溝の口で幽体離脱

 まず俺が事務所に入った時に感じたのは、正体の分からない違和感だった。


「おはよう船江」

「……? おう」

「昨日の報告書が出来たらデータ送ってね。あと依頼のメール転送するから目を通して」

「分かった」


 俺は窓の外を眺めて笑っている西萩を見ながら、その違和感について考えてみた。至って普通の光景だ。ブラインドが閉まりっぱなしの窓も、その近くでぼーっと突っ立っている西萩も、微かに外から聞こえる喧騒も、全てがいつも通りだ。


「どうしたの? 具合悪い?」

「何でもねえよ」

「そう? あ、コーヒー淹れるなら僕の分もお願い」

「知らん」


 俺はパソコンが起動したのを確認してからジャケットを脱いで給湯室に向かった。あいつのコーヒーを淹れるつもりはない。


「それにしても、今日はいい天気だね」

「ここしばらくは雨だったな」

「なんか僕の家の近くでも事故があったみたいでさ。怖いねほんと」

「どうでもいい」


 インスタントコーヒーを啜りながらデスクに戻る。美味くも不味くもないその液体の苦みを感じていると、不意に事務所のインターホンが鳴り響いた。


「あ、明日香かな」

「なんでクソアマが来るんだよ」

「この前の依頼の後日経過が気になってさ、明日香に調査してもらったんだ」


 そう言いながらも、西萩はデスクの付近から動こうとしない。俺は仕方なく扉を開けた。クソアマから資料を受け取ったらさっさと帰らせてしまおう。


「おはようございます……船江さんだ! 珍しい!」

「朝からうるせえ」

「西萩さんとは最近どうですか? やっぱり仲良くお二人で熱い夜をお過ごしなんですか?」

「帰れ」

「あー待ってください! 頼まれた情報持ってきたんです! ドア閉めないで!」


 俺はぎゃんぎゃんと喚くうるさい女に顔をしかめながら手を出した。クソアマはクリアファイルにまとめられた書類を手渡し、不思議な顔をして事務所の中を覗き込んだ。


「ところで、今日は西萩さんいらっしゃらないんですか?」

「は?」

「体調不良とか? あ、もしかして船江さん昨晩無理させちゃったなんてそんな展」


 扉を勢いよく力任せに閉めた。外で何か言っているが、聞こえないふりをして俺は事務所長に近付く。西萩は不思議そうな顔をして俺を見た。


「え、船江どうしたの?」


 西萩の前に立って、そこで俺はやっと気が付いた。


 こいつ、影が無い上に地面から数センチほどだが浮いている。


「西萩、お前自分の身体どこに置いてきた?」

「は? 身体?」

「自覚なしか? それ、幽体離脱だろ」


 俺が指をさして指摘すると、西萩は自分の身体を改めるように何度も触って確かめる。しばらくそうして、西萩は驚いたように俺を見た。


「え、もしかして僕死んだ?」

「んなわけあるか」


 拳骨を落とそうとして、すんでのところで踏みとどまる。今こいつを叩けば、うっかり祓ってしまうかもしれない。


「とにかく今日の業務は急ぎのが無いから後回しだ。探しに行くぞ」

「こんなことってあるのか……」


 頭を抱えて困惑する西萩を尻目に、俺はさっき脱いだばかりのジャケットを羽織った。

 なんでこんな面倒な事をしなくちゃいけないんだ。




「で、心当たりは」

「ないなぁ……というか、僕あんまり昨日のこと覚えてないんだよね」

「は?」

「曖昧っていうか、なんかぼんやりとしか分からないっていうか」


 俺は溝の口駅近郊を歩きながら、西萩と会話していた。視えていない周りの連中から独り言の激しい人間だと思われたくないため、イヤホンマイクを繋げて喋っている。件のポンコツは俺の横をふわふわと浮遊しながらついてきた。


「直近の記憶は」

「えーっと……車?」

「お前車持ってないだろ」

「車ってことは思い出せるんだけど、それも抽象的って感じで分かんない」

「ほんと役に立たないな」

「酷いな。ところで今どこに向かってるの?」

「お前の家」

「えっ」

「なんだよ」

「いや、僕の家汚いからあんまり来てほしくないなって」

「知らん」


 隣で慌てる役立たずを無視しながら、俺は踏切を超えて西萩の家に向かう。

 到着すれば、そこはぼろいアパートだった。西萩が言うには、そこの一階、一番奥にある部屋らしい。


「ほんとに入るの? 僕やめてほしいんだけど」


 嫌そうな顔の西萩は見ないふりをして俺はドアのノブに手を掛けた。回せば、あっけなくドアは開く。


「お前、鍵かけてないのか」

「かけてなかったっけ?」


 首を捻って西萩が悩むが、そんなことはお構いなしに俺は部屋のドアをくぐった。

 まず鼻に付いたのが煙草の匂いだ。俺は眉間に力を込めてそのまま靴を脱ぎ中に入る。靴を脱ぐ必要のない西萩は宙に浮いたままついてくる。短い廊下には無造作にゴミ袋にまとめられた生活ゴミがいくつも積まれていて、さらに俺はさらに顔をしかめることになった。


 流しには食べ終わったカップ麺の器がそのまま置かれていた。中には食べ残したスープが入っていて、煙草の吸いさしが投げ込まれている。玄関まで漂っていた煙草の悪臭はこれが原因だったようだ。


「汚えな。捨てろよ」

「……? 僕、こんなのしたっけ」


 きょとんとした顔で流しを眺めながら西萩が呟いた。俺はその素振りに疑問を抱いたが、構わず部屋の奥に歩みを進める。

 ワンルームの中心に敷かれている布団には、誰もいなかった。薄くて硬い敷布団に触れるが、温かさはない。身体だけどこかに行ったわけではなさそうだ。


「お前、本当に身体どこにやったんだよ」

「どこに行っちゃったんだろう? 幽体離脱した身体だけ勝手に動くことってあるの?」

「知らん。少なくとも俺は聞いたことないぞ」


 顔をしかめながら俺は布団を踏み越えて突き当りにあるカーテンを開いた。窓を見ても鍵は開いていないので、外から誰かが入ったわけでもないらしい。一体どうなっているんだ。

 西萩を見れば、変な顔をして部屋を見渡している。何度も辺りをきょろきょろと落ち着かない様子だ。俺はそんな西萩に声を掛けた。


「おい。何してんだ」

「なんか……確かに僕の部屋なんだけど、ぼんやりしてるって言うか、記憶が曖昧? 本当に僕の部屋ってこんなだったっけ、って思った」


 うーん、と唸りながら顎に手を当てて首を傾げている。俺は嫌な予感がして西萩に問うた。


「西萩。お前名前は」

「は? 西萩だよ。船江どうしたの? 頭おかしくなったの?」

「違う、下の名前だ。言えるか?」

「そんなの……あれ?」


 間違いない。こいつ、身体から離れすぎて色々忘れ始めている。何もかも思い出せなくなれば身体に戻れなくなるだろう。西萩もようやく事の重大さに気が付いたらしく、顔を青くして俺を見た。


「え、どうしよう船江。これ本当に僕死ぬの?」

「とにかく身体を見つけるしかねえな」

「不安になってきた……僕が死んだら事務所よろしくね」

「ふざけんな」


 そう悪態をつきながら部屋を出る。革靴を履いてから扉を開けると、ちょうど隣の部屋の住人が帰宅してきたようだった。鉢合わせした彼に面倒だな、と思いながら会釈する。西萩は「あ、佐藤さんだ」と呑気に呟いた。


「あれ、西萩さんのお知り合いですか?」

「え、えぇ……」


 話しかけられた。本当に面倒だ。俺はため息を吐かないように我慢しながらその横を通り過ぎようとする。すると隣人は事も無げに言った。


「西萩さんも不運ですねぇ、事故なんて」

「……は?」


 俺と西萩の声が被った。恐らく目の前の男には俺の声しか聞こえないだろう。男は俺の反応に驚いたのか、目を丸くして話を続ける。


「知らなかったんですか? 確か昨日くらいにこの近くで事故に会ったって話ですけど。若いのに亡くなったりしたらそれこそ可哀想ですよねぇ」

「まさか、僕が覚えてた車って……」

「西萩が今どこにいるか知ってるか」

「え? 病院じゃないですか? 救急車来てましたし」


 西萩はその言葉を聞くと一目散に駆けだした。俺は一応会釈のようなものを男にしてからその後を追いかける。西萩は少しの間走って、ふと道路の真ん中で立ち止まった。


「おい、急に走んな」

「船江、どうしよう。道分かんなくなった」


 あはは、と困ったように笑うその表情は、無理につくろった笑顔だ。俺は舌打ちをして、先導するように歩くことにした。

 目的は大通りを走るタクシーだ。






「本当に良かった……事故って聞いてびっくりしたよ」

「轢かれたのに気が付かないなんて相当馬鹿なんだな」

「変だよねほんと。何はともあれ死ななくてよかった」


 病室で呑気に笑う西萩に、俺はため息を吐いた。危機感が足りないというか、死にかけたにもかかわらずこいつはへらへらとむかつく顔をしている。俺は今度こそ拳骨を頭に落とした。


「いったい! 殴ることないよね!」

「うるせえ。仕事溜まってんだからさっさと戻ってこい」


 俺は腹立たしい思いのまま病室を出た。病院は嫌な気やら怨霊が多くて居心地が悪い。病院を出てから、ふと俺は気が付いた。





 そういえば、あいつの家鍵開けっ放しじゃねえか。

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