第1滴 グレン1
邪険にされていることは、分かっていた。
それでも行かなければならなかった。今頃、あちらの王都は彼女の手に堕ちているだろう。偵察に向かった同胞たちの連絡もない。おそらく、全滅したのだろう。
闘える戦士は、僕たちしか残されていなかった。
「――魔族は、来ていないか」
訊く必要などない。幼い頃と違い、僕も悪しきものを察知するくらいは簡単にできるようになった。それでも質問をやめないのは、昔の名残だ。彼の返答も、分かっている。
「ご安心を、王子。小さいのが数体いますが、危害を加えることはありません」
「ありがとう、ココノエ」
ココノエは優しく微笑むと、僕と並んでバルコニーから夜の王都を眺めた。短く切りそろえられた黒髪は、この国では珍しい。鍛え上げられた肉体が服の隙間から見え、彼のような立派な大人になりたいと思った。
「美しい街だ――月や星、人々の生活の光――あらゆるものが我々を照らしている」
「あなたの国でございます」
「父上がつくった国だ」
ココノエは謙遜するなとでも言いたげに曖昧に笑った。次の言葉も分かっていたが、彼は意味深に口を開いただけで、何も言わなかった。
あちらの王都も、彼女の父がつくったはずだ。だがそれを、彼女自身が滅ぼしてしまった。
彼女は、復讐を成し遂げたのだ。自分をつくりあげた、すべてに。
そして彼女は、幼い頃僕たちにそうしたように――何かを終えた後は必ず僕らに報告しにやってくるはずだ。誉めてもらいたくて。
愛情を、求めて。
だから、彼女は必ずここに来るはずだった。彼女の身体中を流れる血が、もう許容量を超えていたとしても、彼女の心は満たされることはない。その時が、討伐のチャンスだった。
「なぁココノエ。血を吸われるってどんな気持ちだろうな」
不謹慎な問いをぶつける。少し緊張していたのかもしれない。幼い頃から僕たちの心の支えになっていた東方の封魔師に、落ち着かせてほしいと甘えた結果かもしれなかった。
「さぁ。東方では、そのような魔族に出くわしたことはありませんでしたので」
「そっか。そうだよな。ココノエはなぜ、遠い国からここに来てくれたんだ?」
風が強い。彼の黒装束が風になびき、首に巻いた魔除けがカラカラと音を立てた。本来であれば、何年も前に訊くべき質問だった。だけれど、あの時の僕らはココノエが来てくれた理由には無関心だった。
彼女に変化がなければ、今でもそうだったかもしれない。
「ブラード王は、近隣の国は信用できないとおっしゃっておりましたから。王女と王子様の婚姻がすでに決まっておりましたゆえ、余計な虫を寄せ付けたくはなかったのでしょう」
「そうだったのか」
もちろん、彼の言う近隣の国にはこの国も入っていたはずだが、婚姻を認めてくれたのは、わが父レディアンが強く推してくれた結果だった。
当然、そんなことはいまや無意味なのだが。
「死人に口なし、ですから」
皮肉たっぷりにココノエは笑った。そうだ。彼女は絶対に――ここにやってくるという確率以上に確信的に――自分の父を手にかけているはずだ。眷属にもしていないだろうから、彼は冷たくなって完全に沈黙しているだろう。
ブラード王は、魔力も弱ければ人望もなく、暴力的でありながら浅はかな、おおよそ王にふさわしくない人だった。大人になった今なら、すぐにでも一蹴できる相手だ。
だが、当時の僕たちは、彼の見せかけの威厳に怯えていた。成す術を持ち合わせていなかった。彼女が魔族を呼ぶたびに殴られていたことも、遠方の封魔師を奴隷のようにこき使っていたことも、隣国の少年に――僕の存在に、眉をひそめていたことも知っていた。それでも、力ない僕たちには何もできなかったのだ。
抑圧された日々は、彼女自身が魔族になることで終わりを告げた。温和に解決するには、僕らは大人になりすぎていた。
血の味を、知りすぎていた。
ココノエが彼女を守るために派遣されてから、10年の時が経った。僕と彼女は16歳になり、本来ならば正式に結婚しているはずだった。愛し合っているはずだった。
「
「いいえ」
「
「……そうですか」
「彼女が現れたら、この黄金の月すら、紅に染まってしまうのだろうか」
「……血を争うことはできません。たとえ自分の親が、どのような人物だとしても」
かみ合わないココノエの返答は、彼女を非難するようにも、慰めるようにも聞こえた。
「……勝算は?」
ココノエが心配そうに尋ねる。僕は腰の鞘から大剣を引き抜き、その輝きに見惚れた。
「この剣には、光の魔法が練り込まれている。魔族には――特に光を嫌う吸血鬼には、よく効くはずさ」
「……しかし、吸血鬼は素早い。もし先に咬みつかれれば――」
眷属。その存在は、魔族すら孤独を恐れるという真実を物語っている。
「大丈夫さ、ココノエ。僕も魔法薬を注入した。彼女の能力は効かないさ」
ココノエはまた、曖昧に笑った。さすがに慎重だ。僕の言葉を、簡単に信用してはくれない。
「……ココノエ、ずっと訊いていなかったことなんだけれど」
「なんでしょう」
「所帯を持っていたのか?」
「……私のいた国では、封魔師は禁欲を義務付けられていました。ですから、私は最初から独りでしたよ」
「だが、親は?」
ココノエは、時折見せる悲し気な顔をした。しまったと思った時には、ココノエは話し始めていた。
「私は、捨て子だったのです。異能は一般社会からは嫌われる。そういうことだったのでしょう」
「すまない、ココノエ」
「お気になさらず。しかし、なぜ今そのようなことを?」
「いや――」
お前なら、愛を知っているかと思って。と言いかけたが、やめた。しかし察しの良い封魔師は、悲しみを押し殺すようにして笑う。
「私にも、俗世の幸せは程遠かったのです。しかしそれを恨むことはありませんでした。今でも、同じ気持ちです。私は、封魔師としての役割を果たさなければならない。それだけのことです」
「ココノエ……」
「私が先に行きましょう。わざわざ王子の手を紅く染める必要などありません」
「しかし……」
「大丈夫です。いざとなれば、その剣で」
僕は返事をしなかった。星が瞬いて眩しい。
「プリシア――」
お前も、同じ月を見ているのか?
その、血に染まった肉体で。
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