第11話
「約束は守ってくださいね。先生」
白妙は、ぎろりと平野先生を睨みつけた。
「あぁ、安心しろ。俺は約束を守る。現に、今、約束を破ろうとしているのはおまえの方だしな」
「……」
平野先生の正論を、白妙は完全に無視した。
「この試合で、高峰が勝ったら、研究会をやめる。高峰が負けたら、このまま研究会を続ける。その条件でいいな」
「えぇ」
白妙が頷くと、その対面に座る辻先生が気まずそうに口を開いた。
「あのね。やっぱり勝負で決めることじゃないと思うんですけど。ほら、やりたくもないのに、研究会を続けても、高峰さんのためにならないし」
やはり何度聞いても、辻先生の言うことの方が正しいと貫行は思うのだが、白妙はまったくお気に召さなかったらしい。
「心配要りません。私が勝ちますから」
なんと勝ち気な女だ。
まるで燃え上がらんばかりに膨らんだ意気込みが、白妙の背後に渦巻いているようにすら見えた。
その気に当てられたのか、辻先生はいくらか気圧されているようだった。
「辻先生、高峰の進退のことは忘れて、とりあえず試合に集中してください。別に俺も、むりやり研究会の残したりはしません。本当に嫌ならば、ちゃんと退部させます。ただ、こんな辞め方は、承認できないと、それだけなんです」
「平野先生……、わかりました。それじゃ、真剣にやりますよ。高峰さん」
「えぇ、お願いします。あとで言い訳されても困りますから」
白妙は、とにかく煽っていくスタイルのようである。
ここまで、穏やかだった辻先生だが、さすがにカチンときたのだろうか、右頬をぴくりと震わせた。
まぁ、いくら若い先生といっても十ほど下の生徒に、堂々と喧嘩を売られたら、イライラとするだろう。
初めから険悪な雰囲気であった研究室であるが、その険悪さはどろどろを増していき、もはや空気が重くすら感じるほどとなっていた。
なんだか、いたたまれなくなってきた貫行は、そろそろ帰ってしまおうかと本気で考え始めた。
そもそも、貫行が見守っている必要などないのだ。
少しだけ興味をもってきた百人一首。その競技かるたの実戦が見れるというので、来てみただけで、正直、白妙の進退などどうでもいい。
やめたければやめればいい。
その程度の気持ちしかない貫行にとって、これほどギスギスした空気に耐えてまで、競技かるたの実戦を見たいとは思わないのだった。
冒頭、少し見たら帰ろうかな。
貫行がそんなふうに一歩足を引いたところで、やっと試合が始まるようだった。
「それじゃ、試合を始める。序歌を流すぞ」
序歌という単語の意味はわからなかったが、平野先生が解説しなかったのだから、今は重要ではないのだろう。
スピーカーからノイズが漏れい出てきて、その奥に人の気配が現れる。
まだ一言も発していないのに、そのノイズの中から、気配を察せるというのは、いつも不思議だ。
そんな貫行の些細な疑問などは当たり前だが誰も気にすることもなく、試合のための和歌が詠まれ始めた。
『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花』
詠まれて、平野先生の言った意味がわかった。
これは、たしかに歌だ。
詠み手は女性だった。
朗々と、という表現がぴったりと嵌りそうな、そんな調べであった。現代のPOPなリズムではない。それは、貫行の知っている楽器では、到底鳴らすことのできない旋律。
そうだ、これは楽器じゃない。
鳥の声だ。
ぴーひょろろと、とんびの鳴き声が貫行の耳元をかすめていく。まだ、少し冷たい風が吹き抜け、木々がさやさやと揺れる。その隙間を縫うようにして、響いてくる調べは、風のささやきに調和して、たなびいている。
人工的に造られた音ではあるものの、排他的ではなく、調和的とでもいうべき、女性の声。離散化されることなく、連続的に発声されることが、わるくいえばノイズのように、よくいえば小川のさざなみのように、貫行の耳の奥の深いところを揺さぶった。
これを詠むのは、たいへんそうだな。
平野先生は、詠むのが下手だと言っていたが、下手だということは詠めるということだ。貫行ならば、そもそも詠めやしない。
初めて聞く和歌に対して、貫行が感嘆している一方で、ん? と不思議なことが目の前で起こっていた。
動かない?
既に和歌は詠まれた。
けれども、白妙も辻先生も、微動だにしなかった。
まさか、二人共、まだ探しているのか?
以前、白妙は、コンマ1秒を争うゲームだと言っていた気がするけれども、それにしては、いささか鈍い進行ではないか。
貫行が、首を傾げていると、スピーカーから次の音が流れ出した。
「ほ――」
パン!
すべては瞬く間の出来事であった。
何が起こったのか、貫行は、しばらく理解できなかった。
スピーカーから何かが聞こえてきたのだ。その音が貫行の耳に届くや否や、同時に何かが貫行の頬をかすめて背後へと飛んでいき、続いてつんざくような破裂音が部室内に響き渡った。
「え?」
貫行は反応できたのは、白妙が黙って立ち上がってからだった。
白妙は、黙って貫行の横を通り過ぎ、床から何かを拾いあげた。彼女の手に持たれていたものは、この状況ではさほど驚くものではない。
札だ。
一度止まっていた脳内の映像が再生される。
すべてが見えたわけではないが、音が鳴った瞬間に、白妙と辻先生が動いた。
そして瞬いたときには、振り抜いた後。
時系列で考えれば、音に反応した白妙が、札を振り抜き、そして弾き飛ばしたのだ。
「「「はやっ!!!」」」
貫行、以下女子二人の競技かるた初心者は、ほぼ同じ遅れによって驚きが追いついてきた。
「何ですか、今の!?」
「だよな! まったく見えなかった!」
「ぜひ、ハイスピードカメラで撮ってみたいね!」
それぞれが興奮している一方で、競技かるた経験者の面々は、しらっとした顔で、初心者達の熱が冷めるの待っているようだった。
「まぁ、こんなもんだ」
平野先生は、淡々と述べた。
「いや、こんなものって、すごい速さでしたよ」
貫行が驚きを伝えるが、平野先生にはまったく響いていないようだった。それでも、珍しく興奮していた貫行は、話を続けた。
「一首目は、まったく動かなかったのに、二首目はもう聞こえなかったし」
「あぁ、それは、違うんだ。一首目は序歌と言って、最初に必ず流すんだ」
「どうしてですか?」
「詠み始めのタイミングの問題なんだ。いつ詠み始めるか、というのは、競技かるたにとって詠み始めのタイミングが非常に大事だからだ」
平野先生が説明を始めようとしたところ、白妙が不満そうに顔をあげた。
「その話、長くなりそうですか? 今、競技中なんですけど」
「すぐに終わるさ。それに、今は競技中であると同時に研究会の活動中でもある。競技かるたの説明も大事な時間だ」
「……さっさとしてください」
白妙がそっぽを向いたので、平野先生は説明を再開した。
「そうだな、まず、なぜ詠み始めが大事かといえば、競技かるたでは、最初の6文字以内で勝負が決するからだ」
「6文字で、ですか?」
泉美の合いの手に、平野先生は頷く。
「そうだ。簡単な話で、最大で6文字あれば、百首の内どの歌なのかわかるからだ。早いものは最初の一字で決まる」
「たった一字!?」
せっかく31文字もあるのに、もったいない。
「さっき、高峰が取った札も、その一つだ。
『ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる』
という歌だが、百首の中で、ほ、から始まる歌はこの一首のみ。だから、一文字目が詠まれた瞬間に、札をとることができる。ちなみに一文字でわかるものを一字決まり、二文字で決まるものを二字決まりと呼ぶ」
それはゲーム性を高めているのか、それとも、つまらなくしているのか。
だが、一文字目で決まると言われれば、詠み始めが大事であることは理解できる。
「詠み始めが勝負を左右する。だからこそ、詠み始めがいつになるのかを定める必要がある。さて、それでは、どうやって詠み始めを定めているかだが、至極簡単な方法で、前の句が詠まれてから、一秒とされている。さぁ、これで序歌がある意味がわかっただろう」
前の歌を基準としているから、一首目だけ揃えることができない。
それを解消するための、序歌ということか。
「あの、もういいですか。早く再開してほしいんですけど」
白妙がしびれをきらして、畳を叩いた。
「あぁ、わるかったな。それでは再開しよう」
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