「それでも自分の『理想』を見つけるために」第7話『十戒』

 人が運命から逃れられないように、アキトシも映画から逃れられない。


 結局、気が沈んだときに行きつく先はミニシアターなのだ。従順な信者があたかも聖地に身を寄せるように。


「きてしまった……」


 ミニシアター『ノイエ・キネマ』。


 大きなマンションの地下一階にある秘密基地みたいな映画館。


 自分よりも多くのものを持つ大鳥紗理奈が働く場所。


 今日の映画はフランス映画で、ユダヤ教とキリスト教の違いから結ばれない男女の物語だ。


 ユダヤ教は大まかに言えばタルムードを聖典とした宗教。そこからイエス・キリストを中心として誕生した救世主信仰がキリスト教だ。後世になると新しい預言者を信奉する形でイスラム教が生まれている。


 つまり三つの宗教は兄弟というか、親子みたいなものなのだが……それでも理解しあえず、愛の力を持ってしても結ばれないという悲恋が描かれていた。


『宗教は人を幸せにするために、よりよく生きるためにあるはずなのに……』


 そう言った主人公の嘆きは、アキトシにはちょっと判らなかった。


 信じられない宗教なら捨ててしまえばいいのに。


 捨てられないということが、文化の違いなんだろうか?


「難しい顔してますね?」


 ロビーの端にあるベンチに座って考え事をしていると、不意に話しかけられた。


 見ると大鳥紗理奈がそこにいた。覗きこむような姿勢。


 思わずビクリと体を震わせる。


「あ、驚かせちゃいました?」


 そう言ってすっと隣に座った。心臓までビクリとした。


「あ、いや、そういう訳じゃないけど……まぁ、ちょっと考え事を……」


「さっきの映画、いろいろ考えさせられますよね。宗教ってあんまり馴染みがないですけど、考え方の違いで結ばれないとか……そんなに大事なんですかね、宗教って」


「あー、オレも、それ考えてて……」


「やっぱりですか」


「宗教って、外国の人にはどのくらい需要なんだろう? 確かに、オレもどちらかと言えばおみくじを含めた占いが好きだし、神様のことや生死観について考えたりもするしさ……食べる前にいただきますって手を合わせたり、初詣に行ったりもするし……」


「そういえば、初詣やいただきますって神道でしたっけ?」


「自分で言っといてなんだけど『いただきます』は戦前、戦中からの習慣らしいけどね」


「え、そうなんですか?」


「お年寄りの証言によるとね。でも、食べ物に感謝して手を合わせるんだから八百万の神様に手を合わせてるのと一緒かなって思ってさ」


「ですね。神道っぽい」


「それを急に捨てろって言われても難しいかもだけどさ、宗教を捨てるのと習慣を辞めるのとでは、なんか感覚が違うなって。もちろん、悪い習慣なら辞めた方がいいと思うけど、宗教は改宗とかあるし……でも、それができないから苦しんでるんだろうなって」


 思わずため息が出た。


 少し違うのは判っているが、自分が映画を捨てられないのと同じような気がしたからだ。


「……でもほんと、考えさせる映画ってすごいですよね。なんでしょう、こう、すごいの注入されて自分がぷくーっと膨らむっていうか」


 巨大な注射器か、ポンプかを使う振りしている。


「自分を高めてくれる……って感じ?」


「あー、それかもです」


「確かに、高尚なこと考えると、自分が頭よくなった気がするけど、自分の手には負えなくて一杯いっぱいになった気がするなぁ」


「おお、それです、それ! わたしの言いたいの! 理解していただけたようでなによりです!」


「あ、は、はい……」


 嬉しそうに笑う大鳥はやはりかわいい。


「わたし、ちょっと感覚でしゃべり過ぎちゃうのか、言ってて理解されないこと多いんですよね」


「あー……でも、それって感性が豊ってことでしょ」


「感性……嬉しいんですけど、実は、感性もなにかよく判らないんですよ」


 感性はセンス、センスは感性……だが、説明しろとなると難しい。


「感性は……オレが思うに心のフィルターかな」


「心のフィルターですか?」


「人ってさ、勉強したり体験したりで、いろいろと吸収するじゃない。それを表現するときに通すフィルター。例えばオレが大鳥さんに聞いたことをそのまま喋ってたら、自分の言葉じゃなくて、それは大鳥さんの言葉でしょ」


「ふむふむ」


「でも、聞いたことを、自分なりの解釈や感じたものに変換……繋げるっていうか、編集するっていうか……まぁ、そうやって自分の言葉に変えたら、個性になるじゃない」


「魚とオイルを機械に通したらツナ缶になるけど、はごろもフーズが作るとシーチキンになるみたいな?」


 思わぬ例えに苦笑してしまう。


「そんな感じかな……? ともかく、その変換するフィルターが感性だと思う」


「それが、わたしに多いんです? つまり、言い換えが豊富……? おー、なんか、初めて感性をちゃんと褒められた気がします!」


「そう?」


「みんな適当いってると思ってたんで」


 また笑った。その笑顔にどんどん心臓が掴まれていく。


 苦しくなるばかりだ。


「おかげ様で腑に落ちました! やっぱりアキトシさんは凄いですね」


「へ? すごい?」


「感性ってちゃんと説明できるし、いろんなこと知ってるし、映画を観てしっかり考えて……」


「いやいや、映画を観て楽しんでるだけだよ」


「そこですよ、そこ。自然とそれができちゃってるのが、また一段とすごいなって思います」


「え、どうしたの? なんでそんなに褒めてくれるの?」


「んー、褒めてるというよりはストローですね」


「直通ってこと?」


「それです!」


 思ったことを、そのまま口にしているらしい。


「ほんとよく判りますね。もう紗理奈王ですよ!」


「紗理奈王って……」


 たぶん、クイズ王と掛けているのだろう。


「そっか。こうやってわたしの言うことを理解してくれるのも、アキトシさんのフィルターがいいからなんですよね?」


「オレのフィルターが?」


「だって、もし仮にわたしの出したものが独特だとしたら、それを受け取って理解してくれるのも変換が多いからじゃないんですか?」


「あ……」


 考えてもみなかった。


 それを人は『感受性』と呼ぶ。たしかにフィルターのひとつだ。


「やっぱり映画監督を目指してる人は違いますね。わたし絶対、アキトシさんはいい映画を撮ると思います!」


 映画監督を目指していると言ったことを覚えてくれていた。


 小さな自尊心が満たされていく。


 すごいなと思っている女の子に期待される、認めてもらえることがこんなに嬉しいとは。


 それでも、一度はりついた自己否定はなかなか拭えない。


「でも、オレ、割りとなにもないからなぁ……」


「……なに言ってんですか!」


 にこやかだった大鳥の表情が急に険しくなった。


「わたしすごいと思ってますよ! わたしよりいろんなもの持ってると思うし、頭いいと思うし、センスもいいと思います! わたしのこと、バカにしてますか!?」


 また話が飛躍した。


 一瞬、なぜ怒っているのか判らなかった。ただ、褒めまくった相手が「自分はすごくない」と言い張ったら、なんだか褒めた自分の目が疑われてる気がすると、理解できた。


「い、いや、ごめん。そんなつもりじゃなくて……」


「わたしだっていろいろ観てます。ちょっと自信あるんですよ」


 悪だくみを考えているような笑顔を見せる彼女。面白い表情で、なぜだか心に染みてきた。


「ごめん……ありがとう。ちょっと最近、なに撮っていいのか判らなくなってきてて……」


「そんなときもありますよ。あ、そういうときは『自分が一番大切にしているもの』を見つけると割といいって聞きました」


「自分が、一番大切にしているもの……?」


「そうしたら、いろいろ見えてくるんですって。こう頂上のものとか、七合目にあるものとか」


 今度は登山。大鳥はびっくり箱みたいな人だ。


 それでも自分の『理想』を見つけるためには、いいアプローチな気がした。


 一番大切なもの。


 命を失ってでも登頂することが大切なのか、挑戦することが大切なのか、それとも無事に帰ることが大切なのか……


 それが判ってないと、進むべきか引き返すべきか判らず、立ち往生してしまうだろう。つまり、中途半端にすべてを失う。


 一番大切にしていることを見つける。それこそ『大切なこと』だ。


「なにか肥料になりました?」


「ありがとう……! ちょっと判ってきたかも!」


「なら良かったです。あ、それともうちょっと肥料になりそうなことが! 来週のイベントで映画監督さんをお呼びしてトークショーするんです。よかったら、うちの売り上げに貢献してみませんか?」


 ぱっとどこからかチラシを取り出して見せる大鳥。趣味でマジックでもしているのか?


「ぜひ、貢献させていただきます」


「毎度ありです! あ、それじゃすいません、次の上映が始まるんで」


「あ、ごめん。時間とらせちゃって」


「いえいえ、わたしが勝手に話しかけたんですから」


 彼女が劇場への案内を始める。


 アキトシは邪魔にならないようロビーの隅へ逃げた。


 働く彼女はとても綺麗で、素敵だった。


 自分を認めてくれて、自分の行先を照らし出してくれる存在。


 導きとは、こういうものだろうか?


 自分の中で『この人の傍にいたい』という気持ちが膨らんでいく。


 モーゼやイエス・キリストを崇めた人たちも、こんな心情だったのだろうか?


 そんなことを考え、アキトシは思わず苦笑した。


 ――そういえば、映画監督って誰がくるんだ……?


 目指す先の存在。それと会える機会はまたとない。


 チラシにある名前を見る。


「…………まじか」


 知っている名前――『七谷稟冶』だ。


 学校の一年先輩で、勝手にライバル視している年下の男。


 彼が、自分の聖地に映画監督としてやってくる。


 胸の奥が、ずきりと傷んだ。

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