シリアスゲーム

 1

「新規登録が受理されました。ゲームを開始します」

 男は覚醒しつつある意識の中でその声を聞いた。彼は目を開いて以前の記憶の呼び起こそうとするが、頭と視界に浮かび上がるのは漠然とした灰色のイメージだけだった。

「ここはどこです?・・・この光景は?!」

「・・・・賀崎(がさき)様がいらっしゃるには、ツクメエンターテイメントのお客様用ロビーの一室です。現在、賀崎様の身体はその部屋に設置された催眠型仮想現実体験機の上で弊社のコンテンツ〝シリアスゲーム〟への導入段階の状態にあります。・・・稀なケースではありますが、賀崎様はゲームを楽しむための疑似記憶が不完全な状態で覚醒されてしまったようです。既に賀崎様の要望により、ゲームは連続殺人犯を突き止めるミステリーモードに設定されておりますが、ゲームを中止される場合はその旨をお申し付け下さい」

 戸惑いから疑問を口にした男の鼓膜を直接震わせるように説明の返答が告げられる。先程は気付く余裕はなかったが、成熟した女性を思わせるセクシーな声だった。

「ゲーム?!・・・中止したら直ぐに普通の状態に戻れるのですか?!」

「いいえ。賀崎様は既にゲーム導入用に睡眠導入薬を摂取されておりますので連続摂取を避けるために、現在の状態で二時間ほど待機して頂きます。これは一般的な〝シリアスゲーム〟のプレイ時間であります。どうされますか?」

「そ、そんなに?!・・・なんとかして直ぐに起こしてくれませんか?」

「申し訳ございませんが、お客様の安全を守るための利用規約でありますので、その申し出を受けることは出来ません。・・・賀崎様がよろしければ、ゲーム設定を最低難易度に変更し、このままゲームを進められては如何でしょうか?最低難易度でしたらゲーム内に賀崎様を補助するキャラクターが出現しますので、不完全な疑似記憶のままでも弊社のゲームをお楽しみになられると思われます」

「・・・そのゲームに危険性はないのですか?」

「事前にもご説明させて頂きましたが、弊社では利用規約に則ってお客様の安全を第一に運営しております。ご安心下さい!」

「・・・このまま二時間をただ待つよりは・・・わかりました。ゲームを始めて下さい」

 置かれた状況を理解し始めた男は女性オペレーターの声に頷く。上手く言い含められたような気もするが、この頃には自分の名前〝賀崎雄也(がざきゆうや)〟を含む記憶の一部を思い出しつつあった。彼は東京郊外の役所に務める地方公務員であり、安定はしているが刺激のない日常を送っていた。詳しい経緯までは思い出せなかったが、そんな自分が最新鋭の仮想現実ゲームに興味を持つのはあり得ないことでない。それにこれまでのオペレーターの説明によって彼はこの〝シリアスゲーム〟とやらに興味を持ち始めていた。

「ありがとうございます。では次の段階に移らせて頂きます」

 その声を聞くと賀崎はこれまで抑制されていた感覚の多くが刺激されるのを感じた。


 2

 気付いた時、賀崎は一般的なオフィスルームにいた。どこか近視感のある場所ではあったが、夜の帳を見下ろす窓の風景や間取りから彼は〝シリアスゲーム〟が開始されたのだと理解した。

「賀崎警部補、起きられましたか?仮眠を終えたばかりで悪いのですが、四番目の被害者の詳しい死因が判明しました。やはり背後から急所である肝臓部分を鋭利な刃物で一突にされているようです。同一犯と見て間違いないでしょう!」

 周囲の様子から情報をもっと多く集めようと思っていた賀崎だが、部屋に男が入って来た若い男に唐突に語り掛けられる。話しぶりからすると部下に当たる人物のようだ。そして警部補という肩書から自分が正式な警察官の立場であることを知る。

「四番目の被害者・・・」

「ええ、改めてこれまでのデータをお出ししますね。最初の被害者は・・・」

 同じ公務員ではあるが警察官として、どう反応するべきか戸惑う賀崎の呟きに、男は手にしていた端末を操作して空間型ディスプレイを表示させ説明を開始する。この対応に賀崎は先程のオペレーターの説明を思い出した。どうやら彼がゲーム内の補助キャラクターに違いない。プレイヤーがどう行動するか迷った際には、このように部下の立場を取りながらゲームを進行してくれるのだろう。

 察しを付けた賀崎は部下役である男の説明とディスプレイに表示された資料に目を通す、これらはこれからゲームを進める上で大切な基本情報となると思われた。

「えっと・・・君・・・?」

「やだな、賀崎警部補。私は梁川(はりかわ)です。梁川巡査です」

「そう、そう・・・だった。では・・・梁川巡査、被害者達は全員外国人しかも華南共和国の人間・・・なのだな?」

 部下役の男からさりげなく自己紹介を受けると、賀崎は管理職らしい口調でデータから気付いた疑問を問い掛ける。

 華南共和国はかつてユーラシア大陸東に位置した社会主義国家が、アメリカとの太平洋の覇権を賭けた戦争に敗れた際に生まれた新興国である。元の国から親アメリカ派として南側が分裂する形で独立しており、北側は社会主義体制の大華連邦として存続していた。この大華連邦はアメリカと同盟関係にある日本、そして彼らからは裏切り者の立場にある華南共和国と激しく対立しており、この時代において正式な国交はなく水面下での争いが続いている。そんな華南共和国の人間が立て続けに殺害されているのである。賀崎からしても極めて特別な事件だと見て取れた。

「はい、被害者の内二人は留学生で、残る二人は調理師として商業ビザで入国しています。学生の二人は都内の同じ大学に所属しており、学年は異なりますがサークル活動で接点があったそうです。残る二人は勤務先が異なりますが、こちらも都内の商業地区で働いていますから、会おうと思えばこの四人はいつでも会える環境にあったと思われます」

「被害者同士の接点があった可能性もあるわけか・・・」

「はい。その線を疑ってそれぞれの携帯端末の利用状況を調べましたが、全ての被害者にシンガポールへの通信記憶がありました。通信先は実体のないダミー会社です。それに親交が確認されている学生二人はアドレス交換さえしていないようで、お互いの連絡先は登録されていませんでした」

「シンガポール、華僑の繋がりで華南共和国と大華連邦、双方に太いパイプがある国。・・・それに故郷が一緒で、同じサークルに所属しているのに簡単なメールのやり取りもないのか・・・」

「ええ、逆に不自然ですよね。証拠になるようなことを敢えて避けていたのでしょうか?」

「そう見るのが自然だな。しかし、これは単なる殺人事件ではないようだ」

「はい。華南国人が連続で殺されたとあれば、一番怪しいのは敵対する大華連邦ですが・・・被害者達も現在の時点では謎を含んだ存在です。・・・大きな陰謀の匂いがしますね」

「ああ」

 これまでの情報を纏めた梁川の声に賀崎は頷く。謎が部下との会話によって次々に提示される様は、やや都合が良いようにも感じるが、彼は既にゲーム世界にのめり込みつつあった。現代日本を取り巻く政治状況を加味したリアルティのあるシナリオと思えたからだ。

「まずは被害者の交友関係を調べるのが定石と思われますが、どの被害者から始めますか?」

「・・・まずは学生の二人だな、接点があったのは間違いないことだし、何かしらの手掛かりがあるかもしれない!」

 賀崎は自分が本物の捜査官となったつもりで答えた。

 

 3

 場面が切り替わり、気付くと賀崎はマンションと思われるドアの前に立っていた。直接ゲーム内容に関わらない移動等はこうして排除されるようだ。平均プレイ時間が二時間であるすれば当然の処置かもしれない。彼は改めて自分がゲーム内にいる事を知ると、周囲から情報を集めようと意識した。

 単身者向けのマンションなのだろう廊下に連なるドアの間隔は狭い。二十世紀末期から日本の人口は少なくなり続けているはずだったが、都内中心地区の人口はそれに反比例するように逆に数を緩やかに増やしていた。大半は地方からの流入者によるものだが、先の戦争が日本を含むアメリカ側の勝利に終わったことでユーラシア大陸勢力の力が弱まり、東京が東アジアの経済拠点として再評価され、海外からの駐在員や留学者が増えたことも要因の一つだった。

「ここが最初の犠牲者、劉(リウ)林(リン)杏(シン)の自宅です。既に鑑識課の仕事は終わっているので、そのまま入っても大丈夫だそうです」

「うむ」

 端末で電子ロックを解除し、ドアを開ける梁川に賀崎は頷いた。彼からすれば、職場の部下と言うよりは従者のような動きを見せる梁川の動きに苦笑を浮かべてしまいそうになるが、上下関係が厳しい警察ではこんなものだろうと流れに合わせる。

 中は賀崎の想像したとおり単身者用のワンルーム形式の住居だ。だが、女性とは言え若い学生の一人暮らしとしては妙に小奇麗に感じられた。目に付いた家具はパイプベッドと似たような作りの安物の机と椅子、それに布製の衣装収納くらいである。冷蔵庫もないことから一切自炊等はしていなかったようだ。さすがに女性であるので、机の上には小さな鏡と僅かな化粧品が置かれていたが、ほとんど生活の名残を感じさせない部屋だった。

「ビジネスホテルの部屋よりもシンプルだな・・・」

「今は形態端末があれば大概のことは出来ますからね」

 一通り部屋を調べた賀崎は溜息交じりに梁川に告げる。確かに空間ディスプレイが開発されたことで、携帯端末は唯一の欠点だった物理的なインターフェイスの小ささを克服して、据え置き型の端末だけでなく多くの家電、玩具、その他の道具に成り代わっていった。一人暮らしであるなら、寝床と座る椅子があれば生きて行ける。とは言え、ここまで物がないと本当に暮らしていたのかと疑いたくなる。あるいは、いつでも逃げ出せるようにしていたのかもしれない。

「劉林杏をはじめとする被害者達はシンガポールに向けて連絡をとっていたのだな?」

「はい、最低でも一週間に一度は何かしらの連絡を入れていたようです。通信会社にデータ提供を求めましたが、鑑識によれば暗号化されており解読にはかなりの時間が掛かるとのことです」

「やはりそうか・・・」

「ええ、今の段階では大きな声では言えませんが、やはり被害者は表の顔とは別に非合法な仕事を請け負っていたのでしょう」

「ああ、・・・だが被害者がどこの陣営に所属していたかを見極めれば、自然と犯人の姿が浮き彫りになってくるだろうな!」

 梁川の返答に賀崎は満足したように呟く。事前の情報の時点で彼は殺害された被害者がどこかの国に所属するスパイではないかと疑っていた。それが普段の生活を感じさせない被害者の部屋を調べ、通信記録の暗号化を知ったことで、推測が確信に変った。

 高い確率で華南共和国かシンガポールもしくは大華連邦のいずれの国のスパイであると思われるが、現時点で被害者達がどこの国のスパイであるかを特定するのは不可能だ。ここから真実を暴き犯人を突き止めるのは困難にも感じるが、捜査の方向性はこれで確定させることが出来た。

 

 拠点であるオフィスに戻ると賀先は被害者達の過去の洗い出しを開始した。本来ならどこから手を付けて良いのか悩むところではあるが、方向性さえ定めれば具体的な作業は梁川が進めてくれるので、彼が提示する情報を吟味するだけである。

 賀崎はまずは最初の被害者である劉林杏を重点的に調べるよう梁川に指示を出す。犯人側にしてみれば最優先に殺すべきと判断した人物だ。

「賀崎警部補、最初の被害者である劉林杏の詳細なデータを大使館経由で華南共和国政府から取り寄せました。取次を担当してくれた在大使館職員の証言では、相手側は特に反発もなしに応じてくれたようです」

「個人情報の保護を理由に開示を拒否しなかったか・・・」

 現実の捜査ならしばらく時間が掛かったであろうが、ゲーム内なので梁川は一瞬で新たなデータを賀崎に提出する。立体ディスプレイには劉林杏の詳しい生い立ちが記されていた。留学生であるので日本側にも学歴と華南共和国にある実家の住所等は開示されていたが、このデータはちょっとした病気の通院履歴まで網羅されている完璧な代物だった。

「ええ、この情報そのものがダミーの可能性もありますが・・・リスクを考えると開示拒否で逃げると思われますし、劉林杏は華南共和国とは直接繋がっていないのかもしれません」

「ああ、その見るのが無難だろう」

 賀崎は梁川の意見に頷いた。彼も華南共和国がデータを正直に提出したことから、事件への関与だけでなく劉林杏が華南共和国のスパイである可能性が低いと判断していた。友好国だからスパイ活動をしないなどと甘い考えはないが、欺瞞情報を公式に開示するような、後に禍根が残ることをするとは思えなかった。

「はい。それでこのデータが本物としますと、これが重要な証拠になるかもしれません!」

 梁川は立体ディスプレイに映し出されたデータを拡大させると、劉林杏が十四歳だった時の歯医者の通院記録を指し示す。歯の治療痕は本人特定の重要な証拠となるのだ。


「これで被害者達全員が、華南共和国の提示した人物とは別人であることが確定されました・・・」

 最後は声を霞めるように梁川は賀崎に結果を報告する。華南共和国から提示されたデータと司法解剖でのデータを照らし合わせることで、劉林杏と思われていた人物が全くの別人であることが判明した。入国時のデータからその時点では既に入れ替わっていたことも明らかになっている。

 そして残る犠牲者の三人も同じように歯の治療痕から華南共和国から提示した人物とは異なることが確認された。日本政府はどこと誰ともわからぬ人物達をまんまと国内に入れていたというわけである。梁川が忸怩たる思いに駆られるのは無理もないことだろう。

「だがこれで、加害者の範囲は絞られたはずだ・・・」

 ゲーム内の細かい演出に合わせるよう賀崎は気落ちする部下に告げる。確証はなかったが、華南共和国人と入れ替わって日本に違法入国するなど、正常な国交を結んでいる国が取れる手段ではない。消去法で被害者達は大華連邦の工作員と見て間違いないだろう。そうなると大華連邦のスパイが連続して日本国内で暗殺されたことになる。スパイが殺されて・・・いや、殺して特をする者と言えば・・・。

「ど、どうされました!賀崎警部補!」

 犯人像を想定していた賀崎だったが、薄れゆく意識の中で梁川の悲鳴を聞く。それと同時に彼は漠然とした記憶の深淵にある事実を思い出していた。


 4

「目を覚ましましたか賀崎中尉?」

「ええ、完全に目を覚ましました」

 問い掛けられた女性の声に賀崎は朗らかに答えた。それは身体の自由を拘束具で縛められ、寝台に固定されている者とは思えないほど上品な対応だった。

「記憶の混濁は解消されたとうですね。賀崎中尉、あなたは市役所職員でも、警視庁の警部補でもなく、日本国防軍特別戦略部に所属する士官です」

「ええ、もちろん。おそらくは既に除籍されているはずですから、正確には元日本国防軍特別戦略部第二実行課、コードネーム〝黒の手〟の賀崎雄也です」

 殊勝に答えながらも賀崎は自分が置かれている状況を吟味していた。顔の上にはライトが照らし出されており部屋の内部を見渡すことは出来ないが、スピーカーを通じて語られる女性の声から狭い一室であることがわかる。そして語られる声が〝シリアスゲーム〟のオペレーターと同質であることにも気付いていた。

「・・・申し分のない状態のようですね。では賀崎元中尉、今あなたが置かれている状態をご自分で説明か推測が出来ますか?」

「はい。私、賀崎雄也こと、かつての〝黒の手〟は日本国防軍特別戦略部の指揮下を離れ、私的な判断で大華連邦の工作員達を処分したことを咎められているのではありませんか?」

 淡々とした口調で賀崎は自分に関する事実を口にする。

「そのとおりです。あなたは優れた対テロ、スパイ諜報員でありましたが、軍司令部、更には日本政府を弱腰と非難し、指揮下から離れ独断で敵性国家の影響化にあると思われる人物を殺害しました。これは許しがた日本国への裏切りであり、冒涜であります」

「それで、私にどうしようというのです?」

「あなたに少しでも日本国に与えた罪と損害に自覚あるのなら、これから問い掛ける質問に正直に答えて頂きたい!」

「・・・なるほど。どうやら私を生きたまま確保したまでは良いが、なかなか口を割らないので偽の記憶を植えつけて何かしらの情報を掴もうとしたが、それも上手くいかなかったということでしょうか?私はあの〝シリアスゲーム〟とやらを何回やらされたのですか?」

「・・・質問をするのはあなたではなく私です、賀崎中尉!質問に答えれば軍規違反に対する処分が延期されることになっています。その事実を踏まえて発言して下さい!」

「ええっと、名前は存じませんが、あなたも私の経歴をご覧にはなっているのでしょう?その程度の脅しが通じるのなら、私はもっと単純な拷問で口を割っています。やり方を改めた方がよろしいのでは?」

 賀崎の指摘が図星であったか、あまりにも当事者意識に欠ける語り方が気に入らなかったのか、尋問官を詰める女性の声が僅かに厳しくなるが、それでも賀崎は怯むことなく独自の見解を改めなかった。

「・・・私の名前は梁川です。賀崎元中尉、あなたが軍の指揮下から離れて新たに突きとめた大華連邦の工作員は何人ですか?」

「八人です」

「それを証明する証拠を提示出来ますか?」

「可能ですが・・・私ならいくらでもでっち上げられることはご存じでしょう。まあ、最近不自然に増えた中華料理店を地道に洗えば、それくらいの数の敵性工作員を見つけられるとだけ申しておきましょう。現在の日本はそれだけ危機的状況にあるというわけです」

 一時は尋問官に慇懃な態度をとっていた賀崎だったが、名前を名乗られたことで態度を軟化させる。シリアスゲーム内の梁川と彼女が同一人物である確証はないが、あの従者のような男を思い出すと無下に出来なかったのである。それに彼にとっては現在の日本国が置かれている危険な状況を訴えることこそが最優先課題であった。こうして賀崎と梁川の利害は一致し、質問と応答が淡々と繰り広げられていった。

 

「・・・ありがとうございます。賀崎元中尉。あなたがこれほど協力的に証言をしてくれるとは予想外でしたが、あなたを知るための貴重な資料となりました」

「いえ、こちらとしても有意義な時間でしたよ!」

「それは・・・いえ、ではあなたには再び睡眠状態に戻って頂きます!」

 梁川はそれを持って尋問を終えると、控えていた助手に向かって頷く。合図を受けた助手は固定式の端末を使って、用意されていた最重要人物拘束プログラムを実行させた。

「ふう・・・、まるでライオンの檻にでも入っていた気分だわ・・・」

 仕事を一段落させた梁川はこれまで溜めていたストレスを発散させるように溜息を吐いた。彼女は日本国防軍特別戦略部に所属する医師である。主に戦略部に所属する特別部員達のメンタルケアにあたっていたが、今回は軍指揮下から逸脱した脱走士官である賀崎雄也こと〝黒の手〟の尋問を担当していた。本来なら彼女が主導するべき案件ではなかったが、賀崎の直接の上官が尋問に失敗したためにお鉢が回ってきたというわけだった。何しろ日本国防軍特別戦略部は秘密諜報組織である。資金こそは潤沢ではあるが人材は最低限に抑えられていた。

「お疲れ様です、大尉。コーヒーをお持ちますね!」

「ありがとう。頼むわね」

 気を効かせて部屋を出る助手の言葉に梁川は笑みを浮かべて答えると、梁川はオペレーター用の椅子に深く背中を委ねた。

 今回の賀崎雄也〝訓練された諜報員〟の尋問に当たって梁川は仮想現実体験ゲームを利用したシステムを作り上げていた。正攻法では口を割らない工作員に偽の記憶を植えつけながら、それと同時にゲームとして当事者が起こした殺人事件を捜査させ、これによって潜在意識の中にある記憶を客観的な立場から語らせるという手法だ。

 いくつかのアクシデントがありながらも最後は軟化した賀崎から証言を取り付けて、任務を成功させたわけだが、梁川の胸には彼の最後の言葉がまるで白衣に落としたケチャップのように残っていた。

 ただの負け惜しみのように聞こえるが、賀崎は日本国防軍特別戦略部でも随一を誇った対テロ、スパイ諜報員である。その彼の言葉をつまらない意地だと判断するのは危険なことに感じたのだ。それでも、賀崎の身柄は特別戦略部施設の深部に収容されている。今の彼に何かを出来る手立てはない。梁川は自分の不安が根拠のない杞憂であると思い直そうとした。

『緊急事態発生!緊急事態発生 保安部員は地下五階C地区に完全武装で急行して下さい!それ以外の職員は最寄りの安全区画か現在いる部屋を緊急モードでロックし、待機して下さい!これは訓練ではありません!繰り返します!緊急事態発生・・・』

 唐突に告げられるエマージェンシー放送に梁川は驚くと同時に、処置室の映像を空間ディスプレイに表示させる。今頃は睡眠状態にある賀崎が保安部員の手で寝台ごと収容施設に運ばれているはずだった。彼女はそれを確認しようと試みたのだ。だが、モニターに映し出されたのは完全武装のまま床に倒れる二人の保安部員の姿と空になった寝台だった。


 5

 賀崎元中尉の収容違反はその責任を巡って多くの更迭者を出した。一時はその中に梁川の名前も挙がっていたが、新たに日本国防軍特別戦略部の部長となった人物が指揮する綿密な調査によって、彼女の関与は完全に否定され撤回される。もっとも、彼女の助手が収容違反に加担したのだから、監督責任は逃れられない。三か月の減給とされた。それでもこの程度のことで済んだのだからかなり軽い処分と言えるだろう。

 この処分に梁川が胸を撫で下ろしたか言えばそうではない。新たに就任した部長を始めとする幹部の多くは軍内部で大華連邦に対する強硬路線で知られた人物達だ。日本国防軍特別戦略部は組織として大きな変革を迎えることになるだろう。そしてそれは賀崎の望む展開に至るに違いなかった。

『いえ、こちらとしても有意義な時間でしたよ!』

 梁川は改めて賀崎の最後の言葉を思い出す。自分のプロジェクトを含めた全てが彼の思惑の元に進められていたように思えてならない。彼女は賀崎という怪物が野に放たれた事実に恐怖するのだった。


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