第93話 恐怖心
「はぁー…アカギさん、本当にごめんなさい」
フェネックはため息をついた。
日頃の疲れ、そして先程までの全力疾走により、倒れてしまったのだ。
ここまで体力が無かったのかと、自分が情けなくなる。
このままアカギさんの世話になるのも申し訳ないし、それに、アライさんが気になるよ…
「そんなに急がなくても良いのでござるよ。じきにあの二人は帰ってくるのでござるから」
「…ごめんなさい」
「ははは、気にしなくてもいいのでござるよ」
トントントンと、リズミカルな包丁の音が聞こえてくる。
一時的にソファーで横になっているため、何を作っているかは見えない。
グツグツと、何かを煮る音も聞こえる。
「…アカギさーん?」
「どうかしたのでござるか?」
「何をしているの…ですかー?」
「お粥を作っているのでござる。それに…無理して敬語は使わなくてもいいでござるよ」
私はまた小さく、「ごめんなさい」と言った。
◆
カラオケボックスに入って少し経つ。
やはり、先程からアライさんはかなり落ち込んでる…ように見える。
「アライさん、さっきから元気が無いよ?…無理してる?」
さっき、というのは空き地を通った時辺りからだ。
今朝まではかなり元気だったのだ、迫る寿命にも負けず、余生を謳歌するように。
「昔のことを思い出してね、それで、ちょっと」
「そっか。久しぶりだもんね、ここ」
彼女は迷った様子だった。
しかし、自分が悩みを打ち明けろと言った手前、自分が悩みを打ち明けないのはどうなのかと思ったのか。
「実は」と、話を切り出してきた。
「秘密にしていた事があるのだ」
◆
数年前の事だ。
アライさんはフェネックとともに、ある空き地へと訪れていた。
その空き地というのは、先程通ったあの空き地なのだが…
そこで、ある一匹の猫を見つけた。
それは捨て猫のようだった。
ダンボールの中に可愛らしく、ちょこんと座るその猫。
「アライさん達、そこで育てる事にしてたのだ。捨てられてたみたいだから…」
名付けやすいように、「ミイ」という名前をつけた。
アライさんは、「メイ」から持ってきたようだ。
ある日の事だ。
それから何年経ったのか、話してはくれなかった。
ただ、その猫は老いていたのか。
元のダンボールの中で、眠るように動かなくなっていたという。
飼ってる時に、いつか俺に伝えようとしていた。しかし…時期が時期だったようで。
ちょうどその時、ツバキの一件があり、自分達で育てる事にしたらしい。
「あの猫のことを、あの空き地で思い出して…やっぱり怖くなってしまったのだ。アライさんはもう大丈夫、準備は出来ているって、思っていたのに…人知れず死んでいくのかもしれないと思うと、とても怖くて…
数年経って、アライさんが猫を忘れていたように、アライさんが死んだ後に忘れられると思うと、怖くて、怖くて仕方ないのだ…っ。なにより、メイやみんなが分からなくなることが、一番…怖いのだ…っ!!」
何かが弾けたように、彼女は目の前で大粒の涙を流して泣いた。彼女がこんなに号泣しているのは滅多にない。
「大丈夫、安心して」なんて無責任な言葉を、俺はかけられなかった。
だから、そっと隣に座った。
「俺は絶対に忘れない。アライさんとの思い出、全部忘れない。怖くないなんて、安心させられるような言葉はかけられない…ごめんね?でも、俺がついてる。最後まで、俺がそばにいる。絶対に…だから、最後まで、楽しい思い出を作ろう…?」
キザに見えるのかもしれない。
でも、それが本心なんだ。
「メイ…メイィ…でも怖いのだ、とても…!」
「今は泣かせて」と言わんばかりに、彼女は俺に抱きついて泣いた。
そうだよ、アライさんはやっぱり怖かったんだ。まだ生まれて十数年の短い人生、死を目前に怖くないはずがないんだ──
◆
アライさんは少し落ち着いたのか、泣くのをやめていた…とはいえ、多少しゃくりあげている。
現在、彼女は膝枕してもらってる状態だ。
皮肉なものだ。
「…取り乱しちゃって、ごめんなさいなのだ」
「いつでも、頼っていいんだよ?」
思えば、彼女は少し前から、思わせぶりな言動をしていたんだ。
その頃からきっと気付いていた。
恐怖心を持っていたはずなんだ。
なのに、俺というやつは気のせいだと思い込んでいた。少し質問して、「悩みがない」と言われれば、深くは追求しなかった。
それが彼女の気遣いだとも知らずに。
「もっと早くから、俺が何かしてあげられれば良かったのに…ごめん」
そうやって謝ると、直ぐにアライさんは反論した。
「メイが謝ることは無いのだ。アライさんだって気遣ってばかりで、今まで素直に言えなかった…自分で、悩みは素直に言えって言ってるくせに、本当に情けないのだ。自分で恐怖に耐えられなくなるってわかっていたのに…」
しばらくそのまま沈黙した。
俺は、猫を撫でるように、そのサラサラした髪を撫でていた。
「…歌おっか?」
そう先に提案したのは、アライさんだ。
「…そうしよっか」
あぁ、こんな事でさえ、俺はリードされっぱなしなんだな…
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