溝の口の何処かで

逆立ちパスタ

溝の口でバレンタイン

 二月十四日。今日の溝の口にはどこか甘い雰囲気が漂っているような気がした。


 事務所に向かう途中に、嫌でも目に付くポップな看板たち。駅前の大きな液晶に掲げられた宣伝はどれも恒例のイベントを盛り上げるような内容になっていた。


「バレンタインは当店で!」

「お世話になっているあの人に特別な一品を!」


 そう、今日はバレンタイン、気になるあの人にチョコレートと思いを届ける日本独自のイベントだ。そして僕には全く無縁なイベントでもある。一緒に仕事をしている船江は甘いものをそもそも食べないし、僕には恋人と呼べるような女性もいない。安売りしているチョコを買って一人で食べるのが僕のバレンタインだ。




 事務所に到着し、暖房をつけながらコートを脱いだ。まだ冷たい事務所内の空気に震えながら日課になっているメール確認をすると、明日香からメールが届いていた。普段はメッセージアプリで会話するだけあって、珍しさに目を見開く。カーソルを合わせてクリックし、メールを開いた。


「西萩さん、おはようございます! 今日はバレンタインデーですね! いつもお世話になってるのでちょっと事務所に差し入れしにいきます! 事務所開くくらいの時間にお伺いしますね!」


 文面から元気が伝わってくるようだ。僕はそれだけ確認して朝のコーヒーを淹れるために給湯室に入った。ポットからお湯を注いでいると、事務所の扉が開く音が聞こえた。船江が来たらしい。


「さむ……暖房ついてんのかこれ」

「おはよう船江。さっき付けたばっかりだからまだあったまってないよ」


 顔だけ出して挨拶すれば、船江は納得したのか鼻を鳴らしてコートを脱ぎ始めた。


「西萩、コーヒー淹れとけ」

「……はいはい」


 いつも通り船江は、傍若無人な振る舞いで僕に命令してくる。僕は肩をすくめて給湯室に戻った。棚から船江のマグカップを取り出そうとして手を止める。今日くらいは、少しくらい仕返ししてもいいだろう。


「はい、コーヒー」

「ん」


 僕は出来上がったコーヒーを船江に手渡した。船江はそれを受け取り、口を近付けて固まった。


「おい」

「何?」

「なんだこのカップ。俺のじゃないだろ」

「可愛いでしょそれ。この前マルイの雑貨屋さんで見つけたんだ」

「そういう事じゃない。俺のはどうした」

「今日バレンタインだし、それ使ってよ」

「会話になってない」


 僕が手渡したのは、ピンクのウサギが大きくプリントされたファンシーなマグカップだ。ウサギの横には可愛らしい花の模様があしらわれている。ゆきちゃんのような子供が事務所に来た時に使おうと思って購入した。船江は嫌そうな顔を隠そうともせず、僕にマグカップをつき返してくる。が、今日は僕も引き下がるつもりはなかった。


 しばらくにらみ合うが、船江はため息を吐いてマグカップに口を寄せる。眉間に深い皺を刻んでコーヒーを啜った。


「そういえば今日、明日香が来るって」

「っぐふ」


 分かりやすく吹き出し、酷く咳き込んで船江が勢いよく僕に振り返った。


「げほっ、あのクソアマが来るのか」

「うん。差し入れしたいんだって」

「追い返せ、今すぐ」

「僕に言われても……」


 そう言い終わらないうちに、事務所のインターホンが高らかになった。一瞬で船江の雰囲気が険悪になったが、それは見ないふりをして事務所の扉を開けた。


「おっはようございますお二人さん! ハッピーバレンタイン!」

「おはよう明日香」


 明るい声と共に事務所に足を踏み入れたのは、西萩相談事務所がお世話になっている情報屋の島永明日香だ。今日の髪色は冬の晴れた空のような青、随分と目に痛い色合いだ。


「船江さんもおはようございます!」

「帰れ」

「辛辣!」


 船江の心ない返事を気にも留めずに、そのまま明日香は黒コートのボタンを外しながら中に入る。寒いですねぇと呟くながら来客用のソファに腰かけようとしたところで動きを止めた。視線の先は船江だ。


「え……やだ、船江さんなんでそんな可愛いコップ使ってるんですか……最高……」

「西萩の野郎がこれにコーヒー淹れたんだよ」

「モーニングコーヒーを? 西萩さんが淹れて? それを船江さんが可愛いコップで飲む? それなんて公式が最大手」

「西萩、この日本語もまともに喋れない女を追い出せ」

「まあまあ。明日香もお客さんだから」

「俺はこんなのが客だなんて思ってない」


 そっぽを向いてコーヒーを飲む船江を見て、明日香が小声で「これは船江受け大いにある」と呟いていたが聞かなかったことにした。


「とりあえずお茶でも出すからそこで待ってて」

「わーありがとうございます! ちょうどさっき仕事が一件片付いたところだったんで温かいものもらえると嬉しいです!」

「今まで仕事だったの? 明日香って忙しいんだね」

「これでも情報屋ですから。色んなところでお役に立ちますよ、私」

「早く帰れクソアマ」

「あえての罵倒! でもむしろご褒美!」


 賑やかに船江と明日香が会話しているのを背後に、僕は給湯室で来客用のカップにスティックココアを入れた。お湯を淹れるだけで簡単にできる優れもので、たまにどうしても甘いものが欲しくなった時のために僕が備蓄している。いつも明日香にはお世話になっているし、せっかくのバレンタインだ。僕はココアを持って応接室に戻った。


「クソアマ、お前いつまで事務所にいる気だ」

「二人の仲良しな姿を拝むまでは帰れませんよね?」

「本当に早くこいつを追い出せ西萩」

「明日香、ココア作ったけど飲む?」

「飲みます!」

「おい」


 船江が不機嫌に僕を見た時、突然僕のスマートフォンが着信音を鳴らした。事務所の固定電話に連絡があるよりも稀なので、飛び上がるほど驚いた。

まだじゃれあいを続けている二人から離れて給湯室に入り、画面を見ればそこには「非通知」と表示されていた。恐る恐る通話を受け、耳を当てる。


「も、もしもし? どちら様ですか?」

「もし! しょうた!」

「……あれ、もしかしてゆきちゃん?」


 はっきりと聞こえたのは、以前行方不明になって事務所に依頼が来た猫又の子供の声だ。確かに僕は彼女と別れる時に連絡先を渡したが、何かあったのだろうか。


「どうしたのゆきちゃん、何か困ったことがあった?」

「あのね、ゆき、ことばべんきょう、してる!」

「本当だ、上手になってるね」

「それでね、あのね、しょうた」

「うん」

「ちょこ! あげたい!」

「……うん?」

「ゆき、ちょこたべれない。でも、かった! あげたい!」


 そう、ゆきちゃんは猫又である。姿かたちは人間のそれと大差ないが、生態となると話は別だ。食べられるものも、そもそもの嗜好も猫とほとんど変わらないものになっている。


 つまり、ゆきちゃんはチョコレートが食べられないのだ。なのに、僕にチョコを渡したいがためにわざわざ購入したという。僕は緩む口元を隠し切れずに手で覆いながら、通話を続けた。


「そっか、ありがとうゆきちゃん。ところで、今ゆきちゃんはどこにいるの?」

「えきのでわ! ひろいとこ!」

「電話ね、分かった。すぐに行くよ」

「ん!」


 ゆきちゃんの返事が聞こえると同時に、通話が切れた。僕は応接室に向かい、まだ言い争っている船江と明日香の横でコートを着始めると、二人は目を丸くしてこちらを見た。いち早く反応したのは船江だ。


「依頼か」

「依頼っていうか、呼び出し? バレンタインのチョコ渡したいから来てくれって」

「えっ! それって女の子ですか⁉ というか女の子ですよね! 船江さんどうするんですか? 相棒取られちゃいますよ」

「知るか。仕事じゃないならさっさと帰ってこい」

「駅まで行くだけだからすぐ戻るよ」


 じゃあ行ってくる、と事務所を出る。明日香がにんまりと笑みを浮かべながらココアを飲んでいたのが妙に印象に残った。




 事務所を出て駅前の公衆電話に向かえば、待ち人はそこにいた。白い長そでのワンピースに青いマフラーを付けたゆきちゃんは、鼻先を真っ赤にして立っていた。その手には小さな紙袋が握られている。

 僕が手を振って近づくと、ゆきちゃんはそれに気が付いて顔を輝かせた。駆け寄ってくるゆきちゃんが飛びついてきたので、少ししゃがんで受け止めた。


「しょうた! こんにちは!」

「こんにちは、ゆきちゃん。寒かったでしょ」

「へいき! おかあさん、これくれた! しょうたみて!」


 そう言いながら僕に見せるようにマフラーの裾を持ち上げた。マフラーをくれたという母親のしろさんの姿が見当たらない、と辺りを見ればゆきちゃんは話し始めた。


「きょう、おかあさんいない! ゆき、ひとり!」

「迷子にならなかった?」

「だいじょうぶ!」

「偉いね」

「えへへ」


 頭を撫でれば、嬉しそうに目を細めた。思い出したように、ゆきちゃんは紙袋を僕に手渡した。


「しょうた、これ!」

「ありがとう。でも、どうしてバレンタインなんて知ってたの?」

「ひとしゃべる、きいた。ばれったい。だいじなひと、ちょこ!」


 ゆきちゃんの笑顔が眩しい。少女の信頼の証をしっかりと握り、僕も笑い返した。


「ゆきちゃん、ホワイトデーって知ってる?」

「ほわ? しらない」

「バレンタインに贈り物をもらった人がお返しをする日なんだよ。来月は僕が何か用意するから、またここで会えるかな」

「ほんとに? いく!」


 全身で喜びを表現するように何度か跳ねたゆきちゃんは、用が済んで満足したのかマフラーを巻きなおし始めた。


「しょうた、ゆきかえる! つぎ、らいげつ!」

「うん。気をつけて帰るんだよ」

「だいじょうぶ!」


 ばいばーい! と大きな声で手を振りながら、ゆきちゃんは駅の改札方面に走っていった。人込みに紛れたかと思うと、あっという間に見えなくなる。一瞬、利用客の足元を白い何かがかすめていたので、きっと猫の姿のまま無賃乗車でもするつもりなのだろう。僕はゆきちゃんを見送ってから、事務所に戻るため踵を返した。もらった袋は事務所で開けよう。






 事務所に戻ると、そこには船江しかいなかった。コートとジャケットをハンガーに掛けながら声をかける。


「あれ? 明日香帰ったの?」

「あぁ。次の仕事がどうとかでな」


 船江は心底疲れたといわんばかりに大きなため息を吐いた。明日香と二人っきりで会話するというのがよほど堪えたらしい。


「そうそう、あのクソアマからバレンタインの差し入れだとよ。机に置いておいた」

「ありがと。明日香の差し入れって今まで変なものばっかりだったからちょっと楽しみだな」

「お前やっぱり馬鹿だろ」

「なんで!」


 そんな軽い言い合いをしながら、僕はまずゆきちゃんにもらった紙袋を開封した。

 中に入っていたのは、某メーカーの赤いパッケージが特徴的な板チョコだ。表には黒のマジックで歪な文字が書かれている。


「しょうた ありがとう」


 シンプルだが、それ故に分かりやすい。「ょ」と「う」はひっくり返っているが、それでも気持ちは伝わってきた。


「見て、船江。いいでしょこれ」

「ん……あぁ、会いに行ったのはこの前の猫又だったのか」

「そうそう。ゆきちゃんにもらった」

「よかったな」

「あげないからね」

「甘いものはいらない」


 可愛らしいマグカップでコーヒーを飲みながら、船江はパソコンに目を向けて呟いた。僕はそんな船江を置いて、今度は明日香がくれた包みを見る。

 見た目は、ただのプレゼントのようだ。英字新聞柄のベージュが優しい包装用紙を、茶色のリボンとゴールドのシールが控えめに飾っている。女の子らしいチョイスと言うのか、普通に可愛い。添えられているメッセージカードを開けば、そこには癖の強い丸っこい文字で言葉が連なっていた。


「いつもご利用ありがとうございます! お二人で食べてください♡ 明日香」


「船江、二人で食べてくださいだって」

「いらない。一人で食え」

「言うと思った」


 包装紙を剥がせば、下から箱が顔を覗かせる。開けると、そこには可愛らしいデザインのチョコが並んでいた。猫と犬をデフォルメした、食べるのがもったいなくなるような品だ。


「うわ、見て船江。明日香がくれたチョコ超かわいい」

「あ? ……あのクソアマは趣味がいいのか悪いのか分かんねえな」


 不機嫌そうに鼻を鳴らす船江に、猫型のチョコを差し出す。一瞬彼はためらったが、一つだけだと小さな声で呟いて口に放り込んだ。

 僕も真似するように、一口。犬の形をしたチョコは、見た目に反して大人っぽく控えめな甘さだった。相談所に広がる緩んだ雰囲気に、たまにはこんな日もあっていいな、と僕は思った。

 





尚、猫型のチョコにだけリキュールが仕込んであって一悶着あったのは、また別の話である。

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