猫の話

早水一乃

猫の話

 それは例えば街燈の灯りが土に滲む、その闇との境目から浮き上がってきたかのようだった。私は早くも冷えてきた缶のココアを手に捧げ持つようにして、それをぼう、と見つめていたのである。


 雪混じりに吹きすさぶ夜風が容赦無く皮膚を叩いていたが、私はそれでも家には戻りたくなかった。いっそこのまま凍って死ねればいいとさえ思っていた。凍死とはどのようなものであろうか。己の身体が少しずつ凍っていくというのはどのような感覚であろうか。皮膚が凍りつき、肉が霜を纏わりつかせながら固くなり、神経も骨も芯まで冷気に隷属し、肉体の主導権は私から離れて行く。それはなかなか甘美な想像であったが、このような都会とも田舎とも言い難い半端な土地でも私はかように死ねるだろうか。


 私が益体も無い考えを巡らせている間にも、それは人工の光と夜闇のあわいから少しずつ身体を持ち上げつつあった。――猫だ。私は冷えた頬に熱が差す様な心地でそれが形を成すのを見守った。猫は好きだ。しなやかな生ある水めいた身体付きと、人間を始めとしたあらゆる生物の事など意に介さぬがごとき仕草が良い。奇妙にも、その猫の漆黒の身体は闇の中でもはっきりと視認出来た。猫は何かの残滓を振り払う様に小刻みに全身を震わせると、街燈の仄かに橙がかった灯りの下にぬるりと這い出た。毛足は日本猫の短さだが、尾だけが何だかふっさりとしている。蛍光めいた鮮やかな緑色の目が、じい、と私を観察した。有機物とも無機物とも言い難い謎めいた目である。こちらもそれをじっと見返していると、虹彩の一筋一筋さえもが確認出来るような気がして何とも不可思議だ。

 猫が何処かへ行ってしまわぬかと気にしながらも私は残りのココアを口にした。冷たいココアというものは既に別個に存在すると言うのに、冷めてしまったと認識してしまうと途端に不味く感じてしまうのは何故だろう。ざりざりと砂のように舌に残る甘さを、顔をしかめて唾液で喉奥へと流し込む。そうしている間にも、猫は機嫌良さげにゆうら、ゆうらとふくよかな尻尾を揺らして居た。黒い身体に細かな雪が吹き付けているが、まるで気にした様子は無かった。


 ふいに猫が私の方へ歩いて来た。私は猫を刺激せぬよう心持ち身を固くしつつも、期待を込めてココアの缶を脇に置いた。すっかり悴んで言う事を聞かぬ指先は缶をベンチの上に転がしてしまい、乾いた安っぽい音が存外に夜の住宅街にはけたたましく響いたが、猫は驚く様子も無く私の足元へとすり寄って来た。粉雪を被って白い斑点模様になった小さな頭が、ブーツに裾を入れたジーンズの固い布地を擦る。その頭を撫でても許されるものか決断しかねながら、私は猫のふさふさとした尾がその根幹の骨の動きとは別の微細なざわめきを伴っている事に気付いた。

 尾は、その尾は、黒々とした毛の隙間に何かを飼っている様だった。吹き寄せる風の流れに逆らって、何やら長い影が波間の海草のように蠢いた。或いは砂浜を深く掘った時に突如一斉に頭をざわめかせ、こちらの肝を潰す虫の群れ。その動きは明らかに意思を携えていた。気味が悪かったが、好奇心がそれに勝った。何だか今のこの状況は起きながらに夢でも見ているかのようで、それならば私は本当は今正に凍死せんとする最中なのかもしれなかった。私は恐る恐る猫の尻尾に手を伸ばす。


 びゅおう、


 と、一際強く吹き荒んだ雪風に、思わず私は目を瞑ってしまった。剥き出しの耳が、頬が、鼻が熱い程に凍える。ひたひたと皮膚に取り付く雪の欠片を拭いながら、私は涙を滲ませつつも瞼を抉じ開けた。


 私は呆ける。右手の直ぐ下に居た筈の猫は居らず、代わりに私の背丈を超える何かが私を高みから見下ろしていた。酷く背が高い。恐らく私が背伸びをするより高いだろう。それは黒く、黒く、途方も無く黒かった。雪は何故かそれに一切の干渉をせず、異様に平面的なそれは身動ぎ一つ無く私を見下ろし続けた。


 そうか。都会でも田舎でも無い半端なこの土地で、私はこうやって死ぬのか、と納得する。


 それは呼応するように私の頭を呑み込んだ。御辞儀のような形に全体の半ばを折り、私を頭から呑み込んだのである。私の目に見えたのは暗黒であった。暗黒が渦を巻いている。その中は温度も湿度も無く、しかし相対的に夜風吹く公園よりは遥かに暖かく、私は喜んでその虚無に身を委ねた。胸が、腰が、太腿が呑み込まれ、遂には私の全てが、あらゆる私がその胎内に収まった。なかなかに良い最期ではなかろうか。ああ、けれども少し眩暈がしてきた。安酒に悪酔いした時の様な厭な酩酊感。私はそれを振り払いたかったが、最早私の肉体は私の側に無く、どころか私のこの思考さえも曖昧になってゆきつつあった。ならば良いのではないか、この気持ちの悪さも遠退いて行く筈だ。


 なーお。


 猫の声がした。

 矢張猫だったのか。猫とはかように奇妙な生物だったろうか。






 深夜にかけて猛威を振るった雪はしかし朝方には雨に変わり、冬の街を冷たい湿気で包み込んだ。住宅街の中にぽつんと佇むうらぶれた公園の街燈が、昇りつつある朝日と交代にその灯りを消す。

 公園にはいくつか木のベンチが並んでいたが、どれも雨に汚ならしく濡れそぼっていた。とあるベンチの上にはココアの缶が転がり、つややかな表面に雫を滴らせている。


 ただそれだけの光景である。


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