熊と八咫烏(やたがらす)

日暮奈津子

第1話

肌寒い夜風に吹かれる帰り道、彼は悲鳴を耳にした。

 女の声。まだ若い。

 公園の方だ。 

 痴話喧嘩なら首を突っ込むほど阿呆ではないんだが、いや、それも状況によるなと思いながら彼は駆け出した。

 胸板は厚く、腕も太い。大柄なのに俊敏なのは、毎日の筋トレのお陰だ。

 公園の常夜灯の下、男と女が揉み合っている。狙われたのはバッグか、女自身か。

 伸ばそうとする手に、女が必死であらがう。

「やめて! どろぼう……!」

「何してる!」

 一喝。二人が振り返る。棒立ちになった隙に、女に言ってやる。

「逃げろ!」

 我に返り、女はバッグを抱えて男と反対の方へ駆け出した。

「あ……」

 うろたえる男に追う隙を与えまいと、彼は足早にずんずんと距離を詰めた。

 それが、威圧的過ぎたらしい。

 男の取り出したナイフが、常夜灯の明かりを反射した。

「うっ……」

 それを見るなり、彼は男に向かって突進した。

「すまん、千夜(ちや)さん体、貸してくれ!」

「えっ?! うわぁっ!」

 素っ頓狂な声とともに、夜空にひときわ墨を流したような影が忽然と現れると、彼はそいつの三本目の足を引っ掴んだ。

 影は振り回されながらついと伸びて、濡れ羽色の翼のような刀になると、そのまま勢いよく男の胴に叩き込まれた。

 鈍い音をたてて男の身体が転がる。起き上がらないのを確かめて、ふうと息をついた。

「あーあ、殺っちまった」

 分厚い手の中から黒い刃が消えて、代わりに現れたのは眼鏡をかけた長身の男だった。

「殺ってねえよ! 峰打ちだよ! 千夜さん自分の身体、使われてるんだからわかるだろ!」

「いやいや、峰打ちでも、くまさんが思いっきり私でぶん殴ったら普通に死ぬから」

「力加減ぐらいするよ! 俺だって殺しだけはしたくねえよ!」

「わはは。殺しだけは、ね」眼鏡の男は消え、翼を広げた大ガラスがくまの頭上に現れた。

「とりあえず、ここはまずいよ。くまさん」

 くまの両肩と頭を三本の足でつかんで千夜は空に舞い上がった。くまは身を任せた。



 山の中腹を過ぎたあたりで千夜は人間に戻り、くまを下ろした。

「すまないねえ、夜中に呼びつけて」

「いや、いいけど。でもあんなやつ、くまさんの正体見せたら一発で逃げ出すのに」

「アホか! 住宅街で熊の目撃情報なんか出たら猟友会が山狩り始めちまうよ! 俺はもう村田銃で追い回されるのはごめんなんだよ」

「今どきそんなの持ってるハンターいないでしょ。いつのトラウマなのさ。だいたい、くまさんならその体でも素手で充分でしょ」

「あいつ刃物持ってたじゃないか!」

「防刃グローブは? この前、教えてあげたヤツ」

「あんな高いの、俺の小遣いじゃ買えないよ」

「うーん、じゃあ、こっちは?」

 千夜はどこからか i Pad を取り出して通販サイトを検索すると、出てきた商品をくまに見せた。

「おお。これなら」

「本当は、こないだの方がカッコいいんだけどね。かなり高くなるけど……」



 千夜と別れて、帰り着いた巣穴に夕食はなかった。

「なんでだよ! 今夜はお前が当番だったはずだろ!」

 くまの抗議に、妻は自分の腕の中で泣きわめく子グマ達の声に負けじと怒鳴り返した。

「なに言ってるの!? この子ら置いて、あたしに栗拾いにでも行って来いって言うの?! あたしだって仕事で疲れて帰ってきたところだったのに、この夜泣きに3時間も付き合わされて、ずーっと抱っこ抱っこでもうヘトヘトなのに、あんたはどこをほっつき歩いて!」

「わかった! わかったよ、もう! また俺が行きゃいいんだろ!」

「早くしてよね、悪いけど。……おお、よしよし、いい子だからもう泣かない、泣かないで……」

 いったい何を、誰と競っているのか、2匹の子グマが耳をつんざくような泣き声を上げ続けるのと、それを何とか優しく、しかし疲労といらだちを抑えきれない声であやそうとする母熊に背中を押されて、くまは再び夜の山道に出た。

「あー。もう知らん」

 知らんと言いつつ、栗林の方へ向かった。

 林の中はそこらじゅう、いがぐりが転がって、割れ目からつやつやの栗がのぞいている。

 こじ開けようとするが、手が痛い。

「……防刃グローブでも買うか」

「わはは。そんなことに使うとはね」

 頭上から声が降ってきた。

「な」

 ばさばさっと影が羽ばたいて、夜闇の中へ消えていった。

「くっそー……」

 笑っているかのようなカラスの鳴き声が、まだ遠くから響く気がする。

「ばかにすんなー」

 夜空に向かって毒づいて、それからくまは、栗拾いに戻った。


                       

『熊と八咫烏』おしまい。

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熊と八咫烏(やたがらす) 日暮奈津子 @higurashinatsuko

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