9
お店を辞めた。
突然、行きたくなくなった。どこにも。
少し預金がある。
冬人が私にお金を出させなくなってから
貯められるようになったから。
なくなる前に働かなくちゃいけないけど
今は、なにもしたくないし
誰にも会いたくない。
朝も夜も関係なく、眠たくなったら眠る。
タオルケットと毛布で身体を
翼があればよかったのに。
そうすれば、自分を包むことができた。
目が覚めるとシャワーを浴びる。
煙草や飲み物がなくなったら
仕方なくコンビニへ出かける。
そうしてたら、気づかないうちに
街路樹の銀杏がクリーム色になってた。
こうして何もしないのは、おばあちゃんが
天国に行った時以来。
あの時は、世界がふつうであることが
とても信じられなかった。
完全に取り残されてた。何からも。
何ヵ月かぶりに、気まぐれにCDを手に取って
小さなステレオにセットする。
いちばん上にあった、女性シンガーのCD
よかった。女のひとの声で。
久しぶりに聞いてみると、すてきな歌声だと思う。もう亡くなってしまっているけれど。
うちには、昔
たくさんのレコードがあった。
ビートルズ、サイモン&ガーファンクル
カーペンターズ····
父が好きだった。
もう聞かないから、と
私がレコードに触っても怒られなかった。
レコードのプレイヤーにセットして
回り出したら、針を乗せる。
畳の上に転がって聞いた。
言葉も演奏も、意味も わからなかったけど
ばらまいて散らかしたレコードの
ジャケット写真の中で、プレイヤーから流れる
音や声を聞きながら
空想をしたり、不思議だと思うことを
やっぱり不思議だって考えてた。
太陽が燃え尽きないことや
蟻や蜂は大きな家族で暮らすこと
花にはたくさんの色があること
だって動物も昆虫も、
どうしてだろう って、とりとめもなく考えて
鏡の向こうにはもうひとつ世界があるだとか
あちこちに思いを巡らせては途切れさせて。
夕暮れの色になると、のそのそと起き上がって
散らかしたレコードを片づける。
そのまま寝てしまってなければだったけど。
音楽は、必要じゃなかった。
流していたけど、ちゃんと聞こうとはしてない。
だけど、レコードはすきだった。
小さな頃の私の楽しみのひとつだった。
たまに音が途切れたりすると
クリーナーでレコードを拭いたり
勝手に針を取り換えたりした。
そういうことは、私の中では特別なことだった。
大人になった気分だった。
藍月も、お店を辞めてた。
それで、遠くに引っ越すって言う。
今の彼と一緒に。こないだのお客さん。
『彼のこと、すきじゃないの。
きらいじゃないけど』
それなら、どうして?
『ひとりで行くのは不安だし、怖いから』
藍月は、遠くに行く。
奥底で恋するひとも、私も置いて
雪がいっぱい降るところへ。
『世界が白くなるなんて、すてきだから』
雪は、なにもかもを白く覆い尽くす。
きっと 胸のなかまで。
藍月は、触れられるようで
触れられないものがすき。
オーロラ 煙 ダイヤモンドダスト 月も 影も
だから、誰も手が届かないところに行く。
今の藍月からも。
今あるなにもかもから とおくへ。
彼女の出発の前も 私たちは会わなかった。
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