溝の口で鍋
「つかこれどうすんだよ」
「どうしようか」
西萩相談事務所の僕のデスクに置かれているものを見ながら、僕と船江は首をひねらせて考え込んでいた。時刻は午後九時。もうすぐ事務所を閉める時間だ。
目の前には、きれいに磨かれた土鍋が存在を主張していた。
ことの発端は昨日に遡る。
僕が帰宅していた時、アパートの近くに何故かたぬきがいた。溝の口はそれなりに栄えているが、まあ都心近くにたぬきは出ないわけではない。生垣にはまり込んでもがいている間抜けな姿がどうにもおかしくて、僕はそれを気まぐれに引っこ抜いて救出してあげたのだ。身体が抜けたたぬきはしばらく僕を見て、そのまま夜闇に消えてしまった。そして、その時の僕は「面白いものが見れたな」程度にしか考えていなかった。
翌日、というか今日。事務所に荷物が届いた。宅急便で届いたわけではなく、朝事務所に出勤したら扉の前に置かれていたのだ。段ボールを見ても宛名は見当たらず、仕方なく僕は見た目より重量感のあるこの荷物を自分のデスクに運ぶことにした。
宅急便の中身は、九号サイズで新品の土鍋と一通の手紙だった。出勤してきた船江の胡乱げな視線を受けながら、僕はその手紙を開封して読み上げた。
「前略 突然の荷物に驚かれたかと思いますが、何卒お許し下さい。わたくし、先日助けていただいた化け狸でございます。生垣にとらわれていたところをこちらの事務所の方に助けていただきました。覚えておいででしょうか? 仲間に聞いてみれば、西萩相談事務所様は私たちのような妖怪を助けてくださる人間だそうで、驚きを隠せません。昨今の日本ではこのように暖かな活動をしていらっしゃ」
「もういい。それで結局何なんだ。要点だけ言え」
「えーっと……」
僕はかなり枚数がある手紙を流し読みしながら、結論を述べた。
「昨日僕が助けたたぬきの恩返し?」
「助けたのか」
「刺さってたから引っこ抜いた」
「助けた……のか?」
疑問符を浮かべる船江をよそに、僕はとりあえず土鍋を手に取った。重たい。これくらいのサイズなら人数がそれなりでも十分鍋を楽しめるだろう。
「鍋ねぇ……これからの季節だとちょうどいいけど、僕料理しないし。船江いる?」
「いらねえ。そんなでかい鍋、置き場所が無い」
「でも捨てるのもな……もらいものだし……あっ」
「どうした」
「事務所で鍋しよう!」
僕は唐突にひらめいたアイデアを言葉にする。船江は嫌な顔をしたが、材料費は僕が払うからと言えば渋々だが了承するようなそぶりを見せた。
僕は手元のスマートフォンを見ながらスーパーに来ていた。映っているのは調味料メーカーがおすすめしている鍋の材料が書かれたページだ。僕はそこに書かれている材料を片っ端からかごに入れた。普段こうやって買い物をしないから新鮮な気分だ。白菜が想像以上に高い事を除けば順調に買い物は終わった。軽くなった財布をスラックスの尻ポケットにしまって、事務所を目指す。人と鍋を食べるなんて初めてかもしれない。
ビニール袋を両手にぶら下げて事務所に戻れば、ちょうどそのタイミングで船江が給湯室から出てきた。手を伸ばしてくるから片方のビニールを手渡せば、中身を覗いて船江が顔をしかめる。
「酒買ってきたのか」
「飲まないの?」
「……考えておく」
ふん、と鼻を鳴らしてまた給湯室に引っ込む。ビニール袋を持って行ったのを見ると、恐らく酒類を備え付けの冷蔵庫に入れるのだろう。
「あ、鍋の用意してる間にそれ飲みたいから一本出しておいて」
「自分でやれ」
「えー」
僕は事務所のデスクに野菜や鍋のスープを広げてから給湯室に顔を出した。
ジャケットを脱いで腕まくりをしながら、船江が鍋を洗っていた。狭い流しでやり辛そうにしているのはなかなかレアな絵面だ。僕が見ているのに気が付いた船江は顎で冷蔵庫を指した。
「んだよ。ビールならそこ入ってるぞ」
「材料出しておいたから鍋あっち持って行ってよ。あ、ガスコンロってあったっけ?」
「知らん。自分で探せ」
「僕より詳しいでしょ」
「お前はここの所長だろ」
面倒くさそうに鍋を洗いながら言う船江に、僕はため息を吐いて冷蔵庫から缶ビールを取り出した。ガスコンロ、あったかな。
結論としては、あった。給湯室の普段触らない棚の中に見知らぬ箱が入っていて、開ければ旧型の重たいコンロが顔を出す。よく見れば小さく「丹田」と書いてあったのできっとこれは丹田さんの私物だったのだろう。
僕が着火に苦戦していると、船江が土鍋を片手でぶら下げて給湯室から出てきた。もう片方の手には僕が飲んでいるビールと同じ缶が握られている。
「あれ、飲むの?」
「別にいいだろ」
船江はビールをまずデスクに置いてから、土鍋をコンロの上に設置した。
「まだ火着かないのか」
「結構難しいんだよこれ」
「貸せ」
僕が場所を譲ると、船江はしばらくコンロを見てからつまみを捻った。僕があれほどやってもできなかったのに、一発で火が着く。
「え、どうやったの?」
「普通に」
そう言いながら、僕が広げた材料を手に取った。鍋の素の表示を読んで船江がふと呟く。
「白湯にしたのか」
「この前テレビで見て美味しそうだと思ったからさ。手伝おうか?」
「いい。お前にやらせたら食えるものも食えなくなりそうだ」
「そんなぁ」
軽口を叩きながら、船江は鍋の素のパッケージを振った。入っていた液体を土鍋にあけて、あらかじめ一口大にカットされた鶏肉を適当に入れ、火加減を調節する。
僕はそれを見ながらビールを呷った。せっかく手伝いを申し入れたのに断られてしまったので、仕方なく大人しくする。
船江は自炊するだけあって、それなりに手際よく鍋に材料を放り込んでいた。あれよあれよという間に、事務所には似つかわしくないいい香りが漂い始める。
鍋の蓋を閉め、船江はソファに腰かけてビールのプルタブを倒す。汗をかいた缶は小気味いい音を立てて開いた。
「船江って本当に料理できるんだね」
「カップラーメンで済ますお前よりはな」
足を組んで大きく息を吐いた船江はぼそっと「どうして俺はこいつと鍋なんか」と呟いていた。僕は聞こえないふりをする。
「そろそろいい?」
「……そうだな」
僕は材料と一緒に買ってきた紙皿と割り箸を取り出して姿勢を正す。船江はまくっていた袖を伸ばして手を覆った。土鍋の蓋を開ければ、湯気と一緒にぐつぐつと音を立てて煮える白湯鍋が現れた。美味しそう。
「あ、船江って直箸とか気にする?」
「別に」
「じゃあいいや。いっただきまーす」
僕は割り箸を割り開いて煮えた材料たちを紙皿に適当に放り込んだ。外食以外で作りたての料理を食べたのはいつ以来だろう?
何から食べようかと僕は少し悩んでから、白菜に箸をつけた。何度か息を吹きかけて冷ましてから一口。いい具合に柔らかくなった白菜の食感と共に、白湯スープがじわりと口の中に広がる。船江はいつもと変わらない表情でネギをつまんでいた。もっとリアクションがないのか、と思ったが普段からこういうものを食べているならそうなるか、と一人で納得する。
「美味しいね」
「普通だろ」
「僕こういうの食べないから」
「自炊しろ」
いつものやり取りの合間にビールを飲んで、鍋をつついて、なんだか友達みたいだ。僕は船江に見えないように缶で口元を隠しながら笑った。
たまには、こういうのもいいかもしれない。気まぐれが思わぬ楽しみを運んできて、いい事ってするものだな、なんて思った。
「そういえば西萩、しめは何買ってきたんだ」
「ラーメン!」
「まあ妥当だな」
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