人でなし西萩のいじめ考察

 ある平日の昼下がり。具体的には午後一時ごろ。私こと島永明日香は西萩相談事務所に続く階段を軽快な足取りで上っていきました。溝の口のとある場所、結構どこにでもありそうな五階建てのビルの四階に目的地はあります。鼻歌でも歌い出しそうな気分でインターホンを鳴らすと、数秒遅れて相談事務所のドアは開きました。

「あ。明日香。いらっしゃい」

「お邪魔します、西萩さん! これ、頼まれてた資料です!」

 元気よく情報の書かれた資料を手渡すと、西萩さんは「ん。いつもありがと」と言ってそれを受け取りました。

「寒かったでしょ、お茶でも飲んでいきなよ。大したものはないけどさ」

「いいんですか!? じゃあお言葉に甘えて!」

 西萩さんの提案に食い気味で賛同すると、私は事務所の中に入りました。後ろではドアを開けて待っていてくれていた西萩さんがドアを閉める音がします。

「いやー、お二人の愛の巣にお邪魔するだなんてこの島永明日香、無粋なことをしている自覚はあるんですよ。でも、それでも! 見たいものは見たい! それが腐女子の欲求――ってあれ、舩江さんは今日はいらっしゃらないんですね」

 いつもならこの時間帯だったら舩江さんはお昼を食べて事務所にいるぐらいの時間です。私の疑問に西萩さんは「んー」とか歯切れの悪い答え方をしながら、給湯室にお湯を取りに行ってしまいました。興味を持った私は、その後をさりげなく追いかけます。

 インスタントの緑茶を湯呑に入れ、保温状態にしてあったであろうポットから西萩さんはお湯を注いでいきます。こぽこぽと心地よい音が給湯室の中に響きました。

「今日、さ」

 ぽつり、と。湯呑の中をかき混ぜながら、西萩さんは切り出しました。

「出先から戻ったら、舩江が珍しく人間のお客さんの相手をしてたみたいでさ」

 舩江さんが。人間のお客さんを? そんなことがあるはずがないのです。だって舩江さんは極度の人間嫌いなんですから。

「まあそのお客さんは、僕と入れ違いで帰っちゃったんだけど」

 有り得ない事態にぽかんと口を開けていた私をよそに、西萩さんはお盆の上に湯呑を置いて、来客用のスペースに向かい始めました。慌てて私も道を譲り、ソファの方へと歩き出します。

「で、珍しいね人間の相手するなんてって言ったら、その子、学校でいじめられてる高校生だったみたいでさ」

 ほう、高校生がこの事務所に。西萩さんにならってソファに腰を下ろすと、安っぽいスプリングがぎしっと沈み込む音がしました。

「なんか放っておけなかったみたいな感じのことをもごもご舩江が喋るから、あーこの反応は舩江も昔いじめられてたクチだなあって思ったよ」

 はい、どうぞ、と湯呑を目の前に置かれ、私は素直にそれを受け取りました。西萩さんも湯呑を持ち、冷えた指先を温めているような動作をしています。

「で、ちょっと外の空気吸って気分転換してきなよって追い出したとこ」

 なるほど。そういう事情でしたか。西萩さんがいつになくアンニュイな雰囲気を醸し出しているのもきっとそのせいなのでしょう。

「僕も昔いじめられてたからまあ分からなくはないよ」

 意外な言葉に、私は口に運びかけていた湯呑を止めました。西萩さんがいじめを受けていた? 意外です。てっきり西萩さんはいじめに加担することもなければ、被害者になることもない方だと思っていましたから。私は好奇心がこらえきれなくなって、思わず西萩さんに尋ねてしまっていました。

「その……差し支えなければそのいじめについてお伺いしても?」

 すると西萩さんはちょっと目を見張った後、いつも通りの表情でふにゃっと笑いました。

「いいよ、僕あんまりそういうの気にしない性質だし」


「うーん、どこから話そうか」

 長くなるだろうと西萩さんが出してくださったお菓子に手をつけないまま、私は手帳とペンを無意識のうちに取り出していました。出してしまってから我ながら不謹慎だとは思いましたが、これも情報屋の性なのです。ごめんなさい、西萩さん。

「ではいじめのきっかけからお教えいただいても?」

「そうだね、それが分かりやすいかな」

 西萩さんは顎に当てていた手を離すと、目の前のお菓子に手を伸ばしました。

「と言っても、ありきたりな理由なんだよ。僕がいじめを受け始めたのは中学二年生の二学期でね。それまでは別の子がいじめの標的になっていたんだ」

「もしかして……その方を西萩さんが庇われたんですか?」

「ううん。僕は特に仲良くなかったよ」

 じゃあどうして、という視線を向けると、西萩さんはお菓子のビニールを破こうとしながら平然とした口調で言いました。

「いや、その子、二学期に死んじゃってさ」

「え……」

 それは――事故とかそういう意味でしょうか。おそるおそるそう尋ねた私に、西萩さんはお菓子と格闘しながら答えました。

「ううん、自殺しちゃったんだ。いじめのせいだったみたい」

 他人事のように――いや実際他人事なのでしょうけど、そう言う西萩さんに、この人結構薄情な一面があるんだなあと思いながら私は手帳にペンを走らせました。

「それで、何故か僕が彼への弔辞を読み上げることになったんだけどね。いじめをしていた連中はそれが気に入らなかったみたい。いや、もしかしたら僕と彼が仲良しだったと勘違いしていたのかもね」

 びりっと音を立ててお菓子のビニールが破け、おせんべいの破片が床へとはじけ飛びます。

「かくして僕は、彼の受けていたいじめをそっくりそのまま受けるようになったのでした、まる!」

 明るい口調で西萩さんはそう言います。それが本心なのか、それとも昔の傷を隠すために見栄を張っているのかが判断できず、私はただ顔を俯かせて「そうですか……」と言う他ありませんでした。

「あーもう、そんな顔しないでよ、辛気臭いなあ」

 けらけら笑いながら西萩さんは手を振ります。まるでおばちゃんのようなその仕草に少し笑ってしまいながら、私は重ねて尋ねてしまいました。

「……どういったいじめを受けられていたんです?」

 我ながら外道な質問をしている自覚はありました。でも止まらないのです。なぜなら私は情報屋ですから。西萩さんは口の中のおせんべいをもごもごと咀嚼しながら答えました。

「うーん、無視されたり、陰口叩かれたり、持ち物隠されたり、教科書をぐちゃぐちゃにされたり? あと、先生の見えないところで暴力を振るわれたりもあったかな。それから恐喝もあったね、お金いっぱい取られちゃった」

 淡々と語られる生々しいいじめの内容に、流石の私もこんなことを聞いてよかったのかと不安になってきました。でも、ここまで来て、やっぱりなしというのもおかしな話です。私は西萩さんに続きを促しました。

「助けてくれる方はいなかったんですか?」

「うん、誰もいなかったよ。まあそうだよね、僕が彼らでもそうするし。面倒事には巻き込まれたくないもんね」

「でも先生とか……!」

「二年生の時の担任はそういうの放任主義だったから」

「そんなもの放任主義とは言いません!」

 つい熱くなってしまった私に、西萩さんはへらへら笑いながら私を諌めました。

「まあまあ明日香、落ち着いて。過去の話なんだから。もう終わったことなんだよ」

 相変わらず軽い調子で西萩さんはそう言います。私は少し恥ずかしくなって、ソファに縮こまって座りなおしました。

「そんなこんなで続いていたいじめだったんだけど、三年生の一学期に転機が訪れてね」

「転機、ですか」

「うん。いじめの首謀者たちが僕のことを呼び出してリンチしてきたんだ」

 リンチ、だなんて小説や漫画でしか聞いたことのない単語が目の前の平凡な男性から飛び出て、私は思わずぎゅっと手を握り込みます。

「僕をぼこぼこにしながらその時の彼らの言ってたことを要約すると、どうやら彼らは何をしても僕に苦しむ様子がないのを不満に思ってたみたい。なんでここまでしても平気な顔してやがるんだって怒鳴ってきたんだよ。勝手な話だよね」

 本当に身勝手すぎます。自分たちがいじめをしておいて、反応がなければさらに怒るだなんて。いつの間にか当時の西萩さんに感情移入してしまっていた私は、ほとんど泣きそうな気分になっていました。身勝手です。そのいじめっ子たちも、今こうして西萩さんの傷を抉っている私自身も。

「だから僕、その時言ってやったんだ」

 西萩さんは指を軽く組んで、私をしっかりと見ながら言いました。


「芸がない、ってね」


「……は」

 間抜けな声が唇から漏れました。少しの間、西萩さんが何を言ったのか理解ができませんでした。いいえ、理解したくなかったのです。こんな見るからに常識人らしい方が言っていいようなセリフではないのです。だけど西萩さんはそんな私のことなんて気にも留めず、若干熱くなりながら語り始めました。

「だってさ、無視、暴力、持ち物隠しだなんて、今時三文芝居ですら使い古されてるネタだよ? 体育館裏に呼び出して恐喝なんて、ジャンプでも最近は使われないネタじゃないか。もっと独創性を持ってもらいたいものだよね!」

 ぷんぷんと効果音がつきそうな仕草をしながら西萩さんはそう言います。私はそれにうまく反応できず、少し震える唇で「どうして」とだけ尋ねました。

「えっ、どうして? だってどうせ逃げられないなら、ちょっとはこの状況を楽しみたいって思わない?」

 分かりません、西萩さんの思考が皆目分かりません。

「それに不便だとは思っていたけど、別に嫌だとは思っていなかったしなあ」

 しみじみと言う西萩さんに、私はまるで別の生き物を見るかのような目を向けてしまいました。

「それからいじめはエスカレートしてさ、翌日登校した僕の上に僕の机と椅子が降ってきたんだ。間一髪、狙いは外れたんだけどね。僕はよしよしこれだよ、って思ったね」

 西萩さんははしゃいだ子供のような表情で語り続けます。

「僕を川に突き落として溺死させようとしてきたり、油かぶせてライターをちらつかせてきたり、僕に土下座させて命乞いをさせたり、そうそう、あいつらがカラスや猫の死骸を僕の机の上に置いてきた時は感動すら覚えたね」

 見るからに機嫌のよさそうな西萩さんは、こんな状況でなければ、いつも通りの平和な光景に似つかわしいように見えました。西萩さんはパッと腕を広げて笑いました。

「よく捕まえたね! すごい! ってさ」

 僕だって猫やカラスは捕まえられないのになあ、本当にすごいや。

 うんうんと頷きながら西萩さんは感心したようにそう言います。自分の命が危機に晒されていたというのにそんなことを言うのです。だけどふと西萩さんは表情を暗くしました。

「ああでも高校の時の担任はいじめとか許せない人だったらしくてさ」

 西萩さんは再び指を組むと、ぐるぐると指を動かしはじめました。

「僕、地元の高校に進学したから、中学とほとんど面子が変わらなかったんだよね。だからいじめも引き続き行われてたんだけど、僕の担任がそれを止めようとしちゃったんだよね」

 そう言う西萩さんの顔に浮かんでいるのは、若干の後悔のように思えました。私はその表情に安堵しました。よかった、私の知っている西萩さんが戻ってきてくれた、と思ったのです。

「僕は一応言ったんだよ。この状況は自業自得だから、先生は放っておいてくださいって。でも先生ったらあなたは私が助ける! の一点張りでさ」

 西萩さんは顔を上げると、拗ねたようにぷーっと頬を膨らませました。子供っぽいその仕草に一瞬笑ってしまいそうになりましたが、今はそんな話をしているのではないと思い出し、なんとか踏みとどまりました。

「それでなんか頑張ってたみたいだよ? 僕に酷いことをした犯人を突き止めたり、親に通報したり、一緒になってぐちゃぐちゃになった僕の私物を直そうとしたりね」

 西萩さんは太腿にひじをついて、不満げな顔のまま言いました。

「だけど結局捕まって、脅されて、そういうことさせられちゃったみたいでさー」

「なっ……」

「で、そういうことさせられたのをバラされたくなければ次もってなってさ」

「そんな、」

「でもゴムもなしにそういうこと続けてたらいつかはデキちゃうじゃん? それで先生学校辞めることになっちゃって」

 西萩さんは体を起こすと、うーんと伸びをしました。

「風の噂じゃ病んで自殺しちゃったらしいよ。可哀想に」

 言葉とは裏腹に冷たい声色で西萩さんは言いました。そこには何の感慨も感じられません。ただ、自分の忠告に従わなかったことへの不満だけがあるのでしょう。

「まあ、この話で得られる教訓は」

 西萩さんはふと窓の方に視線をやって、遠い目をしました。

「何もかもを自分が救えるだなんて思い上がらないこと、かな」

 その横顔を、その目を見てしまい、私は全身に震えが走るのを感じました。その目は何も映してはいませんでした。何にも期待せず、何にも執着しない。だけど若干の軽蔑の込められた目に、私はがたがたと震えながら西萩さんから目を離せなくなっていました。

 これは誰ですか。こんなの西萩さんじゃありません。私の知っている西萩さんはもっと――

 ――もっと、何でしたっけ。


 気付くと私は慌てて事務所の出口へと駆け出していました。西萩さんに「失礼します」の一言を言ったのか言っていないのかもよく思い出せません。私は震える手でドアノブを掴み、そのまま押し開けようとして――

「ああそうだ明日香」

 背後から響いた彼の声に、私は固まり、ゆっくりと振り向いてしまいました。しかし、そこにいたのはいつも通りの穏やかで飄々とした西萩さんでした。

「こういう質問、舩江にはしないであげてね」

 優しく微笑むその表情にはまるで裏表などないように思えましたし、今さっきまでのあれはただの夢だったかのようにも思えました。

「僕だってこの反応が普通じゃないことぐらい自覚はあるからさ」


 ありがとうございます、失礼しました。

 やっとのことでその言葉をひねり出した私は、今度こそ相談事務所のドアを開いて、廊下へと出ることができました。ドアを背にして、荒くなってしまった息を整えます。その時、上階の方から降りてきた舩江さんと私は鉢合わせました。

「何やってんだクソアマ」

「ふ、舩江さん……」

 私はお化け屋敷から出て初めて人間を見つけた時のような心地になって、ようやくばくばくと高鳴っていた心臓が落ち着いていくのを感じました。

 よかった。大丈夫。ここは現実だし、さっきのはただの悪い白昼夢だったんだ。私はそう思い込むことにして何度も深呼吸をしました。だけどさっきの西萩さんの横顔がどうにも瞼の裏にこびりついていて、私は小声で舩江さんに話しかけていました。

「……舩江さん」

「なんだ、クソアマ」

「西萩さんって……羊の皮をかぶった悪魔なのかもしれないですね」

 それを聞いた舩江さんはしばらくしかめっ面をした後、小さく「何を今更」とだけ答えました。

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