いるかショーまでは、まだ少し時間があった。


ヒールのサンダルでなんて来なきゃよかった。

爪先の近くが痛くなってきた。


水族館内のレストランで、また休憩を取る。

隅の方の席に小さく座って。


煙草は吸えないから我慢する。

いるかショーのあとに、喫煙コーナーに行こう。


水槽のお魚たちを見ながら、スロープをのぼって

いつの間にか2階にいた。


前に来た時もそうだったな。

少し疲れた頃に、ちょうどレストランの前につく。あの時は、何を食べたんだっけ?

考えるけど思い出せない。きっと、冬人ばかり見てた。


ああ だけど、私は煉瓦色のブーツを履いてた。

秋になって買ったばかりのブーツだった。


まっすぐに すきだった。


それは言い切れる。


だめなひとだって思いながら

とても すきだった。 とても。



冬人と一緒にいる時に、冬人のスマホが鳴った。

音を切り忘れていたみたい。


『出れば? 私、しゃべらないから』


冬人は怒って出ていった。いつもみたいに。

私もいつもみたいに放っておいた。


二日後に戻ってくると、目の前に

婚姻届を出してきた。


『一緒になろう』って。


それ、本当に出すの? 書くだけでしょ。


それが私が思ったこと。

ああ もう 終わりなんだ って、確信した。



爪先が少しましになったから、椅子を立つ。


炭酸のジュースなんて選ぶんじゃなかった。

半分しか飲めなかった。


もうすぐ いるかショーが始まる。

ステージがあるプールには、2階のドアからも

行くことができる。


レストランを出てプールに向かおうと思ったけど

少し離れた場所にある水槽が目に入った。


建物の奥まったところ。


窓がないから、控えめな照明の下では

その場所も水槽も薄暗く見えた。


両手に収まるくらいの 丸いかさの海月くらげ

長い触手をなびかせて 水に浮遊する。


まるで 空にのぼってるみたい。


ふわふわともゆらゆらとも違う。

漂ってるわけでもない。柔らかい浮遊。


小さな頃


今くらいの時期だった。


父が私に、虫を取りに行くぞ って行って

ふたりで山に行った。


虫なんて すきじゃなかった。

でも『いないな』って言って

木を見上げる父の顔を、今でも覚えてる。


東京から田舎に越したばかりの頃

まだ喫茶店をやってなくて、母も家にいた。


おやつにはよく、ホットケーキを焼いてくれた。


だから私は、時々外食に連れて行ってもらっても

ホットケーキしか食べなかった。

そしていつも、母のホットケーキがいちばん

おいしい って、誇らしげに思ってた。


くらげは浮遊する。

海の月だなんて、なんて名前をつけたんだろう。



実家に 帰ろうかな。

すぐに そんなことはムリだと考え直す。


今の実家の家は、私が実家を出てから建てられた。


家を建てたことも知らなかったし

帰省した時は、客間で寝る。


私はもう、いないひと。


どこにも居場所なんてない。

誰の胸のなかにも。



小さな女の子が、私の隣に並んだ。

同じ水槽を見てる。


「きれい」


幼い声で、私に言う。


「うん きれいね」


私を見上げたその子は、幼い頃の私に似てた。


あの頃の私に会って、抱きしめることができたら

どんなにいいだろう。


急に、なみだが頬をつたう


水槽に向き直る私の隣で 女の子も海月を見てた。ずっと。

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