第3滴 ココノエ


 邪険にされていることは、分かっていた。幼い頃から、姫の眼には王子しか映っていなかった。不条理に虐げられていた彼女に、等身大で寄り添ってあげられたのは私ではなく、グレン王子だった。


 グレン王子は、薬を注入したと言った。だが嘘かもしれない、と私は疑い始めていた。あの心優しい王子が、かつての姫を、婚約者を、完全に否定することなど本当にできるのだろうか。


「せいっ!」


 数珠を握ったまま念じると、結界が張られる。姫はまっすぐに私にぶつかってきたが、結界が進攻を遮断する。まるで、魔族と人間を、分け隔てるかのように。狂気に染まった紅い瞳から、眼を逸らすことができなかった。人間の時にはなかったはずの発達した牙を見せながら、姫は笑う。


「最近は魔族対策も盛んなようね。吸血鬼用の魔法薬があれば、攻撃を受け付けないのでしょう? 医学さまさまね」


「……」


「でも分かっているわ。あなたはその薬を注入していない。昔からあなたは、自国に誇りを持っていたものね。異国の薬を自身の肉体に注入することに抵抗があった。違う?」


「……私は、吸血鬼に負けるつもりなど毛頭ございません」


 ググ、と姫が体重をのせ、無理に結界を破壊しようとしている。数珠を握る手に、いやな汗が流れた。


「そうね。あなたはそれ以上に、自分の実力に絶対の自信があった! 薬などという保険に身を委ねるなど、封魔師の名が廃るとでも思ったのかしら? でも残念ね、その傲慢が、あなたを紅く染める!」


 バリン、という音を立て、結界が破壊される。魔族特有の異臭が鼻をつく。それとも、これは単なる血の臭いか?


 無防備な首筋に、姫の悪意が迫る。純粋に、おいしそうなものにかぶりつこうという意志。幼い頃眼に宿っていた光は消え、ただ血の色を映し出すだけだ。


 「姫――私は、ただ――あなたに幸せになってほしかったのです。国を出ることも、復讐心に取り憑かれてしまうことも、私は望んでいなかった」


 だが、私の言葉が矛盾を孕んでいることは、私自身にも分かりきっていた。


 姫が幸せになるためには、あの国から出なければならなかった。


 復讐を完遂しなければ、姫は幸せにはなれなかった。


 あの日、姫の決意を聞いたときから、分かっていたことだった。本気で復讐を止めたいのならば、解放されようとする姫を、有無を言わさず連れ帰ればよかったのだ。


 あの、暴虐の鳥かごの中に。


 私にはそれができなかった。世界の広さを知らぬ雛鳥を、あんな小さな世界の、あんな小さな大人に囲わせることを許せなかった。けれど、私は信じていたかったのだ。姫の知る世界が、明るい光に満ちたものであるように、と。


 彼女が知ったのは、裏の世界の狂気だった。



**


 姫が吸血鬼化したという話を聞きつけたのは、今から1年前のことだ。


 私は姫を見つけられなかった罰として処刑されるはずだったが、少し魔法で驚かせば、国王は押し黙った。存在価値のなくなった私は解雇され、レディアン王国でグレン王子と慎ましく過ごしていた。


 「ココノエ、東の国に現れた吸血鬼の噂を知っているか?」


「吸血鬼、ですか?」


「ああ。徐々にこちらに近づいているが、人間に危害を加えているわけではないらしい。それだけじゃない。その吸血鬼から、隣国の装飾品が見つかったそうだ」


「隣国の――? まさか」


「ああ」


 王子の顔に、恐れは見えなかった。恐れていたのは、私の方だったのかもしれない。


 「姫が、ついに魔に魅せられてしまったようだ。すぐに出撃しよう」


 感情を押し挟まないように、王子は言った。あの時、素直に従っていればよかったかもしれない。だが私は、姫の復讐を道半ばで止める勇気もなかったのだ。そう、姫は最初から、復讐以外に余計な殺生はしないつもりだったのだろう。


 紅く燃える決意。その熱すぎる温度に、私は気圧されていたのかもしれない。


 「お待ちください、王子。姫は必ず、ここへ帰ってきます。ですから、その時に決着をつけましょう」


「しかし今後、死人が出でもしたら――」


「いいえ王子、姫は――他人を襲ったりはしません」


 、という言葉は、噛み殺した。


 すべては、私の仕向けたことだった。



**


 「はぐっ」


 姫が咬みついたのは、私の首筋ではなく、丸太だった。


「な、なに、これは!?」


 彼女の後ろから、静かに告げる。


「変わり身、でございます」


 振り返る姫の顔に、汗がにじんでいる。大丈夫、勝てる。


「フン。さすが東方の封魔師。妙な技ばかり使うのね」


「……姫。私のことをよく思っていなかったことは承知しています。あの頃のあなた様にとって、私は――私のような大人たちは、無垢な恋路の邪魔者に過ぎなかった」


「ハン」


「ですが、私とて熟練の術者です。姫。あなたは勝てない」


「同じ手は2度くわないわ」


 音もなく、姫が私の後ろにぴったりとくっついた。私の首を、人間味を失った固い爪がなぞる。


「あの頃、と言ったわね、ココノエ。違うわ、あなたは今でも、私の邪魔者」


 一瞬のうちに、数珠を奪われていた。ここまで速いとは――。


「これで、あなたは結界を発動できない。いよいよ食事の時間ね」


 姫がまた、突進する。冷静になりさえすれば、吸血鬼など怖くはない。要はあの牙に触れなければいいだけの話だ。


「私は、そう簡単に急所を晒したりしません」


 自身の周囲を、黒い結界が守る。姫はまた、私に触れられない。


「ぐっ、なぜ!」


「姫。あなたには教えていませんでしたね。呪符がなくとも、私は自身の力で結界を発動できる」


「さっきのは、私の注意を逸らすためのおとり……」


「……終わりです、姫」


 撲滅の印を結ぶ。私の周囲に魔方陣が描かれ、そこから青白い光が放たれる。避ける間もなく、姫に直撃した。


「ぐっ、ぐあああああああああっ!!」


「どうか、鎮まりください……」


「く、ククッ……ククク……アハハハハハ!!」


 姫が甲高く笑う。無駄だ。もう何をしようと、死の運命からは逃れられない。


「結界ねえ。ココノエ、それがあなたの本心なのでしょう?」


 動揺させるつもりか。私の心が動じることは決してない。


「分かっているわよ。! あの男にどんなに苦しめられても、何事もなかったかのように私の前に現れた。あなたは私を試していたのでしょう? 。そう言いたかったのでしょう?」


「……考えすぎです。私は、ただ使命のために耐えていただけ」


「私はお前とは違う。聞き分けのいい大人という言い訳を盾にして、自分の望むことから逃げるような臆病者とは違う! 私は、私の心はグレンに向けられていた! グレンが私のすべてだった――グレンは、私たちの国をつくると言ったのよ。ああ、グレン、グレン――」


 姫の邪気が増大していく。ば、馬鹿な! 私の魔力では、抑えられ――。


「グレンーーーーーッ!!」


 魔方陣が決壊する。そのままの勢いで、まるで猿のように姫は私の顔面にのしかかった。


「姫――」


「私はグレンを手に入れる――そのために戻ってきたのよ。私は、グレンと結婚する。16歳になったのだから。あの地獄のような日々を乗り越え、私はついに大人になった!」


「ひ、姫――あなたは、大人ではない。もう、人間ではないのです――」


 振り払おうとしたが、かなわなかった。人間の時には考えられないほど重くなっている。姫の腰が私の呼吸器をふさぎ、息をすることすらままならない。


「ココノエ、今さら正義感を振りかざしても無駄よ。私をこうしたのは、他でもないあなたなのだから――」


「くっ」


 バランスを崩し、仰向けに倒れる。木々の合間から、満天の星空が見えた。


 勝利を確信した姫が言い放つ。


 


 自分でも、分からなかった。正義を振りかざしながら、私も心の奥底ではあの男の無残な最期を期待していたのかもしれない。


 私の視界を覆ったのは、姫の瞳――みまがうことのない、裏の世界の紅だった。その紅は、私の最期を宣告していた。


「さようなら、ココノエ――」


 姫の牙の先端が、私の首に当たった。申し訳ございません、グレン王子。


 私は、ここまでのようです――。


 「やめるんだ、プリシア」


 その時だった。満天の星空から降りてきたかのような澄み渡る声が、閃光のように私たちに降り注いだ。


「お、王子――」


「あは♡ 待っていたわ、グレン」


 私は、姫と王子、2つの紅を見ていた。


 2人の瞳の色は、似て非なるものだった。


 魔族と人間は相容れない。それは、世界のことわりだった。

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