夏の終わり、約束
小学二年生の頃、スイミングスクールへ大遅刻をしたことがある。
夏休みが終わりに近づいている時のことだった。私は大遅刻が確定している中、とぼとぼとスイミングスクールへ向かっていた。夏休み期間だけ短期集中で水泳レッスンみたいなものがあり、確かその最終日だったと思う。
それまでの私は病気以外では遅刻も欠席もせず、小学校では授業中も手を挙げて発言するなどして先生や他の子から真面目な奴だと評されていた。スイミングスクールでもひたむきに取り組んでいたはずだ。だからあんなことは初めての経験だった。遅刻の理由は憶えていないが、昔から朝が弱いので、寝坊だったかもしれない。ともかく私は三十分以上遅れて着くと見込まれる中、行きたくない気持ちと行かなければという気持ちのせめぎ合いに足をとられ、のろのろとスクールへの道を歩いていた。
遠くを見れば陽炎が揺らめく、酷暑の日だった。頭がどこかぼんやりとしていた。きっと怒られるだろうなと思うと本当に億劫だったし、周りからも変な目で見られるだろうと思って怖かった。今まで真面目だったのだ。積み上げた信頼が瓦解してしまうのではないかという恐怖があった。
いつしか道の真ん中で立ち止まり、耳の奥まで染み渡る蝉を聞きながら、ああ、ぼくはこのまま干からびて死んでしまった方がましかもしれない、とまで考えていた。ここに留まっていたかった。永遠に立ち止まったままでいたかった。わざわざ嫌なことをしに行くことなんてない。今という時間に自分を縫い留めてしまえば、後で怒られることなんてないのに。
そうして棒立ちで下を向いていると、声をかけられた。
「どうしたの?」
視線を上げると、自分よりも背の高い女の人が少し屈んでこちらを覗き込んでいた。うろたえるが、相手も小学六年生くらいのように見えたので、幾らか緊張は解ける。
「大丈夫? 熱中症かな。ちょっと顔色悪いよ? これ飲む?」
次々飛び出す気遣いの言葉に、二年生の私はたじたじで、あ、とか、う、とか返事にならない返事を返していたように思う。
それでも私は六年生のお姉さんから水筒を受け取り、飲み物をいただいた。それからお姉さんの提案で、道端の木陰で一旦休むことにした。
陰を作っている木に近づくと、ギ、と蝉の鳴き声がして飛び去る音がした。だが相変わらずいろいろな方向から蝉がうるさくがなり立ててくる。
「暑いね」
お姉さんはバッグから取り出した団扇で私のことを扇ぎながらそう言った。だが、お姉さんにも用事があり、その用事のために暑い中を歩いていたのには違いないのだ。私に構っていていいのだろうか。そのことを控えめに訊くと、「別に大丈夫だよ」と返ってきた。
「熱中症で死んじゃう人いっぱいいるからね。それに、わたしもあんまり行きたくない用事だったから」
聞けば、お姉さんはピアノ教室に通っているらしく、そこへ向かう途中だったのだという。最近は調子が悪くて怒られてばかりで嫌らしい。笑いながら話して冗談めかしてはいたが、時折表情が消えることがあり、私は幼心に深刻さを感じた。
私は自分がこの夏休みにスイミングスクールへ通わされていることを話し、自分は熱中症というわけではなく、水泳教室に行きたくなくてあそこに立っていたのだ、と言った。
お姉さんは私の目を見ながら、それは初心だった私を恥じらわせるのに十分な見つめ方だったのだが、とにかく、私の吐露をじっと聞いてくれていた。
それが、嬉しかった、と思う。スイミングスクールのレッスンが始まってからかなりの時間が経ってしまっているはずだし、このままでは最終日だけ欠席で親にも怒られるだろうとわかっていたけれど、それでも、あの瞬間だけは居心地が良かった。お姉さんは頼りがいがありそうで、私以上に生真面目そうだったけれど、そんな人が私と同じようにどこかへ行きたくなくて、ためらっている。
別にいいのかもな、と思った。
無理をしてスイミングスクールへ行くこともない。
こんな立派なお姉さんだって、ここに留まり、燻っているふうではないか。
身体的にはぴんぴんしているけれど、熱中症のフリをして帰ってしまえばいい。
コーチに、そして親に嘘をつくことになる。なにより、自分に嘘をつくことにもなる。自分自身への、私は真摯だという認識に傷がついてしまうはずだ。ドロドロした罪悪感に塗り込められそうになりつつも、しかしその時の私には、ずる休みしか手はないように思われた。
そうだ、帰ろう。それしかない。遅刻なんかするよりは、嘘をついてでも。
「ねえ」
お姉さんが、私を見ていた。
「じゃあ、こうしない?」
お姉さんが、真剣な目で、私を見ていた。
「わたし、頑張ってピアノ教室行くからさ。あなたも、行きたくないのはわかるけど、水泳教室行こうよ」
そして、続けた。
「わたしさ、挑戦してる曲があるんだ。マクダウェルっていう人の、『秋に』っていう曲。難しくて、なかなかできないんだけど、でも、その曲を弾けるようになるように、頑張ってみる。ううん、絶対弾けるようになってみせるよ。だからさ、あなたも、水泳頑張ってみない? ああ、ええと、わたしが頑張るからってあなたが水泳頑張る理由にはならないかもしれないけど……でも、こう決めてからやった方が、お互いきっと寂しくないというか、進める気がするんだよね」
どうかな? と、お姉さんは小首を傾げた。
私はお姉さんのさらりと揺れる髪に、一瞬見惚れていたように思う。
来週から一人暮らしを始めるのだが、引っ越しの荷造りをしていると小さい頃から現役の学習机の引き出しからスイミングスクールのスタンプカードが見つかったので、こんなことを思い出した。
スタンプカードにはコーチのコメントがボールペンで書かれていて、そこには『夏休み中よくがんばったね! 一度も休まずこられてえらいよ!』とある。
お姉さんの、どうかな? という提案に、私はどう答えたのだったか。
うまく思い出せないし、あれから一度も会わなかったからお姉さんの顔すら忘れてしまったのだが、なぜだか、お姉さんは『秋に』を弾けるようになったはずだという確信だけがある。
今年も次の季節が来て、今という時間は移ろっていく。
未来に会いに行こうと私は思った。
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