9.目を閉じた。

 調子はどうだい、と、男は言った。

 顔は見えない。見知らぬ部屋はずいぶんと暗く、傍らに置かれた機械だけが、ぴ、ぴ、と甲高い音と同時に、明るい画面を晒していた。グラフがゆっくり動いている。機械から伸びたコードは私の体につながっていて、ここはどこだろう、と考える。

 最悪だわ、と、けれども答えははっきりしていた。気分は最悪、いつだってそうだった。

 質問してもよいかな、と、男は問うた。

 首を傾げたのだと陰でわかる。ずいぶんと小柄だ、顔が見えないけれど、体格で言えば子供のようにも見える。私は起き上がらぬままに、ぐるりと室内を見渡して、問いかけには答えなかった。

 簡素な部屋だ。窓は一つ、厚手のカーテンで閉め切られていて、家具は少ない。壁際にデスクと椅子と、デスクの横に小さい本棚が見えた。部屋が暗いせいで、タイトルは見えない。

 デスクの上には何やらごちゃごちゃとものが置いてあった。注射器の乗ったトレイだとか、脱脂綿だとか、アルコール消毒液だとか。医療の現場で目にするそれらに、少しだけ嫌悪を感じて目を逸らす。男は私の様子をじっと観察しているようだった。

 グラフを描く機械を見ていたくなくて、繋がったコードに手をかけた。私がとろうとしているのに気がついて、どうぞ、と男の声が続く。とっても良いらしい。眠っている間中、ずっと計測していたならば、私が起きた今、必要なデータは取れたに違いない。

 何がしたいの? と、今度は私が問いかける。男はじっと私を見つめて、そっくり返すよ、と言った。

 君は何がしたいのか? 俺はその理由が知りたい。

 男の声は明朗で、まるでこの部屋の雰囲気にそぐわない。

 私は目を閉じて首を振った。何をしたいのか、何もしたくはない。


「何もしたくない、し、何もしていない」


 答えると、男は一つ頷いた。そうだろう、そうだろう、と、まるでわかったような口をきく。

 それで、きっと彼は、私が目覚めたということが何を意味するのか、正しく理解しているのだろうと察する。一定以上は近寄らない。接近などするつもりもないのだろう。ただじっと、私を見つめるだけの男。


(知っている)


 私の心臓の音が、一体何をもたらすのか、彼は知っていて、ここにいた。当たり前だ、でなければ見ず知らずの私を、こうして捕まえ、検査しようなどとは思わない。

 でははたして彼は何者だろうか、と考える。見覚えはない。私のことを知っている人間は、おおよそすべて死んでしまった。

 理由が聞きたいのだよ、と彼はもう一度続ける。理解しているのに、なぜ? 心底不思議そうな問いかけに、わからないまま首を振った。


「あなたが誰だかわからないけれど」


 前置いて言う。


「うさぎはさびしいと死んでしまうのよ」


 それで、男は納得いったように頷いた。君はラパンということか、なんて、妙に頷いた。

 コードを取った私はのっそりと起き上がる。目覚めた後は、いつも不思議と体が軽かった。今だってそう。軽やかな動作で起き上がった私を、男は止めようとしない。


「止めないの?」


 問うと、男は肩を竦めた。止めて、止まるのかい? 問いかけに口ごもる。


「それとも、止めてほしいのかい?」


 続いた言葉に閉口する。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。この無意味な行為を止めてほしいと願ったのは、ずいぶん昔の話だ。自分の不思議な音に気が付いてから、無作為にかかわる全てを傷つけた、そのあとで。

 私は首を振った。男はそうかと一つ頷くと、体をよけて通路を開ける。捕えるつもりはないらしく、私は一度、男を見つめる。

 角度が変わったことで、ぼんやりと男の顔があらわになった。大きな釣り目、中性的な顔は作り物めいて見える。私に近づく男たちは、皆こんな気持ちを抱いたのかな、と少しだけ考えた。生きているのか疑わしい、から、触れて確かめたくなる。動いているのか。生きているのか。今目の前に、存在しているのか。


「さびしくなったらいつでもおいで、ラパン」


 立ち止まった私に何を思ったのか、男は続けて扉を開けた。どうぞ、と、背中を押されたのは初めてだった。うろたえながら、それでも立ち止まらずに、扉を抜ける。廊下に陽がさしていて、外の明るさにめまいがした。


「……ラパンって、私のこと?」


 最後にそう振り向けば、男は笑って、だって君はうさぎなんだろうと呟いた。

 それで私は動き出す。触れて確かめたい衝動と裏腹に、触れてはいけないのだと感じた。私をすんなり逃がすということは、彼の目的はきっと達しているのだろう。でもそれが、だからこそ、ちりちりと胸を焦がす。不思議とそれは嫌な感覚ではなかった。消失感はない、目の前で彼はきっと老い朽ちることはないのだろうと、なぜかそんな気がした。


(さびしいなんて、久しぶりに口に出した)


 言ってしまえばそれで満足したような気もした。私はさびしい、さびしいから、誰かにそばにいてほしい。

 それだけのことだったのに、何を間違えて、私はさびしさの連鎖にいるのか。彼に聞いたところできっと答えはなかった。私がさびしがったから、間違えたのはきっとそこだけのはずで。

 歩き出す。彼は追ってくる気配を見せず、視線はあっという間に消えてしまった。私は一つ瞬きをして、さびしくないし、うさぎじゃないわ、と呟いた。

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