第87話 彼女の不安
「ど…どうしたの?アライさん」
彼女の顔は、暗くてよく見えない。
ただ、彼女は涙を流している。
何かがあったんだ。
飛びついてしまうくらい、怖い事が。
「……やだ」
彼女の声が、微かに聞こえた。
そう思っていたら、彼女が馬乗りの体制のまま、力強く抱きついた。
「嫌だ!メイ、いなくならないでほしいのだぁ!!」
…悲痛な叫びが木霊した。
◆
寝室にて、彼女の隣に座って一生懸命慰める。
聞けば、彼女は寝ている間に悪夢にうなされてしまったらしい。
俺が離れていって、いなくなって…ひとり、そこに残される。
同じだ。
俺と同じような悪夢を見る。
彼女だって一人にはなりたくないんだ。
「ごめんね、本当にごめん!だからほら、笑って?」
「う、うぅ……メイ、本当にいなくならないのか?」
彼女は、先程からそればかりを問う。
だから、俺は聞かれる度に「大丈夫だよ、いなくならない」と慰める。
かなり落ち着いてきたようだ。
「じゃ、俺はもうご飯を作るよ…待ってて、すぐに作るからさ」
そう言って、ベッドを離れようとした時だった。
ガシッ
彼女は俺の腕を掴んだ。
「…アライさん?」
突然のその行動に戸惑う。
一方の彼女は、静かに首を横に振った。
「やだ…行かないで…」
いつもの語尾が飛んでしまうほど、彼女は不安なんだ。
俺は直感的にそう感じた。
「大丈夫だよ、俺はあっちにいるだけ。いなくなったりなんかしないよ」
俺は、少し微笑みながらそう言った。
いや、俺は知っている。
こんな事を言っても、言われた側は心配でしかない。
現に、いなくならないとアライさんが言った時も、俺が心配だったように。
やっぱり、彼女の顔は不安のままで──あ!?
突然、彼女は腕を素早く引っぱった。
勢いに任せたまま、彼女に引っ張られるまま。
気付いたら、彼女を押し倒す形になっていた。どうやら彼女も、そこまで力強く引っ張ったつもりもなく、故意的ではないような様子だった。
それに気がつくまで、ほんの僅かな間だが静けさが場を包んだ。
気がついた時、俺の顔がみるみる赤くなっていくのを感じた。
たまらず体を起こして、
「ご、ごごごめん!わざとじゃないんだ、そういう気でも…」
と言っていたのだが、彼女は満更でもなさそうな顔をして、話を聞いていない様子だった。
◆
気を取り直して、夕食を作ることにした。
彼女も少しは落ち着いたようだが、やはり気になって仕方ないのか、傍にひたすらよってくる。
「アライさん、そんなに近くじゃなくても大丈夫だよ」
そう言っても、彼女はただ首を横に振るばかりだった。
「だって、心配だし不安だから…」
彼女はそう言う。
ここまでに彼女が不安げにしてるのは初めてだ。
そう、具材を煮込んだり焼いたりしながら思っていた。
◆
食事中も、彼女は落ち込んでいた。
食事が喉を通らないほどだった。
きっと、こんな夢を見たのは初めてなんだ。
内容が、とてつもなくショッキングなものだったんだろう。
「昔のことを思い出していたんだけど」
俺はそう言って、唐突だが話を始めた。
昔のことと言ったらブルーなことしかないと、俺の場合では思われがちなのだが、案外そうでも無い。
「今じゃ本当に懐かしいね、あの時のこと」
そう言って、過去のことを振り返り始めた。
彼女と出会った時のことを、振り返って懐かしむんだ。
「アライさんと出会った時は、こうなるとは思わなかったなぁ。一緒に誰かとご飯食べて、一緒に山登りもいったりしてさ。それで、誰かが俺の帰りを待ってくれるってことも…」
彼女はそれをただ黙って聞いていた。
「たくさん、思い出作ったよね。思い出すととても懐かしいよ。もちろん、明るい思い出ばかりじゃないけど…」
そう言うと、椅子から立ち上がって彼女の隣へと向かう。
しゃがんで、彼女と目線を合わせる。
そして──抱き締めた。
「!」
「絶対にいなくならないから。これからも、俺だって一緒にまだまだ思い出作りたいから。だから、泣かないで…いつもみたいに、笑顔でいて…」
「メイ…」
数秒間、二人はそのまま黙ったままだった。
家の中に響くのは、外から聞こえる車の音だったり、または人の声だったりした。
『笑顔でいて』という彼も、また泣いていた。理由はわからない、ただ、彼女が不安げなのが嫌なのか、はたまた彼女の幸せを願うばかりに、そうして涙を流したのかもしれない。
「…まったく、メイは仕方ないやつなのだ」
彼女は静かに、ゆっくりと言った。
「そういうメイも、泣いているのだ…昔からメイは泣き虫なのだ…」
そして、俺の涙を拭った。
拭う彼女の手が震えているのがわかった。
「…あれ、俺、泣いて…?」
「メイがいなくなるのは怖い、怖いけど…
──アライさんは絶対にメイを信じているのだ。最後の時まで、ずっと傍にいるのだ」
「アライさん?それ一体どういう──」
突然、視界が彼女の顔で染まった。
今度は一体何事か、そう思っているとあることに気付いた。
口が塞がれていた。
それも、彼女の口でだ。何度目のキスだろう。
ただ、そのキスは長かった。
静かな家の中で、少々卑猥な音が響いた。
やがて、二人は唇を離すと、少し荒い呼吸をした。
「…はぁ、はぁ、アライさん、どうしたのさ突然…」
「アライさんはもう大丈夫、って事なのだ」
「へ、へぇ…?」
ちょっと使い方が違うんじゃないかな〜?
と疑問に思ったが、触れないでおこう。
こうして、無事アライさんの不安を解消…出来たかどうかはわからないけど。
その後は、夕食を二人で美味しく頂いた。
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