第22話
「千秋のやり方自体は、間違っていないんだ。問題はサドルに乗ってから。怖がらずに、力を抜いて背筋を伸ばす」
「で、でも、背を伸ばしたら、ハンドルに手が届きませんよ?」
泉美が不安の声をあげるので、サドルの高さをいじりながら、貫行はなるべく優しく告げる。
「僕が支えていてあげるから、ハンドルのことはまず忘れてもいいよ。泉美は怖がらずに、背筋を伸ばしてごらん」
「わ、わかりました」
まだ、怖がっていたが、泉美は意を決してハンドルに手をかけた。
隣に貫行が立ち、ハンドルを片手で支えてあげる。ハンドルを気にしなくてもいいと言った手前、泉美の代わりに貫行はブレーキバーを抑えた。
小柄の身体ながらも、泉美は意外と運動が得意なようで、ひょいとフレームに跨り、それから足をペダルにかける。
「いいですか? いきますよ」
意気込んでから、泉美は地を蹴って、もう片方の足をペダルにかけた。
「背筋を伸ばして」
「はい!」
元気のいい返事をかえし、泉美はサドルの上にきれいに乗った。バランス感覚もいいらしく、揺れずにスッと前を向いている。
「どう?」
「……高いです!」
だよね。
貫行が、初めて乗ったときも、同じ感想を得た。
サドルの位置が少し高いというだけで、見える景色はまったく異なる。背の小さい泉美にとっては、未体験の世界だろう。
それは高いところに登るのとは異なる。自転車は、自分の身体の一部という認識で、背が伸びたという感覚に近いと貫行は思う。
視界が開けて、世界が急に広く感じる。空気が澄んでいて、太陽が近くなったはずなのに、どこか涼し気な、そんな新世界に訪れた印象。
また、走り出せば、さらなる景色に出会えるのだが、それはまだ泉美には早いだろう。
「泉美、そのまま、ゆっくりハンドルに手を伸ばせ」
「はい」
「ここがブレーキ。僕は放すから、泉美が握って。そんなに強く握らなくてもいいからね」
ハンドル自体は支えたまま、貫行はブレーキを渡す。
格好だけならば、そのままサイクリングに出かけられそうだ。
「よし、それじゃ、ブレーキを放して、漕ぎ出して。あとは普通の自転車と同じだから」
「は、はい。いきます!」
泉美がペダルを踏んで前に進み始めて、しばらくして、貫行は手を放した。
すると、一瞬、泉美の身体は強張ったが、すぐに慣れて、そのまま、ゆっくりと走り出した。
「乗れた! 乗れましたよ! 紀本先輩!」
喜びの声をあげる泉美の後ろ姿を見送って、貫行は、ホッと胸を撫で下ろす。
なんとか一人、乗れるようになった。
泉美はのみ込みが早いので、貫行も説明しがいがあった。
一方で、ぶーぶー言っている残りの二人は、どうしたものか、と貫行は頭をかいた。
「なんかさ、私達のときよりも、丁寧じゃありませんか?」
「そうだよね。千秋達のときは、何の助言もしてくれなかったのに」
「しかも、無駄に身体をべたべた触ってくるし」
「あれだね、千秋達の身体を触りたいから、わざと倒れるように仕向けたに違いないね」
「それだ!」
「それだ! じゃねぇよ」
並んでジト目を向けてくる二人の女子に、貫行は突っ込みを入れた。
「二人は、自分でできるって言うから、助言をしなかったんだよ。だけど、転んだら危ないから、わざわざ補助してあげようと思ったのに、暴れるから」
「「教え方がわるい」」
……おまえら、いつの間に仲良くなってんだよ。
ハモらせる白妙と千秋であったが、そのハーモニーを崩したのは、白妙であった。
「ふん。けど、たいしたものですね、千秋先輩。あれだけ、啖呵きっておいて、ずいぶんなこけっぷりで」
「いや、あれは、違うくて!」
珍しく千秋は慌てていた。
「で、でも、白妙ちゃんに比べれば、千秋の方が長く乗れていたもんね」
「な! ほんの1秒くらいで勝ち誇らないでくださいよ!」
「ぜんぜん違うね。1秒あったら、地球を7週半できるね」
「意味わかんないこと言わないでください!」
たしかに意味はわからないけれども。
言い争っていた二人は、急に貫行の方を見た。
「「どう思う!」」
「え? 五十歩百歩だと思うけど」
「「うるさい!」」
息が合ってないんだか、合っているんだか。
「二人も練習すれば、乗れるようになりますよ」
だけれども、人の話を聞かないこの二人が、今日中に乗れるようになるのか、かなり疑わしいのだが。
「おぉ、やっているか」
貫行が途方に暮れていると、校門の方から平野先生が歩いてきた。
「で、どうだ? だめそうか?」
「だめ前提で話すのやめてくれませんか」
たしかにだめだけれども。
「いや、そう言うが、なかなか難しいぞ。ロードバイクに乗るのって。それも、こいつら、みんな文化部のもやしっ子なんだから」
「あぁ、そうですね」
「「おい」」
反論する白妙と千秋であったが、実際そのとおりなんだから仕方がない。
平野先生は、何の不思議もないといったふうに、車の鍵を取り出してみせた。
「だから、車、借りておいた」
用意いいんだけど、何か釈然としない。
最初から、荷物運びのために、平野先生は車で向かう算段だったのだけれども、三列の大きな車を用意していたところ見ると予期していたようだ。
「貫行は、どうする?」
「僕は、自転車で行きますよ」
そもそも今日の目的の八割は、サイクリングなのだ。そこを省くという選択肢は、貫行にはない。
結局、女子三人は車で行くこととなった。
泉美は、たしかに乗れるようになったが、まだ公道を走らせるわけにはいかない、という教師の判断である。
「で、あれは、そろそろ止めてやった方がいいんじゃないのか?」
「きゃぁー!」
平野先生は、くいと首をひねって、悲鳴のもとを指す。
そこには、自転車で校庭をまわっている、というより、自転車に振り回されている泉美の姿があった。
そういえば、忘れていた。
「せ、せ、せせせせ、先輩! 止まり方を教えてください!」
泉美は完全にテンパっており、目がちらちらと泳いでいる。止まるためには、まずペダルをまわすのやめるべきなのだが、彼女は決してやめない。止まったら死ぬマグロのように、足を止めたら倒れると頑なに信じているようだった。
「泉美、落ち着いて。とりあえず漕ぐのをやめて、ブレーキをゆっくりとかけて」
「で、でも、止まっても、私、降りられません!」
「僕が補助するから、こっちの方に来て、止まりな」
「わ、わかりました!」
宣言通り、泉美は貫行の方に向かってきた。しかし、彼女に、足を止めて惰性で運行する技術はないらしく、ブレーキをかけながらペダルを漕ぐという、なぞのマッチポンプを繰り返していた。
結果、
「止めてくださーい!」
「いや、足を止めろ!」
止まらなかった。
やばっ!
突っ込んでくる泉美を、貫行は闘牛士ばりのぎりぎり感で避けた。
すかさず、ハンドルを握り、ブレーキレバーに指をかける。
ハンドルを支えられたことによって、安心したのか、泉美はやっと足を止めた。
だが、急にすべての動きが止まったことで、慣性という法則が、泉美と貫行に襲いかかった。
「うわぁ!」
暴れ狂った馬のように後部車輪を持ち上げて、それをあわてて貫行が押さえ込む。
その後、なんとか治まったのだけれども、貫行も変な態勢で支えていたため、もはや、力及ばず、
「ごめん、泉美」
「え?」
ヒューとゆっくりと、しかし確実に、貫行を背にするようにして、
「きゃー!」
本日三度目の転倒を体験することとなった。
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