにんにくの漬物の臭いだ。変な風に腐ったのかな、どうにも耐えられないし、夜中に変な夢を見そう。それに……ここでご飯を食べても臭いが邪魔で美味しく感じられないかも」

「そっかぁ、そうだね。私は和幸に従うよ」

 急ごしらえの言い訳に、咲綾はあっさりと同意した。

 咲綾には、和幸の言葉が嘘だとはっきり分かっている。和幸自身は気づいていないが、和幸は嘘をつくときに決まって眉間の真上、生え際を薬指で掻くのだ。それで咲綾は和幸が嘘をついていると気づいたのだが、嘘そのものは彼女にとって問題ではなかった。

 嘘は、ついたことそれ自体よりも、なぜ嘘をついたのかという理由の方がはるかに重要である。和幸が咲綾に嘘をつくのは、それが二人にとって具合が悪い時のみであることを彼女は知っていた。とっさについた和幸の嘘は、その内容がどうあれ咲綾のことを慮っての発言であるのだから、それに従わないのは和幸への裏切り行為だ、と咲綾は考えるのである。

「でも、外はすっごい寒いよ?」

「それは……何とかなるよ」

 さあ、外に出て野営の準備をしよう、と言う和幸に咲綾は付き添って土産物屋を後にした。

 土産物屋は、会計の奥に部屋があり、その部屋からさらに二階に上れる。一階の奥の部屋には、吐血して倒れる中年男性の死体があり、そのそばには服毒薬のビンが転がっている。そして二階には、頭をかち割られた若い男性の腐乱死体が二体と、両手両足を柱や家具に縛られた全裸の女性の変死体があった。

 それらの一切を見ずに引き返した二人の行動は間違いなく正解であり、ここで引き返したからこそ、二人は最後まで二人であり続けた。「最後の尊厳」という名称で売られた安楽死のための薬、服毒薬が中年男性の死体の周りに一粒だけ、転がっていたのだ。その存在は確実に二人の間に軋轢を生んだだろう。

 この薬を巡る様々なエピソードに大きな意味はなく、もしもの話をこれ以上膨らませることにもまた意味はない。二人は引き返して展望台の鉄柵や望遠鏡の柱に紐をくくるようにしてテントを張っているし、テントを張っている最中にふいに発見した足湯広場から白煙が上がっているのを喜んでいる。そう、これは和幸と咲綾の二人の物語だ。

 源泉からパイプを伝って流れてくる温泉は熱湯そのもので、またその湯量もわずかであったために足湯であるにもかかわらずその湯船は満たされていなかったが、その近くに蛇口があり、蛇口からは水が出てきた。それでようやく足湯ができる程度に湯船は満たされる。そういう設計で作られたものらしかった。

「温泉、あったね」

 足湯を温泉と断言して良いかは異論を唱える人もいるかも知れないが、残念ながらこの場に存在するのは和幸と咲綾の二人であり、その二人が足湯を温泉と言って満足しているのであれば、全会一致であり、もはやそこに議論の余地はない。

 咲綾の言葉を噛みしめるように和幸は頷いた。足だけかもしれないが、体の芯を温める久しぶりの感覚は、言いようのない幸福感をもたらした。

「温泉、気持ちいいね」

 その言葉にも、和幸はただただ頷くのみである。その様子を見て、咲綾は自然と微笑んでしまう。

 彼の嘘がたちどころに分かるように、彼の満足する様子もまた、咲綾にはたちどころに分かってしまうのだ。はしゃぐことなく、無言でただ何かを噛みしめて味わうようにしているときは、和幸が本当に満足している証であることを咲綾は知っている。

 和幸は、咲綾の微笑に気づいてやや戸惑い、それから顔をペタペタと手で触った。

「僕の顔に何かついてる?」

「何もついてないよ。ただ、本当に幸せそうだな、って思っただけ」

「……顔に出てた?」

「ふふ、幸せなときはいつも顔に出るよ」

「そうなの?自分では気づかないものなのかな……」

 和幸はなおも自分の顔をペタペタと撫でている。そんなことをしても分からないよ、とは咲綾は言わなかった。

「温泉、温かいね」

「本当にね。安っぽい言葉だけれど、奇跡って本当にあるんだな、って思うよ」

「私、あの時和幸に助けてもらってから、ずっと奇跡のような時間だと思ってるよ」

 あの時、どうやって助けてもらったのかを咲綾は詳しく思い出せずにいる。しかしそれは些細なことで、こうして和幸が助けてくれたこと、そして今こうして和幸と一緒に行動していることこそが重要だった。

「神様に感謝、なんだ」

「ジッパーを消すこともできない不完全な神様だけどね」

「んもう、それは今言わなくてもいいじゃん」

 頬を膨らませて、隣り合って身を寄せる和幸の二の腕を肘で小突く。

「ははは、ごめんごめん」

 足湯に浸かっている間にも、放射冷却によって気温はグングンと下がっていく。

「……くしゅん」

「またくしゃみだ」

 コンビニにいたときも咲綾はくしゃみをしていた。

「くしゃみくらい普通だよ」

「それもそうか。かわいいくしゃみだから記憶に残ってたんだな」

「もう、何それ」

 足湯を十分に堪能した二人は、湯からあがって足を拭くと、テントのある展望台へと寄り添って戻っていく。ほんのわずかな距離、手をつないで歩いていると、和幸は咲綾の指が何かを求めて動くのが分かった。つないでいた手をわずかに離すと、咲綾は手のつなぎ方を変えるのだった。

 ほんのわずかな距離だからこそだったのだろう、二人は恋人つなぎで展望台へと歩いていく。互いに顔を見合わせることはなかった。そしてこの後も、恋人つなぎに関しては、当たり前に二人とも一切口にしないのだ。

 真意などと言うあやふやなものなど、つながれた二人の指と指の前には一切の効果がない。咎める者も、祝福する者もいない、二人だけの世界がそこにあった。

「お夕飯は焼き鳥」

「いいねぇ、焼き鳥。温泉も入って、私もうお腹ペコペコだよ」

「焼き鳥と、レトルトカレー?」

「わあい、すっごい豪華!」

「よし、じゃあそれで決定」

 恋人つなぎのまま、当たり前の会話。決して顔は見合わせないものの、いつも通りの二人。展望台に戻ったら、ゆっくりと手を離して、そのことに関しては何も言わず、何も問わず。

 二人には、それでよかった。


 食事を終えて、二人は肩を寄せ合って夜空を眺めていた。

「すっかり冷えちゃったね」

 テントに火の粉がつかないように風向きを考えながら、コンビニから持ってきた炭を熾す。赤熱する炭に足先を向けて暖をとっていると、咲綾がつぶやいた。

「炭は暖かいけれど、風が吹くとどうしても背中が寒くなっちゃうね」

「それじゃあ、こうしようよ」

 和幸の提案で、二人は隣に座って肩を寄せ合うのではなく、二人羽織りのように炭から見て縦に並ぶように座った。前に座るのは咲綾だ。

「これならお腹も背中も暖かいでしょ?」

「うん。でも……これじゃあ和幸が寒くない?」

「それは大丈夫」

 前側は咲綾とくっついているから人肌で温かく、背中は咲綾とは違いそのままで十分だった。唯一、問題があるとすれば、咲綾の後ろ髪が和幸の鼻の先にあって、コンビニで使ったシャンプーの匂いと女の子特有の甘い匂いとが混ざり合って、男心をくすぐってくることだった。おあずけを食らう状態は暴力的とさえ言ってよく、密着する咲綾の身体の柔らかさを直に感じるために、いよいよ和幸は理性の箍が外れてしまうように感じた。

「……ねぇ」

 首筋に唇が吸い寄せられるように、無意識に顔を近づけていた和幸は、咲綾の呼びかけで我に返った。

「和幸は、私と……セックスしたい?」

 咲綾は振り向かなかった。首筋に顔を近づけていた和幸は、咲綾の横顔がわずかに見える程度だったが、その頬は炭火によって赤く照らされていた。

 どう答えれば正解なのだろうか。和幸には分からなかった。

 自分自身の気持ちも分からなかった。

 今しがた、唇が咲綾の首筋に吸い寄せられていたが、それはほとんど無意識の抗いがたい本能、衝動に突き動かされたものだ。それをセックスの理由にするのは間違っている気がする。

 だからと言って、この期に及んで「いずれはセックス出来るだろう」などと高を括ることもできない。ジッパーはきっと今日明日中には地球を巻き込んで閉じる。下手をすれば、この会話さえも満足にできず地球が無くなってしまうことさえありうるのだ。

 後回しにする、という選択肢は無い。

 では、咲綾の言葉に首肯して和幸はセックスをするのかと聞かれれば、それは出来ないように思われた。その理由に心当たりはない。しいて言えば、和幸の中に心の準備が出来ていなかったからだ。

 しかし心の準備と言うのは何だろうか。

 男女が二人密着し、互いの熱を感じ取り、二人の他に邪魔するものは何もなく、答えを求めるように女性の方から話題に出す。そんな現状に、何の準備が必要だと言うのか。首筋にキスをして、少し冷えた指先を咲綾の襟首からすべらせるように入れる。それだけで、後は人間の本能が全てを教えてくれるはずだ。

 早く何か話さなければ、逡巡を動揺と勘違いした咲綾を悲しませてしまう。

「僕は、この世界で誰よりも咲綾が好きだ」

 まとまらない思考の中から和幸が絞り出した言葉がそれだった。咲綾が体を傾けて首をひねる。

 二人の目が合った。

 咲綾は困ったように微笑んでいた。

「私も、和幸のことが好き」

「こうして密着していると、とても幸せな気分になるし、咲綾の髪の毛はすごく良い匂いがして……首筋も綺麗で……」

 咲綾の姿勢が苦しそうだったので、和幸は咲綾を持ち上げて、体ごと振り向かせた。座りながら抱っこのように対面して咲綾を足の上に座らせる。

「でも……だからこそ、この一瞬を僕は大切にしたい」

 その言葉を口にして、初めて和幸の中にある葛藤の正体が分かった。

「僕は、この気持ちをセックスで発散させたくない」

 和幸は、セックスをしてしまえば、咲綾に対する強い思いが全てではないにしても霧消してしまうのではないかと思ったのだ。咲綾への思いの正体が、実は女性の肉体に対する憧憬であって、セックスをした後に咲綾を今と同じかそれ以上の愛情をもっていられないかもしれない……そんなことを考えてしまうのだ。

 それならば、この思いが変わらないままに、ただ咲綾を抱きしめていたい。

 和幸の拙い説明が作り話でなく真心ゆえのものだということが、向かい合う咲綾には分かった。話している間に和幸は額の生え際を掻くことも無かったし、目が泳ぐことも無かった。ただ、真っ直ぐに咲綾を見つめるその目が酷く儚げなものに見える。

 咲綾の先ほどの言葉は、心の準備をして和幸に問いかけたものだった。

 二人羽織りのような体勢になった時に、咲綾の中で覚悟が決まった。無防備に背後を晒すというのはそういうことだし、二人羽織りの体勢を断らなかったのは瞬時に覚悟が決まったからだ。和幸の方にも、そういう算段があって二人羽織りの姿勢を選んだのかと思ったのだが、違ったらしい。

「ごめん……」

 目を伏せて謝る和幸に、咲綾は頬をすり寄せた。

「ううん、私の方こそごめんね……」

 二人向かい合って、静かにぎゅっと抱きしめ合う。

 炭の爆ぜる音。

 山おろしが二人を撫でる。風は新雪をわずかに巻き上げて、抱き合う二人にわずかに降りかかる。頬と頬を合わせて、身じろぎもせず……。

「こうしていると、なぜかどんどん寂しくなっちゃう」

 咲綾が言った。

「今日は、寝る時も一緒のテントで寝ようか」

「……うん。くしゅん」

 咲綾はまたくしゃみをした。そこで和幸は急いでテントの中を整理して、二人で寝られるように寝袋などを準備した。カイロもコンビニから十分に拝借して来たので、寝袋を用いずとも服やタオルなどを重ねるようにすれば一晩は保ちそうだった。

 二人で、動物の寝床のようなテントに入り、再び抱き合う。

 横になって、寄り添い合って、そして向かい合う。

「明日はどこまで行こうか」

「そうだなぁ……一番てっぺんまで行こうよ」

「てっぺん?」

「そう。この山のてっぺん。一番上まで行って、そこで僕は叫ぶんだ」

「やっほー、って?」

「それもいいけれど、違う。僕は咲綾が大好きだー、って」

「それじゃあ、私も同じように叫ばないと」

「私は私が大好きだー、って?」

「ふふふ、違いますー。私は和幸が大好きだー、って」

 静寂の空は、次第に歪んでいく。

 発光する月の、その姿がふと見えなくなると、地球に夜が無くなった。

「おやすみ、咲綾。愛してるよ」

「私もよ。おやすみ、和幸」

 額が、鼻先が、唇が、触れ合うギリギリまで顔を寄せて、二人はゆっくりと眠りについた。

 ろうそくが、消えた。

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人類最後のアイラビュー 雷藤和太郎 @lay_do69

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