第2滴 プリシア2
邪険にされていることは、分かっていた。それでも私は、グレンと一緒にここから逃げ出したかったのだ。グレンは私にすべてをくれた。友情も、知識も、つながりも――愛情も。私には、グレンしかいなかった。グレンしか、いらなかった。だからあの時、12歳のあの夏、私はグレンにそう切り出したのだ。
「一緒に逃げましょう、グレン」
首を縦に振ってくれるだけでよかった。それだけで私を縛りつけたあらゆるものから解放されることができた。だけれど、グレンの答えは私を絶望の底へと叩きつけた。
「……それはできない。ごめん、プリシア」
「……どうして?」
「大人たちに見つかる。ブラード王国でこうして会っていることも、君のお父様にばれたら面倒なことになるくらいだ。ここから逃げ出すなんて、とても――」
「できるわ。ココノエと一緒なら、逃げきれる」
私たちが真に信頼することができた大人は、ココノエだけだった。グレンは一瞬嬉しそうな表情をしたが、またすぐにつまらない現実をつきつけた。
「……ダメだよ。ココノエを束縛しているあの人が、見失うはずがない。すぐに足がついて、連れ戻されてしまう」
「助けて、くれないんだ」
グレンの返答を待った。その小さな頭で考えた策は、現実的で、理にかなっていた。
「僕たちが――僕たちが結婚したら、君を正式に僕の国に招待できる。近すぎてダメなんだったら、僕が王になって、どこか遠くに新しい国をつくろう。僕たちだけの国を! そこには、君を殴る大人なんてどこにもいない。ココノエも呼んで、東方の話をたくさんしてもらおう。大臣にしてもいい。君は――妃だ。だから――」
グレンは泣き出しそうに顔を真っ赤にしていた。私はその懸命さに惹かれていたのだと思う。
だけどそれには、時間がかかりすぎた。
「ありがとう」
グレンの無垢な唇にキスをした。グレンを思い通りにしたかったのだと、今なら分かる。
唇を合わせるだけで他人を自分のものにできる、今なら。
**
「プリシアはどこだ!? 探せい!!」
グレンの提案に失望したわけじゃない。私は彼の提案が嬉しかったし、できることならその時を待っていたかった。でもそれを待っていられるだけの気力は、私にはなかった。
だから、私は逃げ出すことにしたのだ。王都の特別な通用門のそばで、息をひそめて父上が通り過ぎるのを待っていた。その時。
「いけません」
「だっ、誰!?」
私の後ろから声をかけてきたのは、ココノエだった。
「今ならまだ間に合います。大事になる前に、さぁ」
「いやよ、戻らないわ! ココノエだって、私があの男からどんな仕打ちを受けているか知っているでしょう?」
「そ、それは――ですが、グレン王子も心配なさります」
「グレン――」
その時、父上の声が私の迷いを振り切った。
「ココノエ! プリシアは見つかったか?」
「あ――」
ココノエが振り返った。その巨体に隠れたために私の姿は父上に見えていない。
「ココノエ、お願い。見逃して」
ココノエだけに聞こえるよう、泣き言を口にする。
「王女は――まだ見つかっていません。このあたりはもう捜索しましたから、おそらく違うところにおいでなのかと」
「フン――もし見つからなければ、貴様の責任だからな! 2度と動けぬ身体にしてくれるわ!」
ありがとう、と言いかけた私の口が、父上の宣告によって動かなくなってしまう。
「ええ――承知しております」
やっぱり戻らなければと思い直した。だけど、次の言葉が私のすべての感情を押し黙らせ、復讐の紅い炎を灯らせた。
「まぁ、あんな手のかかるガキなどいなくともよい。他に女はおる。今度な優秀な子を期待せねばならん」
父上が見えなくなってから、私は口を開いた。
「ココノエ、私のせいで――」
「行ってください、王女」
「え?」
「お言葉ですが、あなた様のおっしゃる通り――あのような男に縛られるのは間違っています。ただ、私と行けば必ずばれてしまう。私の纏う魔力が、信号のように彼らに位置を教えてしまうのです」
「分かってる。独りで逃げ切ってみせる」
「……この街の協力者に、抜け道を手配させましょう。少し時間をください」
「どうするの?」
ココノエは眉間に手を当てると、瞳を閉じて集中し始めた。
「馴染みの者たちに
「どうして?」
「この国は騙せても、他国は無理です。グレン王子にお別れを告げたい気持ちは重々承知ですが、そうすれば逃げることはできない」
「……分かった」
「王子には、私からお伝えしておきましょう。私の命も、いつまでもつかは分かりませんが――」
これも今となって分かることだが、これはココノエなりの謙遜だったのだ。あれほどの魔法力の持ち主が、術的に非力である父上に負けるはずなどなかった。ココノエにとって、「私」という守るべき対象を失った時点で、すぐに反旗を翻すことだってできたはずだ。だけどそうしなかったのは。私の決意を聞いてくれたからだと、そう信じている。
「――私は、私を生んだこの国に、復讐する。絶対に」
「……闇に、魅せられてはいけません。あなた様は不可思議なものを引き寄せてしまう性質がある。なおさら危険です」
それとも、子供の戯言、と思っていたのだろうか。私は本気だった。
「これをお持ちください」
ココノエが、白い布にくるまれた何かを渡してくれた。
「これは?」
「御札でございます。悪しきものを祓う力がございます」
「オフダ……」
「それを懐に忍ばせておけば、大事には至らないでしょう。……精神感応が終わりました。私の言ったとおりに逃げてください。どうか、ご無事で」
「うん、ありがとう」
私はそう言うと、通用門から駆け出した。この国と、縁を切ることができる。そう思うと晴れ晴れとした気持ちだったが、すぐに不安に押しつぶされそうになる。
私は、自身を保つためにココノエからもらったオフダを握りしめた。
大丈夫、これさえあれば――。
「グレン――」
会いたかった、だけどそれが叶わないことも、招いた事態が私のわがままであったことも知っていた。時が経てば、私が大人になりさえすれば、またグレンに会える。そう信じていた。
グレン――若葉のような緑の髪に、燃えるような紅い瞳。彼だけが、私を苦痛から抜け出させてくれた。
彼が、私のすべてだった。
**
「彼が私のすべてだったのよ。彼は私と結婚して、2人だけの国をつくってくれると言った。だから、迎えに来たの。もう私たちを縛るものは何もない」
私は、舌なめずりをしながら、目の前の男にそう言ってやった。
「わかる? ココノエ」
10年ぶりに会ったその男は、まるで衰えを知らない。魔力も、容姿も、冷静さも。
「心外ですね。私とてあなた様をお守りするために仕えてきたはずです。あの日、逃げる手伝いもさせていただきました。なのにまるで、最初から私など要らなかったかのような物言いでございますね」
「ええ、その通りよ」
私はもう子供じゃない。優しい嘘で大人を安心させることがいかに無意味か、知っている。
「あなたなんて要らなかった――あなたがいたって、私の心に安息はもたらされなかった。逃げ道なんて、自分でもどうとでもできたし、オフダだって」
私は腰の布を破いてみせた。魔族になってからは服を着る必要がなくなったが、最後まで抵抗していたのか、オフダを入れていた場所だけは、布切れになっても執拗にまとわりついていた。
「……あなたはやはり、完全に人の心を失くしてしまわれたのですね」
「あなたは私を守ってなんかくれなかった――私を守ってくれたのは、グレンだけ! 答えなさい、グレンはどこ」
「ここにはおりません」
「あらそう、じゃあどきなさい。死にたくはないでしょう?」
「残念ながらそれはできません。王子をお守りすること、それが私の使命でございます」
「……呆れた。まだ用心棒ごっこのつもり? いいわ、だったら殺してあげる。知ってる? 名家の血っておいしいのよ」
「……あなたの一族も、言わずもがな名家だったはずです」
明晰な人間は、大人たちからは好かれることだろう。ココノエは昔から、間違ったことなど1度も口にはしなかった。だけどその完璧さが、私を苛立たせる。
「最初から最後まで邪魔者ね、あなたは! いいわ、死になさい!」
私はかつての知人へと向かっていった。夜の森を、月明かりが照らしていた。
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