第24話

 生徒の総突っ込みによって、平野先生は歌うのをやめた。

「先生、長いですよ!」

 平野先生は、ペットボトルに口をつけて、喉を潤してから応じた。

「あれが、余韻だ」


「余韻!?」


 余韻、長っ!

 貫行は、その溜めを待ちきれずに、つい突っ込んでしまったが、あれを待つのが和歌の詠み方なのか。

「そもそも和歌は、この余韻を楽しむことが醍醐味なんだ。文字を詠み、その余韻の中で、詠まれた歌の意味や情景を反芻する。そうやって、この31文字の奥深くまで堪能するのが、和歌の詠み方であり、歌会のあり方だ」

 たしかに、和っぽい。

 しかしながら、その間は、いくらみんなとは違う時間を生きていると名高い貫行とて、現代を生きる男子高校生には、いささか長すぎた。

 普通にJPOPとかが好きだし、あっても、和楽器バンドだよな。

 これを歌と言い切るには、貫行の知っている歌とは、なんというか、流れている時間が違い過ぎる。

 歌とは音、つまりは刺激だ。

 刺激を与えられて、それに対する人の反応を、感動という。

 現代音楽はその刺激の間隔が非常に短い。次から次へと異なる角度からの刺激を与えて、感動を誘発していく。

 しかし、この和歌というものは、まったく違う。

 とにかく、刺激の間隔が長い。一度の刺激に対して、ちゃんと吟味する。ふと昆布をイメージしてしまうのはなぜだろう。一枚の昆布を、何度も何度も噛んで、擦り切れるまで味わような。つまりは、減衰していく刺激の振動に身を委ねるような。

 この歌に馴染むには、貫行も、その時間の流れの中に入るほかない。

「一度、深呼吸をしよう。余韻の間は、歌を聞いて、そのときに感じたものを、ただ静かに堪能すればいい。もはや、何も考えなくてもいいくらいだが、大事なのは心を落ち着かせることだ」

 平野先生の言葉に応じて、貫行は、目を閉じ、深く呼吸をして、自分の中の時計の針の動きを緩めようと努めた。

 さやさやと桜の木の揺れる音が鳴った後、平野先生は再び歌い出した。


「難波津に〜〜〜」


 抑揚こそあるものの音階自体は複雑ではない。五文字の言葉を告げた後に長く伸びる一本調子の余韻。そこに抑揚はない。心を波立たせないように、五文字以上の刺激を与えないように、次の七文字へつなげるための道をつくる。


「咲くやこの花〜〜〜」


 そもそも貫行は、まだこの歌の意味を知らない。難波津というのは、地名だろうか。そこに花が咲く。それは一面のお花畑なのだろうか、それとも、岩陰の一輪花だろうか。蒲公英だろうか、彼岸花だろうか。


「冬ごもり〜〜〜」


 あれ、冬なのか? 冬に咲く花なのだろうか。いや、冬を思い返しているのかもしれない。冷たい雪に覆われた白銀の世界。その美しさは、生命の儚さの裏返しだ。消えていく魂と、残された亡骸が、雪原の白さを助長する。


「今を春べと〜〜〜」


 やっと春になった。雪が溶けて、その下で耐え忍んでいた草木が蕾をもたげて、春を告げる。雪解け水が、葉の先を滴り落ちる。柔らかい日差しが、水滴に溜め込まれ、光の球となって空に帰る。


「咲くやこの花〜〜〜」


 そして咲き誇る。

 春といえば、桜だろうか。冬の白さとは対象的に、実に色鮮やかな春の色。桜の薄紅色に、草原の緑、木々の焦げ茶、空の青。そこは命に満ちている。

 喜びを称えるように、咲くやこの花と繰り返す。


 ――咲くやこの花


 ――咲くやこの花


 余韻の中で響く歌詞は、しっかりと春を讃えていた。

 平野先生の歌が止んでから、しばらくして、貫行はゆっくりと目を開けた。

 風が吹き、紅く燃えるように色づいた桜の花びらが、薄墨色の空に舞っていた。いつの間にか木の陰が長く伸びている。

 目を瞑っていたからだろうか。それとも、和歌の時間に紛れ込んでいたからだろうか。いつの間にか進んでしまった針に貫行は困惑した。

「と、まぁ、こんなかんじだ」

 平野先生は、かるく息をついた。

 どうやら、かなりむりをしていたらしい。そりゃ、あんなに息を吐いたらつらいだろう。

「どうだ?」

「どうだと言われても」

 感想を述べづらい。

 それは、貫行の言語能力での表現できる範囲を超えていたからだ。胸の内に、沸き起こったさざなみを伝える言葉をもたない。ネガティブでもないが、ポジティブともいえない。そのベクトルにないのだ。

 もっと別の指標。

 これまでに向けたことのない指針の先に、この感情はきっとある。

 だからこそ、

「微妙?」

 としか、貫行には答えられなかった。

「そんなことないです!」

 そんな貫行を否定したのは、泉美だった。

「私は、けっこう好きです。なんていうか、新感覚です。私がこれまでに聞いてきた音楽とは、まったく新しい旋律で、だけれども、どことなくクラシックに精通しているような、シューマンぽい? 違うかな。うまく表現できないんですけれど、おもしろいなって思いました」

「あ、千秋も嫌いじゃないな。この歌のリズムは人の生体リズム、つまり心拍にリンクしているように感じるね。そのおかげで、安心感が生まれているんじゃないのかな。まぁ、計測したわけではないので、わからないが、良い研究材料になりそうだ」

 泉美と千秋で、着眼点が異なるけれども、どちらも好感触であることは間違いない。特に泉美は、かなりお気に召したようだった。

 貫行も決して、気に入らなかったわけではないのだけれども、彼女達と比べると、いささか否定的な見解に捉えられかねない。何だか損した気分だ。

 各々が感想を述べる中、残りの一人、白妙に注目が集まる。

 白妙は迷っているようだった。

 彼女は、貫行を一瞥して、苦々しい顔を見せる。彼女の性格上、批判したそうだが、批判すると貫行と同じカテゴリに分類される。それが嫌だとでもいわんばかりであった。

「まぁ、歌は下手くそだったけれど、その辺のうるさいだけの歌に比べれば、まだ聞いていられるかな、ってかんじ」

 結局、中途半端に褒めることによって、他の女子勢と同じく肯定派に加わった。

 繰り返し述べるが、貫行も、決して批判したわけではない。ただ、新体験過ぎた、という他の女子勢と同じ感想である。

 だから、そんな貫行vs女子的な風調をつくるのをやめてほしい。

「よし、ならば、次はおまえらの番だな。誰からやる?」

 平野先生は安堵したように頷いてから、見えないバトンを生徒側に向けた。

 スッと皆の視線が一人に集まる。

「へ?」

 泉美は、きょとんと首を傾げた。

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