東原桜並木~一色の下
haru-kana
第1話
母の新しい家は、相鉄線さがみ野駅から歩いて二十分の場所にある、工場街に調和しそうな白い五階建てだった。碓氷春之は周りを見回しながら駐車場へ足を踏み入れ、インターホンを目指した。入り口の監視カメラが気になったが、インターホン越しに応じた声は、待ち望んだ人を喜ぶようだった。
「思ったより早い再会でしたね」
内側から鍵を開けて招き入れたのは、生活相談員の藤村さんだった。快活な印象の青年は、まだ三十歳を超えたばかりと見える。かなり短い髪は、帽子を被れば全く見えなくなるだろう。
「それでも、三ヶ月ぐらい何も連絡できませんでした」
「いいえ、親御さんを預けたまま一切連絡を取らない人の方が多いぐらいですから」
鍵を閉め、藤村さんはスリッパを勧めてきた。案内されたエントランスは、外に比べてやけに薄暗く思えた。
「母はどうですか。旅先で眠れないような人でしたが」
「そうですね。最初の一ヶ月ぐらいは消灯時間を過ぎても眠れないようでしたが、最近は慣れてきていますよ。朝まで一度も起きないということがほとんどです」
「そうですか」
安堵する一方、春之は自分たちが暮らした家が遠くなったような気がした。
母の初音は、年明け間もない三ヶ月前に特別養護老人ホーム春望苑へ引っ越した。その時の、不安を露わにした表情は今も忘れられない。あまり裕福ではない家に生まれ、奉公のため知らない家へ半ば強制的に連れていかれたこともあったというから、その時の気持ちが蘇ったのかもしれない。
嫌な記憶を思い出させることになったとすれば申し訳ないと思う。しかし、そうでもしなければ共倒れになっていた。仕方ないのだと、その時胸の中で呟いた弁解は、今も胸にしこりを残している。
「お体の状態自体は、ご自宅で過ごしていた頃とあまり変わりはないでしょう。ただ、ご自分で動くことは減ってきているようです」
家にいた頃の母は、専ら車椅子を操って動いていた。そのおかげで目が離せなかったのだが、心配の種が減ったとは思えない。衰えを思い知らされて胸が塞がれるようだった。
エレベーターで母の暮らすフロアに着くと、ナースコールが音を鳴らしていた。若い女の職員が受話器を取ると音は収まる。怒鳴るような声を上げて彼女は飛び出していった。
フロアでは他にも、半袖短パン姿の職員たちが歩き回って、手際よく入所者たちを誘導している。ちょうど入浴の時間なのか、長椅子には頭を濡らした入所者たちがいて、彼らの頭を職員が一人ずつドライヤーで乾かしていた。
母はそんな忙しさとは無縁とばかり、澄まし顔でデイルームの奥に座っていた。春物のセーターの上に羽織り物をまとい、帽子も被っている。介護が始まってからは見る機会がなかった、母のおめかしであった。
「碓氷さん、良いですか」
藤村さんが母の傍にしゃがんで声をかけた。車椅子に座る母は、歳の割に多くの歯が残る口で笑った。
「今日は良い天気ですし、桜もきれいだと言うから、外へ行ったら良いと思うんです。どうでしょう」
「でも、わたし一人で?」
母は表情を曇らせた。家を離れる時に見せた顔が重なって見えた。
「ちゃんと案内してくれる人がいますよ」
藤村さんが振り返り、母もつられたように振り仰いだ。春之は腰をかがめ、母の顔をのぞき込む。大人になってから向き合ったことのない顔の前で作った笑顔は、ちょっと引きつったものになった。
「この人、新しい先生かしら」
母は訝しげな表情を見せてから、藤村さんに向けて訊いた。
「最近入ったんです。真面目な人ですから、信頼できますよ」
「そう、なら良いけど」
そう言って母は、足で以て車椅子を回転させ、向き直った。
「よろしくお願いします」
母はまるで平伏するように深く頭を下げた。
さがみ野駅へ続く並木道へ出ると、南から吹くそよ風に包まれる感覚が心地良かった。風は花びらを手渡すように道を吹き抜け、母の帽子や膝の上にも何枚か乗せていく。
「気持ちの良い風ですねえ」
車椅子の背もたれに安心してもたれかかっているのを感じる。風と共に向かってくる花びらに目を細める顔が脳裏に浮かんだ。
「そうですね」
車椅子を押しながら、春之は努めて短く返事をした。あまり言葉数が多くては、職員を演じきれないと思った。
年明け直後に春望苑に入所した母だが、入所希望自体は四年前から担当のケアマネジャーを通じて出していた。特別養護老人ホームは毎月の自己負担額が千円に満たず、入居一時金もかからないことが利点であったが、入所は要介護三以上で六五歳以上、在宅介護が困難と見なされた者に限られる。
母は最初の介護認定の時点で条件を満たしてはいたものの、順番待ちが多かったため入所は後回しにされ、三年待ってようやく入ることができた。その間に貯金も最初の半分以下に減った。破綻が近づいていた時期だっただけに、入所確定の知らせはありがたかったものの、別れの日には寂しさが募った。
「あなた、新しい先生だそうね」
車椅子を押すのが新人の職員と信じ込む母の声は気遣わしげだった。他人と親戚の区別がつけられなくなったことから要介護認定を受けたが、車椅子が手放せなくなった頃には息子の顔と名前も曖昧になった。家を出る日は辛うじて春之の顔と名前を覚えていたが、三ヶ月間で記憶は完全に飛んでしまったらしい。
「そうです」
春之は息子だと名乗りたいのをこらえて返事をする。在宅介護を始めたばかりの頃、ケアマネジャーは本人の言葉を極力否定しないようにと助言した。そうでないと混乱をきたし、感情を抑えられなくなることがある。車椅子を押すのは息子ではなく新人職員だと思っている母の認識を揺さぶるべきではないのだ。
「色々お世話をかけると思うけど、何とかお願いします。息子も遠くに住んでいるから、他に頼りがいなくて」
胸が少し痛んだ。母は、息子のことを完全に忘れたわけではない。ただ、顔と名前を思い出せないのだ。自分で子供を産み、育ててきた記憶は失っていない。
そしてそれは、本人にとって楽しい記憶であったらしい。並木道の途中にある小学校に差しかかると、車椅子を止めるように言って、
「こんな時期にね、息子も入学式をやって、写真を撮ったものよ」
古い記憶をたぐるような調子で言った。校庭から体操着の子どもたちが上げる声が届く。
「僕もそうでした。校庭に桜があって、それが満開で」
その桜の下に立つ自分を母が映した。その瞬間と、その写真。記憶の中に収まっている。
「日本の入学式といえば、やっぱり桜が良いものね。何といっても四月だし」
母は校庭の子どもたちを見つめていた。その後ろで立ち尽くす春之も、高く澄んだ声に耳を澄ませていた。
桜並木を分断する国道二四六号を跨ぐ歩道橋を歩く途中、今年は満開の桜が見られたから良かった、と母は言った。
「お花見をしようにも、なかなか満開のものを見られなくてね」
「そうなんですか」
そうだったよね、と言葉の裏で春之は苦笑する。
「桜は見ることができても、いつもどこかに緑色が交じってた気がするのよ」
「そうなんですね」
そうだったな、と再び母の記憶を裏付ける。家族が揃って桜の花を眺める時は、決まって若葉が芽吹いていた。
「どうしてなんでしょうね」
その問いに、親子は明確な答えを持たない。母は首を傾げるだけだった。
強いて言えば父の仕事がうまく折り合わなかったからだろうか。巡り合わせが悪かったのだ。
いつしか親子が共に過ごす時間は減っていって、口を利かずに終わる一日もあった。父が亡くなった時、もっと時間を重ねる努力をするべきだったと後悔した。
「だけど今年はまだ、春三番は吹いていないと思います」
「あら、若いのに珍しい言葉を知っているのね」
「若いって、もうすぐ四十ですよ」
「そんなの、わたしの半分ぐらいでしょう」
母はからからと笑った。声の張りが失われないのは、喋ることが好きだった生来の気性のおかげだろう。
「どこでその言葉、覚えたの」
毎年あなたが口癖のように言っていたのを覚えた。
「何かの本で」
春之は準備しておいた適当な答えを返した。春の気配を告げる春一番、開花を促す春二番、花を散らす春三番。春先から初夏にかけて吹く強風に、それぞれ順番に応じた名前があることを教えてくれたのは、母だった。
「物知りね」
優しい風が心地よいのか、母は上機嫌だった。
歩道橋を降り、十分も歩かないうちに並木道は終わりが見えてくる。
交差点を越え、短い商店街を抜けると、たどり着くのは相鉄線さがみ野駅のバスロータリーだ。交差点の手前で桜並木は途切れているが、駅まで歩けば桜を満喫したことになるだろう。
一歩進むごとに歩みが遅くなる。これからきっと、季節毎に会うことはできる。しかし桜を眺めることが今年で最後になっても不思議ではない。来年の春、季節の変わり目に体調を崩して、復調する前に春三番が吹いてしまったら。その次の年、外へ出るどころではなくなっていたら。
「どうかしましたか」
母の声で物思いから覚めた。歩行者が行き交う横断歩道の手前で足が止まっていた。
程なくして信号の色が変わった。車道側の信号が青に変わって、待ちかねたように車が疾走していく。
「ずいぶん遠くまで歩いてきたと思って。駅は遠いと思ってました」
「ああ」
母は上向いた目を細め、懐かしさに浸るような顔をした。
「何か思い出でも」
それは息子としても興味があった。電車にまつわる思い出を母から聞いた覚えがない。
「いえね、昔、息子が好きだったと思って」
「そうなんですか」
そうだったっけ。
春之は不意に胸を打たれたような気がした。小学校に入る前までは確かに電車が好きだったが、いつしか興味は薄れていった。話をすることもなかったはずなのに、母の中ではずっと思い出として残っていたらしい。
「電車、ちょうど来たんでしょうね。何だか動いてるみたい」
声に導かれるように視線を遠くへ投げてみても、木々や人の流れに遮られてほとんど見通せない。銀色の車体が動いているのが辛うじてわかった。
「あの電車、乗ったことあるんですか」
「ええ、きっと。何だか思い出せないけれど」
記憶が不確かな割に、母の声はしっかりしていた。
「あそこまで行ったら、この道も終わりですね」
母の声と同時に、歩道側の信号が青に変わった。
車が止まって、人が歩き出す。
周りの人が追い越していく。すれ違っていく。それぞれ桜や駅を目指して歩いていく。
「もうそろそろ、行きませんか」
促す声が聞こえたものの、踏み出せなかった。そのうちに信号は点滅を始める。
立ちすくんだ二人のことなど気にせず、青信号を待ち望んでいた車が動き出す。
「先生?」
訝しむでもなく、不満を訴えるでもなく、どうしたのだろう、と。心の動きを汲み取って気遣うような声だった。
「次は、行けますか?」
青信号を見送った理由を何だと思ったのか。ずっと前を向いたままの母から読み取ることはできない。確かにわかるのは、歩き出すかどうか、自分に選択を委ねているということ。ずっとこの場所に立ち尽くすのならそれでも良い。柔らかな声の奥に、そんな言葉が隠されている気がした。
「多分、いや、わからないです」
息子としての気持ちが声ににじんだ。来年はどうなるのか。体が元気でも、認知症が進みすぎて桜の木を楽しむことさえできなくなるのではないか。
今が最後になるかもしれない。信号が青になって、歩行者たちが歩き出す。その流れに、春之はまたも乗れなかった。
「あの向こう、行き止まりですね」
母の視線は遠くへ飛んでいた。立ちすくんでいる間に、さがみ野駅には何度か電車が発着したようだった。
「昔、子供がまだ小さい頃、駅へ連れて行けってうるさかった」
言葉が記憶の壁を削って、閉ざされたものを覗かせる。声であり、風景であり、色彩であり。春之は声を出さず、頷いた。
「電車に乗りたいわけじゃなくて、見ていたかったみたいで。音に喜んで、色を楽しんで、動きに息を呑んでいたものよ」
深く春之は頷いた。
「今日は緑色のない桜を見ることができて良かった。いつも春三番が吹いた後だったから、その前に見ることができて、本当に良かった。桜はもう良いから、電車を見に行きたいんだけど。この先の駅で見えるはずよね」
車道の信号が黄色に変わった。車が一台駆け抜けていって、歩道側の信号が青になった。
今度こそ人の流れに乗ることができた。短い商店街を抜けると日陰のないバスロータリーに出る。
電車を見たいという母の要望に応えて、春之は線路のすぐ傍まで車椅子を押していく。電車が通り過ぎた直後なのか、ホームに人の姿が見えない。三分ほど待ってようやく、客が一人歩いてくるのが見えた。
「まだかしら」
自分の感情を表に出すことが少なかった母にしては珍しく、もどかしさを露わにしていた。それはさながら、子供の頃の自分の姿である。当時と背丈や立ち位置は逆転したが、久しぶりに味わうときめきに胸が高鳴った。
「なかなか来ませんね」
電光掲示板と自分の時計を見比べれば、到着の時間まで一分ほどなのがわかる。電車を待つ間の一分など、スマホのゲームやマンガで潰せば、瞬きほどにしか感じないはずの時間だが、今はひどく長い。電車に乗るのではなく、見る。子供の頃に卒業したはずの遊びに、親子揃って興じている。一度遠ざかった母が、子供の頃以来の近さに感じられた。
「緑の電車だと良いんですけど」
春之が言い足すと、母は肩越しに振り向いた。覗いた片目に嬉しさが宿って見える。
「それは息子と同じ好みね。今も走っているかしら」
母は再び線路を向いた。春之が子供の頃追いかけた電車は緑一色で、丸いヘッドライトが特徴的だった。そのおかげで、どこかとぼけた愛嬌のある顔に見えたものだ。
それは三十年以上前の思い出だ。それだけの時間が流れれば、新旧の交代も行われるだろう。
人の記憶も消えることがある。二度と記憶が戻らない病を患うことさえある。
それでも、残る記憶もある。
「あ、来ますよ」
滑り込んできたのは、待ち望んだ車両とは違う電車だった。人によって、黒くも青くも見えるだろう。春之は夜空の色だと思った。街や月から受けた光によって薄められた闇が帯びる色味に似ている。
「濃紺一色ですね。今時珍しい、落ち着いた色だわ」
「濃紺、ですか」
母から与えられた言葉が、頭の深いところへ浸透していく。夜空の色、濃紺。二つの発想が溶け合って、新たな感想が生まれてくる。
「もしかして海をイメージしたんでしょうか。横浜から来たから」
「では、とても深い海の色ね」
「夜の海かもしれません」
「横浜の夜はきっと、きれいね」
車両について交わされる言葉が運転士に聞こえるはずもない。ベルを受けて電車は出発する。ホームからは人が立ち去った。
「青い電車も良いものね」
テールランプを見送る母は、満足げに深く息をついた。
「今のは新しい電車かしら」
「そうかもしれません」
「色々変わったものね」
「三十年以上経ちましたから」
口にしてから、職員の立場で言えることではなかった、と慌てたが、
「そうね」
母は微かな笑い声を混ぜて言っただけだった。
母と息子は、最後まで入所者と新人職員だった。挨拶を交わした春之がフロアを出て行くのを、母が見送った。
「色々大変だろうけれど、頑張りなさい」
それは介護職員としての仕事についてか、それとも介護とは無縁の世界で生きることになった息子に対してか、真意を掴みきれないまま、春之はエレベーターで藤村さんとエントランスへ降りていった。
「お母様、楽しんでいましたか」
エレベーターを降りた直後、藤村さんが最初に訊いてきた。
「お互いに、良かったと思います。春三番が吹く前に来られて良かった」
「春三番? 春一番じゃなくて」
「花を散らす風を春三番と呼ぶんですよ」
「それは初耳だ。碓氷さんが言ってたんですか」
「子供の頃、そんなことを母が言ってたんで、覚えてたんです」
短い言葉を遣り取りするうちに、出入り口に着いた。受付の帳簿に退所時刻を書き込む。一時間余りの時間だった。
「来年も、あそこの桜は咲いてるでしょうか」
「もちろんですよ」
桜のことを話すのが嬉しいのか、藤村さんの返事はいつも以上に高く響いた。
「あの桜並木が賑わうのは毎年のことです。来年も是非いらしてください」
「楽しみにしてます」
藤村さんへ笑い返した春之は、午前中よりも少し強くなった風の中へと踏み出していく。駅に着いたら、あの青い電車に乗れたら良いと思った。
〈了〉
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