お館様のために
何百、何千もの人間の声が濁流のように周囲を掻き乱していたが、リガは惑わされることなく前方のただ一点のみを見つめていた。
リガの視線の先に存在するのは、自分と同じく腰布を巻いただけの身に剣を持った若い男だ。
男は両脚を肩ほどの広さに開きつつ、鍛え上げられた全身の筋肉に僅かな力みも見せずに自然体で立っている。その者もあらゆる感情が含まれた周囲の叫び声を無視してリガだけに瞳を向けていた。
その落ち着いた様子にリガは心の中で賛辞の言葉を送る。決戦の相手に相応しい態度であったからだ。
リガと対戦相手が対峙しているのは、すり鉢状に造られた闘技場である。
彼らは剣闘士奴隷であり、この二人の戦いを目に焼けつけようと街の市民達がこぞって集まっていた。砂の撒かれた闘技場の底部から人の背丈ほどの壁の上に設置された観客席は満席とも言える状況だ。
もっとも、これほど人々を熱狂させるのにはわけがある。
リガと対戦相手はともにこれまで負けなしで勝ち続けた古参の剣闘士奴隷であり、今から行われる試合はいわば最強の剣闘士を決める頂上決戦であったのだ。
また、この一戦は街を支配者する〝お館様〟に捧げられた試合でもある。〝お館様〟は豪華な布で作られた貴賓室とする天幕の奥に鎮座しているのでその姿は見えないが、街の市民にとって〝お館様〟の臨席はそれだけでも興奮する出来事だった。
やがて闘技場の端に硬化セラミックの鎧で武装した衛兵が旗を掲げて現れると、周囲は固唾を飲み込んで静かになる。
そして試合開始を表わすために旗が振り下ろされると、これまで抑えて緊張の裏返しであろう、様々な素材で造られた闘技場は観客達の熱気で震えるのだった。
賽が投げられたことを視覚的に告げられると、リガはゆっくりと前進し自身の右側から間合いを詰める。
一瞬だけ鳴り止んだ騒音が再びそれまで以上に響き渡るが、彼の心に憂いを与えることはなかった。この程度で僅かでも動揺するような精神力であったのなら、これまで生き延びてはいなかったであろう。
リガにとっては心地良いとは言わぬまでも、周囲の雑音など微風のようなモノだ。
だが、距離を詰めたリガは剣戟の間合いに入る一足分を前にして動きを止める。対戦相手のポラはかつて左からの攻撃を苦手としていたはずだったが、今では一分の隙も見えない。
リガはポラもまた五年間の辛酸を生き延びてこの場に立っていることを知る。下手な思い込みは危険であると認識を改めた。
「はぁ!」
迂闊な攻めを戒めたリガだったが、その隙を見逃さずにポラが突きを放つ。並の使い手であったならこの一突きで終わったと思われるほど素早く正確な一撃だが、リガは辛うじて受け流した。
それでも万力で固定されたような剣は大きく捌けずにリガの肩を掠めて傷を負わせる。
「・・・!」
痛みに耐えながらリガは相手の懐に入り、反撃として肘打ちを与える。このまま殴り倒して地面に仰向けになったところを突き刺すつもりでいたが、ポラは打撃に耐えると剣を引いて反撃に備えた。
目論見が外れたリガは仕切り直しと間合いを取る。ポラも不自然な体勢からの追撃はしなかった。二人は再び見つめ合った。
この一瞬の攻防に観客席からは熱狂の声が上がるが、当事者であるリガとポラの耳には入っていない。
そしてリガは自分と拮抗する実力を持ったポラと初めて会った日のことを、まるでついさっきのことのように思い出していた。
リガは〝お館様〟が支配するこの街で最下級民の子として生まれた。
街は〝お館様〟を頂点とする激しい身分階級が敷かれており、生まれついた階級は街での絶対的な地位として死ぬまで、いや死んだ後もその者を支配した。
この体制が永らく継続するのも街の住民達が無意識の内に街の外では自分達が暮らしていけないことを悟っているからだろう。
街の外は錆びた鉄とセラミックの残骸がところどころに点在する荒涼たる砂漠が果てしなく続いている。彼らは街に残された前時代のプラント施設とそれを管理する〝お館様〟を頂点とする支配者階層にその原理もわからぬまま頼る他ないのだ。
そのような理由から、人間の生存圏である街を機能させている〝お館様〟は大多数の市民達に神格化された存在となっていた。
彼は社会的弱者を作り上げ、その者達の犠牲によって街を効率的に維持する政策を実行したが、これは対局的にみれば『小を捨て、大を救う』という手段と思われた。
もっとも、当初は已む得ない政策が、時を重ねる事にその意義や本質を忘れ、腐敗するのは世の常かもしれない。
街の住民は階級が上であれば下の者に何をしても良い『お館様のために』と理由を付けては何でも許されると、下級の者を虐げるようになる。
その奢った発想が制度として根付いたのが、市民の娯楽として提供される剣闘士奴隷による決闘だ。
これは市民達の腐った心根と人口抑制政策が奇妙な形で一致した結果だった。その歪んだ政策の犠牲となった一人がリガであり、彼は母親の顔も思い出せない年頃に引き離されて剣闘士の養成所に放り込まれた。
そして十二歳で初めて試合を強いられてから、平均すれば月に二回ほどの戦いを全て勝ち抜いて今日までを生き残って来た。
かつて彼は養成所を逃げ出し、母親と再会することを志したこともあったが、早い段階でその願いは叶わぬ夢物語であることを理解した。
そもそも母親の顔を覚えていなかったし、最下級民にかかわらず街で暮らす民の数は厳しく制限されている。リガの母親は彼を産んだことで街での配給資格を失って野たれ死んだか、再生槽の中に放り込まれたに違いないのだ。
厳しいだけなく、命を失う者も出る過酷な剣闘士養成所の訓練だったが、リガは同じ頃に養成所に送られた同期の少年達と悲惨な状況を共有し友情を育むことで乗り切る。
それはリガの人生の中で精神的にも肉体的にも最も甘美な時間だった。だが、剣闘士候補である彼らは日を追うごとにその数を減らしていく。同期で残ったのはリガとポラの二人だけだった。
リガが初めてポラに出合ったのは、彼が教官の鞭に慣れて背中の皮膚がなめし革のようになった頃のことだ。
数か月の差ではあるが、先に養成所に入っていた彼は後から来たポラを弟分として扱う。自分の身だけでも必死な状況ではあったが、どこか鈍くさいポラに構わずにはいられなかったのだ。
そしてポラもリガを兄貴分として慕い、二人は正式な剣闘士となった際の組分けによって別れるまで、お互いを本当の兄弟かそれ以上の間柄として心を通わせた。
この二人が最強の剣闘士を決める試合に臨んだことは運命に皮肉のように思えるが、リガは大いなる存在の采配だと考えていた。
神の概念を教えられていない彼だが、人智を超えた存在がこの世を正しい方向に向かわせるために稀にその力を使うことがあり、ポラとの対戦はその稀だと信じた。
何しろ、自分とポラがこれまで生き残っていたからこその対戦であり、五年前に交わした約束を果たす機会でもあったからだ。
リガとポラは二人が別れる前に『もし俺達が対戦することがあったら、生き残った方が俺達にこんな人生を強いらせた者にこれまでのツケを払わせやろう!』と約束を交わしていた。
剣闘士が二人で反乱を起こしても、簡単に鎮圧されてしまうだろうが、大一番の試合後ならば街の絶対支配者である〝お館様〟に復讐を果たす機会があると思われたからだ。
この約束があるからこそリガは弟分であり愛するポラと戦えるのである。そして彼は〝お館様〟を始めとする観客達を熱狂させて煽った後はポラに最後の仕事を任せるつもりでいたのだった。
ポラの連続攻撃にリガは素早い後退で対処する。ポラの攻撃はこれまで戦ってきたどの相手よりも速く、重かった。それ故に下手に剣で受けるよりは身体ごと避けてやり過ごしたのだ。
もちろん、逃げてばかりでは相手を倒せないし、何より観客を沸かせることは出来ない。リガは危険を承知で身体を捻って紙一重で斬撃を躱すと、ポラに反撃を繰り出した。
心の奥底では弟分の彼に生き延びて欲しい気持ちがあったが、手加減をすればそれを見破られるであろうし、この程度でポラが死ぬようでは、約束を果たす役目は自分で担うとする覚悟であった。
遠心力を利用した渾身の攻撃だったが、ポラは柄に近い部分でリガの剣を受け止める。激しい音と火花が飛び散るが、リガは怯むことなく剣の切っ先をポラの身体に突き刺そうと押し出す。
ポラもまたその動きに対応し、二人は力で押し合う鍔迫りの構えとなった。
間近で顔を会わせるリガとポラ。リガは弟分の顔に軽い笑みが浮かんでいることを見ると、肉体の奥底にある魂が震えるのを感じた。
ポラもまた五年の歳月で変わることなく、自分と同じ想いを抱いてこの戦いに臨んでいることを理解したからだった。
勝敗などはもうどうでも良いことのようにも思えたが、リガは兄貴分の意地としてポラに膝蹴りを繰り出した。
いや、繰り出そうとした膝蹴りは放つ前に、軸足とした左足を払われて不発と終わる。体勢を崩されたリガは下手に耐えるよりも自ら後ろに転ぶことを選ぶが、ポラの剣がリガの顔を捉えたのと彼が転んだのはほぼ同時だった。
「ぐぅ!」
短い悲鳴を上げながらもリガは怯まずに身体を動かす。今は距離を取るのが最優先事項だからだ。後転を二回繰り返して彼は上体を起こした。
顔の左半分に焼きゴテを押し付けられたような激痛を感じるが、視界は狭まっていないので目は潰されていないようだった。
だが、リガはその一瞬の後に自分に迫るポラの姿に気付くと自分の敗北を理解した。間合いからしてポラの攻撃を凌ぐことは不可能だったからだ。
それでもリガは死の恐怖よりも自分よりも強くなったポラの存在を誇らしく感じていた。彼ならば二人の約束を見事やり果たしてくれると思ったのだ。
だが、リガの想いとは別に彼の身体に植えつけられた闘争の執念は、無駄とはわかっていても反撃の行動を取った。
リガは自分の剣に伝わる肉と内臓を破壊する感触に驚きと恐怖を覚えた。この感触はこれまで何度も体験してきたが、今この瞬間に感じるはずない。感じてはいけない事実だったからだ。
彼の意識の大部分が虚無のような衝撃に襲われている間、リガの本質と思われる存在は現在の状況を正確に把握していた。
リガはポラが繰り出した攻撃を剣の切っ先で弾くとそのまま、ポラの胸に剣を突き刺したのだった。
「ポラ・・・お前!」
「・・・兄さん、た・・・ぐぁ・・!」
崩れ落ちるポラにリガは問いかけるが、ポラは口から血を吐きながら言葉を塞ぐと砂の撒かれた闘技場の地面に倒れていった。
「ああ・・・うああぁぁぁ!!」
ワザと自分の剣を受けて死んだポラを前にリガは慟哭の悲鳴を上げるが、観客達はそれを勝利の雄叫びと勘違いして歓声で応えた。
周囲に溢れる様々な歓声の中、かつてない孤独感がリガの心を覆い尽くしていた。だが、彼は自分のすべきことは涙にくれることでなく約束を果たすことであることを思い出すと、貴賓席に向かって歩き出した。
〝お館様〟が臨席の際には勝利を報告するのが勝った剣闘士奴隷の作法であるからだ。リガは身体に溢れる復讐の想いを震えて抑えながら一歩一歩近づく。今一気に走り出せば、衛兵達に警戒されて邪魔をされるだろう。
ポラの死によって作り出した千載一遇の二度とない機会である。リガは警戒されないようにギリギリまでその本心を隠す必要があった。
やがて貴賓室から見下ろす位置まで来ると、リガはその身体能力を使って闘技場の壁を飛び越える。一瞬の早業であったが闘技場は彼の狼藉による悲鳴に包まれた。
「おお!」
待機していた衛兵の一人をリガは気合の声とともに素早く倒す。半裸の彼とセラミックの鎧を纏った衛兵には防御力において圧倒的な差があったが、リガは鎧の隙間から剣で突き通し敵を絶命させた。
もっとも、リガも持久戦になれば自分が圧倒的に不利なのは理解している。侍っていたもう一人の衛兵を闘技場に突き落とすと、真の狙いである〝お館様〟に迫るために天幕を打ち倒した。
「そこか!」
天幕を覆っていた布が落ちて中にあった玉座の位置が露わになるとリガは、布の上ごと玉座に剣を突き刺した。
彼の予想では恐慌をきたした〝お館様〟が惨めにも逃げ惑うと思っていたのだが、動かないのであればそのまま復讐を遂げるまでだった。
「な!これは!」
だが、あまりの手応えの無さにリガは確認のために布を破り玉座を白日の下に晒すが、それを見た彼は驚きの悲鳴を上げる。
そこにあったのは絶命した思われる人間の死骸であった。かつての延命の跡と思われる医療器具が接続されているが、既にかなりの年月が経っていてほぼミイラ化していた。
そして、その姿に驚きの声を上げたのはリガだけではなかった。
彼を取り押さえようと集まる衛兵達、目の前で行われる凶行の行方を見守っていた観客達が〝お館様〟と思われる存在の正体を目のあたりにして全ての思考を止めてしまったかのように硬直していた。
「・・・お館様!お館様がぁぁ!」
それは未来永劫に続くと思われたが、誰かが上げた悲鳴が呼び水になって闘技場全体がかつてないほどの悲鳴と恐慌に陥る。もっとも、当事者のリガはそれを醒めた目で見つめていた。
観客だけでなく衛兵達さえも逃げ出した闘技場に一人残っていたリガは、いよいよとばかりに剣を振り、ミイラの首を一閃の下に斬り飛ばした。
無意味なことにも思えるが、彼にとってはポラとの約束を果たすケジメの儀式だった。
リガは乾いた音を立てて転がるミイラの頭部に一瞥を与えると、かつての弟分で愛するポラの遺体がある闘技場へと戻って行く。既に剣闘士奴隷である彼も、自分が引き起こした事象の真相を理解していた。
おそらくは街の支配者である〝お館様〟は遥前に死んでいたに違いない。その死は街の支配体制に影響を与えるため、これまで隠されていたのだ。
もしくは死の概念を歪めて、かつて〝お館様〟呼ばれていた者の消失を受け入れないようにしていたのかもしれない。
いずれにしてもリガの行動によって、街の絶対支配者が死去していることは全ての市民に知られることになり、この街はこれまでの保っていた仮初めの秩序を失くしたのだった。
「終わった・・・。ポラ・・・お前の墓は街の外に建ててやるぞ!」
ポラの亡骸を担ぎ上げたリガは、そう優しく囁くように告げると、かつては追放門と呼ばれていた外界に続く門を目指した。
街、正確にはプラントの庇護がなければ人間が生きる事の出来ない世界であることは彼も理解していたが、真に自由になるには必要な試練だった。
そして、門を潜り抜けて街を出たリガは最下級民でも剣闘士奴隷でもなく、ただ一人の人間となった。
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