第23話

 貫行が河川敷に到着したとき、もちろんのことだが、平野先生御一行は、既に河川敷に降り立っていた。

「ちょっと、千秋先輩の荷物重いんですけど」

「おいおい、大事に扱ってくれよ。その中には千秋の大事な天体望遠鏡が入っているんだからね」

「えー、本当に夜までやるんですか?」

「やるに決まっているだろ。今日の本番は星が出てからなんだからね」

 やる気のない白妙に対して、千秋は目を輝かせて応えていた。

 ここに来た目的がそれぞれ違い過ぎているな。

 貫行は近くのベンチに自転車を停め、チェーンで繋いだ。

「あ、紀本先輩。早かったですね」

 レジャーマットをいそいそと敷いていた泉美は、くるりと貫行の方を振り返った。

「そうでもないけど」

 と一言応じてから、貫行は周りを見た。

「いい場所がとれたね。ていうか、人、全然いないし」

 ちょうど桜の木の下に、レジャーマットは敷かれていた。ただ、既に桜の花びらは半分ほど散っており、緑の葉がそこかしこに窺えた。

 時期が遅かったからだと思うが、周りには人がほとんどいない。離れた木の下に、子供連れの家族が二組いた。他には、犬の散歩中のおじいさんが歩いているくらいだ。

「えぇ、これなら、歌を詠むのも恥ずかしくないです」

「うん、よかったよ。これで人で溢れていたら、企画倒れもいいところだからね」

「ただ、ちょっと寒いですね」

 泉美は肩を擦った。

 それも人が少ない理由だろう。

 ちょっと、なんてものではなく、寒い。

 自転車で時間をとられすぎた。既に日差しは赤く染まり、山稜に沈みつつある。

 春も半ばであるが、夕暮れともなると気温は下がる。寒暖差が大きいだけに、体感温度は相当低くなっている。

 予め、寒いとは伝えてあったのだが、泉美はけっこう油断していたようだ。

「大丈夫? 上着は持ってきてないの?」

「はい。カーディガンで十分だと思っちゃって」

 カーディガンも、おしゃれ重視の機能性が低そうなものだ。それでは寒かろう。

 貫行は、仕方なしとリュックからダウンジャケットを取り出した。山登り用のミッドウェア的な薄いダウンジャケットだが、保温性はばっちりだ。

「これ、着てな」

「え? いいですよ。紀本先輩が寒いじゃないですか」

「僕は、防寒用のインナー着ているから大丈夫。寒かったら、楽しめないでしょ」

 戸惑っていたが、

「ありがとうございます」

 と言って泉美はダウンジャケットを受け取った。

 実のところ、こういう展開には慣れている。潮崎先輩が、よく上着を忘れてきたのだ。それで寒いと文句を言うものだから、よく上着を貸してあげた。

 貫行のものだから、少し大きめだから、泉美が着ると、なんだかすっぽりと覆われてしまっていて見る分には暖かそうだった。

 さて、それでは、準備も整ったことだし、歌詠みの会を始めようか、と貫行が、他の二人を見やったところ、二人はじと目をこちらに向けていた。

「なんだか、泉美ちゃんだけ優遇されてませんか、千秋先輩」

「そうだよね。千秋達も寒いよね」

「寒いですよね」

「きっと、泉美ちゃんがタイプなんじゃないかな」

「……いやらしい」

「……おまえらな」

 貫行が呆れていると、隣で、泉美が頬を染めて、居心地悪そうにしている。女子は色恋沙汰には敏感で、面倒くさい。

「おまえらも、上着持ってきてないのか?」

「「持ってきてるけど?」」

「……じゃ、いいだろ」

 いったい何の茶番だ。

 二人はしれっとして荷物から、それぞれ防寒具を取り出した。千秋はねずみ色のコートを羽織り、白妙は分厚い毛布のようなストールを肩に巻いた。

「よし、それじゃ、始めようか」

 貫行は、なんとなしに、開始の合図をしてみたが、特に何も考えていない。

 そこで、さっそく平野先生の方に視線を向けた。

 平野先生は、そろそろ来るかと予想していたかのように、戸惑うことなく引き受けた。

「そうだな。本当は生徒主催でやってもらいたいのだが、今日のところは、俺が引き継ごう。で、だ、歌詠みの会ということで、和歌をみんなに詠んでもらうわけだが、その点に関して、一つ謝っておくことがある」

「え? 何ですか?」

 平野先生の突然の謝罪発言に、貫行は問いかける。

「実は、今日、頼もうと思っていた歌詠みの先生が、予定があって来られなかった」


「「「……え?」」」


 一同、首を傾げた。

 あれ? それって、この企画終了のお知らせじゃね?

「え? じゃ、どうするんですか?」

「うん。まぁ、あれだな。和歌を詠む作法を学ぶというのも大事だが、歌というのは、本来、好きに詠むべきものだから」

「だから?」

「声に出して詠み上げることによって、歌の世界を身近に感じるというのも、歌詠みの会の醍醐味なんじゃないか、と俺は思う」

「つまり、適当に詠め、と?」

「一応、録音も用意してある」

「そういう問題じゃないです」

 貫行は、思わず突っ込んだ。

 これまで、絶大な信頼感を寄せていただけに、この失態はつらい。貫行の中の、平野先生株が大暴落している。

「いや、待て。一応、基礎くらいは俺も知っている。それを教えることはできる。ただ、そもそも和歌を詠むのは難しいんだ。その道の先生でなければ、ちょっと偉そうなことが言えないくらいにな」

 それで、教えるのを躊躇っているのか。

 そもそも、歌が得意でないと言っていたしな。

「実際、和歌の詠み方には、いくつかあるんだ。単なる朗読であったり、百人一首のような詠み方であったり、宮中の歌会のような詠み方や、詩吟のような詠み方もある」

 なんだかごまかすように、平野先生は解説を始めた。

 仕方なく、貫行は応答する。

「そうなんですか」

「あぁ。それで、今日は宮中の歌会のリズムを参考にしてみようと思う」

「百人一首の方じゃないんですか?」

 百人一首研究会なのに。

「この二つの詠み方はよく似ているんだ。ただ、宮中の歌会の形式の方が正式だし、和歌自体を楽しむためには、余韻が長くていい」

「歌会って何ですか?」

「宮中行事だ。新年の始めに行われる歌会始などが有名だな。ある題材に絞って、それぞれが歌を詠み合う会で、奈良時代からやっている行事らしい。今でこそ神格化された堅苦しいものだが、昔はカラオケみたいなものだったんじゃないかと思う」

 宮中と聞いても、ぴんとこないのは、貫行が無知だからだろうか。なんとなく古めかしい歴史の中に埋もれてしまっている。

 しかし、平野先生の話によれば、現在進行形とのこと。そう思うと、急に身近に感じられるから不思議だ。

 詠んでみた方が早い、と平野先生は、こほんと咳払いをした。

 平野先生が選んだのは、序歌だった。


「難波津に〜〜〜」


 平野先生は、地面に響くような低音で、朗々と歌い始めた。


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 歌い、始めた。


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 ……歌い……


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


「「「長っ!!」」」


 突っ込みだけは揃う、百人一首研究会一行であった。

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