8.大狼

 光化症研究所、とは、簡単に言えば未知の病である光化症について、国が研究・調査を進めるための機関である。七年前に隕石が墜落してから比較的すぐ設立された機関は、設立当初医学界の重鎮や宇宙学に詳しい専門家などで構成され、当時すでに「重度」と診断された患者数名を被験者として迎え入れた。

 八生は最初期に迎え入れられた被験者の一人である。といっても、研究所の設立から実際の稼働までは一年あまりのブランクがあって、八生に光化症が発症し、その特殊な能力がいよいよ制御できなくなってからのことだったが。

 光化症、が認知されてからすぐ整備された施設ということもあって、現存するすべての光化症外来はこの光化症研究所から認定登録を受ける必要があり、診断した内容は些細なものから重度のものまで、すべて研究所への報告が義務付けられている。といっても、個人情報の管理が厳しい昨今、患者を特定できる情報はすべて伏せた上で、あくまで診断内容のみが報告されている。

 大狼と光化症研究所のかかわりについて、正直なところ、小鹿はその詳細を知らなかった。八生が研究所の所属である以外に、大狼は個人的に研究所へ通っているようだったし、恐らくはともに情報の共有、研究を行っているのだろうと思っていた。何せ大狼は幼い風貌とは別に、光化症研究の第一人者であり、その類稀な頭脳をすべて光化症研究に注いでいるような男である。そもそもの設立時に関わっていたとして、何らおかしなことではなかった。


「のに、なんで気づかなかったんですか」


 小鹿は助手席に座る大狼を横目に見た。大狼は珍しくバツが悪そうな様子で、「すまない」と小さな声で謝罪する。小鹿が光化症研究所について提案した日から四日後。その日は時間的に難しいだろうと日を改めたのだが、お互いのスケジュールを合わせた結果、少し間が開いてしまっていた。

 第一、普段の大狼ならば最初に気づいていただろう事なだけに、なおのこと小鹿には不思議だった。そもそも、小鹿は大狼が研究所のデータを調べたうえで話を進めていると思っていたのだ。むしろデータなしによくあれだけの推理ができたものだと感心するが、大狼らしからぬミスに首はどんどん傾いでいく。


「大体、いつもこんなに入れ込まないじゃないですか。入れ込むっていうか、光犯課に来て光犯研究室に協力願いが出てからじゃないと動かないのに、今回はやけに積極的ですね」


 別にそれ以外の仕事を撥ねている、というわけではないけれど。大狼は気が向けば光犯課にやってきて、それぞれが抱えている案件に一言二言口出ししては解決に導く手伝いをしている。だが、今回のように光犯課に回ってすらいない案件について、積極的に嗅ぎまわり解決しようとはしていなかった。そこまで手を広げたら、大狼一人では対処できない。今や日常の些細な事件に光化症が関わってきていることを、小鹿でさえ実感していた。万引き事件然りだ。光化症能力者自体はまだまだ一般的ではないとしても、そもそもの光化症患者数が増えてきているのだ……絶対数が増えれば、能力発現が増えていくのもおかしくはない。


「入れ込んではいない。前も言っただろう。純粋な知的好奇心だよ……まあ、確かに今までの事件より集中していることは否めないが……」


 大狼は言いにくそうにそれだけ答えると、「別に解決したいわけではないのだよ」と付け足した。


「解決したいわけじゃない?」


 それこそおかしな話だ、と、小鹿は思う。小鹿が担当した万引き事件と違って、こちらは殺人である。野放しにはできないし、先日のニュースを見る限り、いよいよ光犯課に情報が回ってくるだろう、案件。だというのに、解決したいわけじゃないとはどういうことなのか。

 言葉を間違えた自覚があるのか、大狼は小さく肩を竦めて「忘れてくれ」と続ける。


「個人的な話だ。個人的に、犯人の持つ能力に興味があった。それで事件解決に至れば万々歳だが、俺の主としての目的は解決ではない、ということだよ」

「えーっと、よく、わからないんですけど……能力を解明したいのであって、事件解決が目的じゃないってことですか?」


 小鹿が問い返すと、大狼は苦笑気味に「そう」と頷いた。解決できればそれが一番だが、解決に至らずとも能力が解明できれば満足できる――要はそういうことなのだろう。


「なんか、やっぱり大狼さんらしくないですね」


 なんとなく納得できなくて、小鹿は軽くむくれて見せた。三十近い男がむくれたところでかわいくはないだろうが、大狼ははは、と軽く笑うと「むくれるな」と言った。


「俺だって正義の味方じゃないからな。目的のためにどんなことだってする、とまではいかないが、より興味の強いほうに惹かれることだってある」


 続けた大狼の声は少しだけ堅かったが、小鹿はそれ以上追及することをあきらめて、「そうですか」と口中で同意するのにとどめた。

 信号を右折して、少し直進すると研究所が見えてくる。大きな白い建物は頑丈な柵と塀で囲われており、敷地内に入るためには門のところで警備員に身分証明する必要があった。

 今日の訪問で言えば、大狼は研究所の常連で、小鹿とて何度か足を運んだことがあるので問題はない。というより、大狼は研究所の所員証を持っているらしいので、それを提示すれば終わりだった。

 敷地内にある駐車場に車を止めて、いくつかわかれている棟の、一番手前にある建物を目指した。実際の研究資料を保管する建物は、A棟と書かれた看板があって、小鹿は入ったことのない建物だった。


「基本的に研究所の所員じゃないと入れないからな、この建物は。俺は二、三度訪れたことがあるが、すべての症例、能力データが保管されている」


 簡単に説明しながら、受付で小鹿の分の来館証を受け取った大狼は、目当ての部屋へと促す。

 促された部屋は大きな書庫だった。カートを通すためだろう、幅のある通路の横に、可動式の書棚がいくつも並んでいる。通路側の側面のボタンを押すと棚が動いて隙間を作るようで、重たい書棚は床から天井までびっしりと書物を埋めていた。


「所蔵されている書籍は医学から宇宙学に至るまで。例の光線についての研究書なんかもある。基本的に関連書籍はすべて所蔵されているから、見様によっては眉唾物のものも含まれているな」


 大狼は言いながら、通路の真ん中ほどまで行くと書棚のボタンを押して隙間を開けた。


「ここから先が、症例および能力データの棚」


 光化症の症例については、部位ごとに詳しく分類されているらしく、頭から始まり目、鼻、口、口のなかでも唇から歯、舌と細かく分けられていた。迷いなく進む大狼を見ながら、ふと目についた「目」の症例データを覗き見る。頭部の光化は症例自体が少ないのか、細かく分類されてある割にスペースが狭く、とったファイルも薄かった。それだけに、ぱっと開いて目についた症例が知人のものだとすぐにわかる。


(有馬さんのデータだ)


 両目が光化している先輩刑事の一人を思い出して、あわててファイルを閉じる。個人情報を盗み見るようで何とも言えない罪悪感にかられた。小鹿とて、自分の光化症について詳細に誰かに知られたいとは思わない。もっとも、現状光犯課の主治医となっている、大狼には別だったけれど。


「この辺からだな」


 そういって大狼が示したのは、胴体のスペースだった。

 頭部と比べて圧倒的にスペースが大きい。それは腕や足にも言えたが、存外胴体部分……肩や背中、胸といった部位が、部分的に光化している症例は少なくないらしい。「小鹿くんはそちらから見てくれたまえ」と大狼が指示したので、小鹿は素直に頷いた。自分は左端から、大狼は右端から。

 胸、のあたりのファイルを探し出して、中身を読んでいく。開くページはどれも表面的な……皮膚上の光化ばかりだった。胸の下あたり、上あたり、全面、脇から胸にかけて。掌が丸々光化している小鹿としては、皮膚の途中から突然光化する現象が不思議なことのように思えた。もちろん、自分の光化とて不思議でないとは言えなかったが。

 同時に、痣のようだとも思う。図解された光化部位を見る限り、その形状に法則性はなく、まだら模様であったり塊であったり人それぞれである。読んでいくと、光化部位が大きい人ほど、光化深度も高いことが分かった。


「あった」


 見つけたのは大狼だった。

 疲れたような吐息とともに声が上がって、小鹿はそちらを見る。大狼がちらりとこちらを見たので、手にしていた資料を書棚に戻し、大狼に寄る。ちょうど下段を見ていたのだろう、しゃがみこみ膝上に資料を乗せていた大狼に合わせ、小鹿もしゃがみこむ。ほら、と大狼はファイルをこちらによこした。


『胸部光化症――皮膚面での光化は見られないものの、左胸部から中心部にかけてぼんやりと発光を確認。胸部X線異常なし、心電図異常なし』


 簡潔な診断結果だけが記されており、決定的なことは何一つ示されていない。ただ診断した医者の所見として、『内臓光化の可能性あり、光化症研究所への入所と精密検査を勧める』と書かれてあった。診断日は五年前、隕石が墜落してから丁度二年後である。


「基本的に、光化症外来もしくは外来が整う前の各医療機関で診断され、光化症研究所へ入所と至ったケースには、研究所での所属番号が明記され基本的なデータが追加されていく。が、このファイルにそれがないのを見るに、患者は研究所への入所はおろか、精密検査自体を断った可能性が高いな」


 大狼は言うと、ぱたん、とファイルを閉じて書棚にしまった。


「だがまあ、診察した病院は特定できた。五年前のデータだが、今までの事件と照らし合わせると生活圏が分かるかもしれない」


 念のため能力データも確認しよう、と、それから大狼は立ち上がる。能力データはこの棚の裏面、と言って歩き出したので、小鹿も同じく従った。


「結局、大狼さんは逮捕したいんですか」


 それで、小鹿は聞いてみる。車中でも話した内容だが、やはり納得できるような、できないような。簡潔に言えば大狼の目的が見えなくて、消化不良の思いを抱えていた。目的の見えないことに加担し続けるのは、小鹿としても不本意である。


「どうだろうな」


 大狼は曖昧な返事をしてから、棚のファイルを漁りはじめた。それからぽつりと、零す。


「逮捕したいというよりは……話をしてみたいと、思う」


 だから小鹿くん、君が羨ましいよ、と大狼は軽く笑った。突っ立ったままの小鹿を見つめて、「可能性のある人物と話をしたのだから」と続ける。


「……彼女がそうだとは、限りませんし」

「それもそうだな」


 小さく笑った大狼が、心底そう思っているのかどうか。小鹿には解せなくて、そのまま口を噤んだ。



 転機は研究所を出た後にやってきた。

 署へ戻るために再び小鹿の運転する車に乗り込み、数キロ走ったところだ。何を思ったのか、大狼が「そこのコンビニに停めてくれ」と停車を要求し、小鹿はそれに従った。コーヒーを買ってくる、と告げてコンビニに入っていった大狼を見送り、小鹿はさてどうしたものかと、この事件について自分の身の振り方を考えていた。


(このまま大狼さんに従って協力するべきか、否か)


 過ぎる好奇心はよくない。大狼のように、すでに監視のある状況で、それでも何かを求めるのとは違う。小鹿は完全に巻き込まれた状態であり、今ここで手を引きたいと言えば、大狼は苦笑しながらも「すまなかったな、振り回してしまったようだ」と認めてくれるだろう。逆に、これだけ小鹿を振り回してくれたのは大狼からの期待の表れだ。どうにも、小鹿のことを買い被っている節のある大狼は、何かと小鹿を構いたがったし、積極的に助言をくれた。今回もその延長線上のことで……必ずしも小鹿が付き合ってやる必要は、ない。


(でもなあ)


 大狼の様子は常と違って見えた。ずっと感じていたことで、当の本人からは軽く躱されてしまっているが、それが気にならないと言えば嘘になる。なぜこんなにも入れ込むのか……そもそも大狼の目的とは一体何なのか? 八生の件もあって、他の光犯課メンバーよりは大狼と仲の良い自覚があるだけに、真実を暴かないままでいる、というのも嫌だった。それで自分はこの先も大狼を信用できるのか? 問われて素直に頷けない。

 はあ、と、ため息交じりにハンドルに頭をつけた。その時だった。


「あ?」


 ふらり、と横から誰かが現れて、どん、と軽い音と同時に車にぶつかった。一般的な乗用車だが、ぶつかれば車体は揺らぐ。視線を外に向けると、運転席の扉より少し前あたりに、誰かがぐったり寄りかかっている。


「お、おい、大丈夫か!」


 具合の悪そうな様子に慌てて扉を開けると、誰かは胡乱気にこちらを見て――小鹿は固まった。


「あら、あなたは……」

「この間の……」


 顔面が蒼白で、今にも眠ってしまいそうなほど瞼が重たげだったが、その人は間違いなく、四日前に小鹿が話をした女性だった。先輩いわく逆ナンされた相手であり、目下のところ大狼が一番会いたがっていた人物である。

 なぜここに? と考えるよりも、その様子に小鹿は戸惑った。四日前、話をした時も病的に肌が白いと思ったが、今日は一層青白い。食事ができていないのではと疑うほど痩せ細った体躯は、力なく車に寄りかかったままで。


「すみません、すぐ、どきますから……」

「具合悪いんでしょう、無理しないで。よければ車内で少し休んでいきますか?」


 動こうとする彼女を制し、小鹿はその手を取った。申し訳なさそうに下がった眉を横目に、後部座席の扉を開ける。本当に大丈夫です、と伝えたいらしいが、どうやら本当に眠ってしまいそうな彼女の呂律はうまく回らず、言葉と裏腹にぐ、と小鹿に体重がかかる。それで、問答無用で後部座席に寝かせた。


(一見すると誘拐くさいな、これ)


 大丈夫だろうか、と、少しだけ不安に思って周囲を見渡す。目撃者は一人しかいなかった。


「見ていたぞ、小鹿くん。妙齢の女性をどうするつもりだ?」


 俺というものがありながら、と、少し茶化し交じりに大狼がやってくる。片手にビニール袋を抱えていて、中には缶コーヒーと、それからなぜか熱さましシートの箱が見えた。


「とか言って、大狼さん最初から見てたんでしょう」


 それで、小鹿は袋の中身を示してみせる。大狼はひょいと肩をすくめると、後部座席に横たわる女性の額に手を当てた。


「あんまりフラフラだったので、熱があるのではと思ったが……杞憂だったようだな」


 この熱さましシートは小鹿くんに進呈しよう、と、大狼は缶コーヒーを除いた袋を押し付ける。思わず受け取ってから、袋の中に小鹿が愛飲しているカフェオレが入っているのを見つけて、ありがたく頂戴する。


「熟睡しているな」


 大狼はポツリと呟くと、数瞬何かを考え込んで、それから無言で助手席に座った。


「小鹿くん、車を出してくれたまえ。署ではなく、俺の家に」

「……? 大狼さんの自宅、ですか?」


 まさか大狼に限ってよからぬことはないだろうが、妙に思って問い返す。大狼は頷くと、早く、と小鹿を急かした。慌てて運転席に乗り込む。


「どうして、大狼さんの家に?」

「署だと不都合があるからだよ、小鹿くん。これは、代償睡眠だ」


 小鹿の問いかけに大狼はそれだけを示してくれた。無言で車を発進させる。


(代償睡眠)


 つまり、能力を使用した代償での、眠り。もし彼女が大狼の推理通り、変死体の殺人犯なのだとしたら。


(また、誰かが死んだのか)


 少なくともこの近辺で、誰かが死んでいる。あるいは、死の淵にいるのだと思うと肝が冷えた。大狼はそれでも、被害者探しではなく、犯人と思しき女性のほうを優先させた。


(助かる見込みがないという考えなのか、それとも――)


 不意に先ほど、車内で聞いた大狼の声が蘇る。俺だって正義の味方じゃない。そりゃそうだ、小鹿だって共感する。それでも納得できなくて、消化不良な思いが積もる。

 大狼は何も言わなかった。後部座席の女性は、まるで眠り姫みたいに、目覚めることはなかった。



 大狼の自宅は築十年の一戸建てである。その若さで戸建てに一人住まい、とは、何とも贅沢に思えるが、家自体は彼の両親の遺産と聞いた。大狼と八生の両親は、ちょうど五年前に亡くなったと聞く。

 その家は、大狼が一人で住むには少しばかり大きすぎて、どこか持て余しているように感じられた。時折、大狼は光犯課の連中を数名連れ込み、ひっそりと飲み会をすることがあったが、どれほど人が増えても、にぎやかになっても、大狼とこの家はうまくマッチしていないように思えた。

 今は車のない駐車場に車を止める。昔は大狼の両親の車があったらしいが、亡くなった後に処分したと聞いた。確かに大狼はペーパードライバーで普段運転をしない。車などあっても維持費がかかるばかりで、処分してしまったほうが楽だったのだろう。

 大狼に促されるまま、女性を背負い家の中に入る。薄暗いリビングを通って、二階へ通される。今は亡き両親の部屋を大狼は客間に改装していて、小鹿もまた、泊まったことのある部屋だった。


「寝かせておいてくれ」


 声を潜めることもせず、大狼は指示を出す。小鹿は言われたとおりにベッドに女性を横たえた。


「いいんですか、こんな、誘拐みたいな」

「構わん。第一、家へ送り届けたくても身元が何もわからないだろう。恐らく彼女は一定時間が過ぎるまで絶対に目を覚まさない。見た感じ仮死状態に陥っているような……肉体時間が停止しているといったほうが正しいか。とにかく特殊な状態だ。医療機関に連れて行くわけにもいかんだろう」


 もっともらしい言い訳を並べて、大狼は一度部屋から出て行った。

 小鹿はどうしたものかとうろたえる。眠っている女性と二人きり、しかも相手は、不可解な事件の殺人犯かもしれぬとあっては、落ち着いてなどいられなかった。大体にして、まず大狼の自宅へ連れてくるのがおかしいのだ。普段であれば間違いなく、大狼の根城である研究室へ連れ込むだろうに。


(なんだって、自宅なんかに)


 考えているうち、大狼がカートを引いて戻ってきた。およそ一般的な家庭にあるまじき、医療用機器を運搬するためのカートである。事実カートの上には何やらごちゃごちゃと機械が乗っていた。小鹿の素人目にはそれが何の機械か、一見して判断できないが、モニターがあってコードがあってパットがあって、となると、おそらく心電図の機械だろう。


「見たければ見ていてもいいが、見たくなければ出て行ってもいいぞ」


 大狼はふと、そんな風に前置いてから、小鹿をちらりと見やる。何を問われたのか一瞬理解できず、答えぬ小鹿をそのままに、大狼が女性の服に手をかけたあたりで気が付いた。

 心電図の機械、とくれば、もちろん心電図検査をするに決まっているのに。


「って、ちょ、ちょっとまって大狼さんそれはさすがに」

「だから出て行ってよいと言ったのに」


 呆れた声を上げながら、大狼の手は止まらない。女性の来ていたカーディガンの前を開け、ブラウスを緩めていく。手際よく、それでいて下心の一切ない手つきで心電図をセットし終えると、機械に向き直る。小鹿が騒いだので、大狼は数瞬考えたのち、邪魔にならないようにそっと毛布を掛けた。


「えと、なんでこんな……」

「小鹿くんは医療知識に疎かったかな。見たまえ、今の彼女の状態を」


 言われて、モニターの中を覗き込む。通常拍動に合わせて振れるはずのグラフが、一向に動かず平行を保っていた。言われずとも鼓動をしていないのだとわかる。鼓動をしていない――心臓は、止まっている。

 で、だ、と、大狼は再び女性に向き直った。そっと、胸元の毛布をどける。思わず覗き見た小鹿の目にも、その胸部がぼんやり輝いているのが見えた。ちょうど心臓があるだろう部位、皮膚の内側から、何かが光っている。


「……今まで見たことのない光化の仕方です」

「だろうな、俺も初めて見た」


 大狼は言うと、毛布を元に戻した。毛布の厚い生地に覆われてしまえば、光は外まで漏れてこない。なるほど、カーディガンを一枚上に羽織るくらいで防げたはずである。


「光化症診断を下した医師の判断はおおむね正しいだろう。光っている位置的にも、光化部位が心臓である可能性は非常に高い。輝きの様子から見て、目測中度から重度の光化症、といったところか」

「中度の可能性があるんですか?」

「内臓光化は俺も初めて見たからな。どれだけの輝きで外に漏れてくるのかが分からない。彼女はやせ形だから、余分な脂肪がなく、その分素直に光が見えている可能性も否めない。とはいえ、いかんせん内臓部だ、解剖でもさせてもらえれば詳細な診断が出せるだろうが、現状それは難しいだろう」


 そりゃそうですよ、とは口に出さず、小鹿は微妙な表情を浮かべた。

 それで、この女性をこの部屋に隔離して、大狼は何を企んでいるのか。


「何を企んでいるのか? という顔をしているな」


 瞬間大狼が苦笑する。小さく肩をすくめて、「何も企んではいないさ」と続けた。


「でも、それならなおのこと、研究室に連れて行ったほうが、設備も何も整ってたんじゃないですか」


 戸惑いつつも問いかけると、大狼は「まあ、そうだろうな」と頷く。


「そうだろうなって……」

「だが同時に、研究室に入れたら最後、俺は警視庁所属の研究者として彼女と対峙せねばならなかっただろう」


 大狼はきっぱりと言い切った。なぜそこまでして? と疑問に思う小鹿を横に、ふるり、と大狼の頭がふれる。


「どのみち、現時点で彼女はまだ容疑者でもなんでもない。ただの人命救助だ。光化症能力による代償で、意識を失った彼女を保護した……それだけのことに、研究室を使う必要はない。そうだろう?」


 まるで言い聞かせるように、大狼がこちらを向く。

 小鹿は頷くことも首を振ることもできず、何かを問おうと口を開き――結局、何も問えずに閉口した。



 それから、他に何か身体的な異常が起きてないか検査をする、という大狼を残して、小鹿は一人署へ戻ることにした。署に戻って、次の変死体が発見されているかどうか確認する必要があったし、それに伴い光犯課への協力要請が下りていないか、見る必要があった。大狼はそう告げた小鹿に特に反論もせず頷き、「ならばそちらは任せよう」と一言だけ。女性を保護したことについて、公言してよいとも、隠してくれとも言わなかった。

 車中で一人考える。大狼は何故そこまで、彼女の能力にこだわっているのか。


(強制的に成長を促進させる能力……憶測でしかないが、本当に彼女がそのような能力を持っているのだとしたら、大狼さんにどんなメリットがあるっていうんだ)


 考えられる可能性は、八生のこと。大狼と八生の間にそびえる壁は高く、脱出不可能な迷宮のようだ。何か直接的な心情を示す言葉を一言、伝えればすぐに終わるはずなのに、伝えようとした言葉は迷宮の中に飲み込まれ、相手に届いたかどうかすらわからない。ややこしい兄妹だな、とは付き合い始めてからずっと思っていることだったが、今になってその異質さが浮き彫りになったような気がした。


(大狼さんが光化症研究を始めたのは、八生さんが光化症を発症したからだと、聞いた……)


 大狼の経歴を、小鹿はそれほど詳しく知らない。光化症研究の第一人者、というからには、七年前の最初期から研究を始めているのは確かだろう。七年前といえば、大狼は二十代前半だったと思うのだが、当時から研究者として名を馳せていた、らしい。

 らしいというのも、その当時のことを大狼自身詳しく話したがらず、知っている人間と知り合う機会にたまたま恵まれなかったためだ。ただ大狼の研究書や学術書が何冊も出回っているのを見るに、若くして天才ともてはやされた科学者だったことは間違いないだろう。

 八生の光化症は、自分のそれと比べてもかなり特殊だ。

 光線を浴びた直後には発症していたと聞く。その時から彼女の両足は光り輝いて、彼女は一番初めから重度の光化症患者だった。


(光化症の深度は、通常わずかなスパンでも軽度から始まり、必ず中度を経て重度に至る)


 最初から重度の光化症、というのは存在しないはずであり、誰でも最初は軽度のはずだった。事実あの当時、光化症という診断名が使われるようになり、改めて深度計測をされた際、時折中度の者はいたけれど、重度の患者は全くいなかったのである。

 だというのに、八生は初めから重度の光化症患者だった。光化部位の光り方が明らかに違う。光化範囲が広すぎて、両足すべてを覆っているのを見たとき、彼女の足は黄金の足なのだと思わざるを得なかった。実際、本当に光り輝いていたのである。両足が全体、いっそ黄金の足よりも輝いていた。

 だからか、理由はわからないが。八生の能力発現は早かったと聞く。継続的な状態異常を代償とする能力は、八生の目から色彩を奪い、代わりに八生の足元から色鮮やかな植物を生んだ。八生を光化症研究所へ入所させるとき、その両足は包帯で何重にも巻かれ、その包帯の上から生い茂る緑が伸び生えてくるので、とうとう根の張らない鉄の檻に隔離して連れ込んだのだとは、当の八生から聞いた話である。


(もし、大狼さんが何か目的をもって光化症研究をしているのだとすれば)


 それは間違いなく八生のためだろうと小鹿は断言できた。強すぎる能力のために、八生はひどい迫害を受けていただろうとは簡単に想像できた。小鹿とて、自分の左掌のせいで、平穏無事な生活をしてきたとは言えないのだから。


「考えても意味ない、か……」


 結局のところ、すべては小鹿の推測でしかなく、大狼の真実は大狼しか知りえない。それはきっと、渦中にいるだろう八生でさえ知らないもののはずなのだ。


(明日、どうなったか聞いてみよう。この分だとおそらく、本当に光犯課に案件が回ってきているはずだろうし……俺が表だって動けるようになれば、大狼さんも少しは何か、目的を、教えてくれるかもしれない)


 ハンドルを握る手に力を込める。車はまっすぐと、警視庁へ戻っていった。



 結論から言えば、突然老化し衰弱死する、という件の事件は、光犯課預かりとなりあわただしく捜査は始まっていた。連続殺人事件、ともいえる事件について、大狼の推測とほぼ寸分違わぬ推理が展開されて、担当となった刑事はあちらこちらと情報を求めに奔走している。


「はずなんですけど」


 小鹿はふてくされて、頬をぷくりと膨らませた。三十近い男がやっても全く可愛くないしぐさであったが、大狼は呆れたように肩をすくめると、「ふてくされるな」と軽く笑った。

 大狼の研究室は、今日はいつもより資料であふれていた。ソファテーブルの上にまで積み上がった書類は、変死体事件のものだ。先ほど担当となった先輩刑事が重そうに資料を運んでいるのを見送ったばかりで、小鹿はその時からずっと、頬を膨らませ続けている。


「ふてくされだってしますよ! 俺担当になると思ってたのに。全然かすりもしねぇの」

「まあ、君の能力は短期記憶は得意だが、長期記憶は体に障るからな……いよいよ長期になってきた今回の件から外されるのは、わからなくもない」

「別に、見れないわけじゃないのに」

「君が見れる、見れないの問題ではないのだよ、小鹿くん」


 大狼はなだめるように苦笑すると、小鹿が見ても問題のない資料と、見てはいけない資料とに区分けしていく。大狼は研究室の人間であるから、どんな案件だって探ろうと思えば探れるし、堂々と調査に加わることができる。が、小鹿はそうではない。通常業務をこなす人員と、特殊な事件を追うチームとに編成されてしまった以上、自分の管轄外の任務に首を突っ込むわけにはいかなかった。変死体事件に人が割かれてしまった結果、通常業務でさえ忙しくなっているのは事実だ。

 小鹿の持つ、記憶を読み取る能力は、確かに短期記憶のほうが得意だった。触れている間だけ記憶を読み取る、とは、触れている間だけ、直前の記憶からさかのぼって読み取ることができる、という意味であり、古い記憶を探ろうとすれば、それだけ長く触れている必要があった。

 それだけならば問題はない。触れる環境さえあれば小鹿の能力は有力だった。問題は、代償のほうである。


「時間に摂取量が比例するのだ。君一人の問題ではないし、代償摂取中に食べ物がなくなってしまった場合、苦しむのは君だ」


 触れている時間が長くなれば長くなるほど、その後やってくる代償の量も多くなる。この間は九十キロで済んだものが、象もかくや、という量になれば、いくら小鹿用に大きな食糧庫を持つ食堂でさえ、対応しきれない。第一小鹿は象ではないのだ、残飯を食べるわけにもいかないし、それだけの食糧を調達するのにも、調理するのにも時間がかかる。

 大狼の言うことはもっともで、小鹿とて理解している。だがなんとなく腑に落ちなくて、腕を組んだままソファに沈み込んだ。


「……それで、大狼さんのほうは、どうだったんです」


 矛先を大狼へ向けた。変死体事件、についての問答は踏み込めないかもしれないが、大狼のもとに保護した女性、の話ならば問題ない。大狼は肩を竦めると「逃げられてしまったよ」と端的に答えをくれた。


「は?」

「いや、言葉の通りだ。彼女が眠っている間に、一通り身体検査はさせてもらったからね、データを得ることはできたが、起きた彼女と話をすることはできなんだ」

「身元とか……」


 大狼は首を振る。彼女の持ち物に身元を示すものがなかったことは、大狼の家に運び込んで最初に確認したことである。だからこそ、彼女が目覚めるのを待っていたのだが。

 大狼のらしくない失敗に、小鹿はじっとその眼を見つめる。大きな釣り目はぱちりと普段と変わらぬ瞬きをして、小鹿を見つめ返した。


「眠気冷ましのコーヒーを淹れようと、一階に下りたうちにね。目を覚まして、逃げてしまったようだ。家中探し回ったんだがどこにもいないし、目覚めにしてはずいぶんしっかり動けるようだ」

「珍しいですね」


 それで、思わず小鹿は問いかける。大狼はことり、と首を傾げたが、自分の失敗についてだと気が付いたのだろう、苦笑する。


「そうでもないさ。俺も人並みに失敗をするし、今回に限って言えば……むしろ逃げてくれたほうが都合がよかった、と言わざるを得ないが」


 それから、ちらり、と大狼の視線が資料の山に向いたので、小鹿は口を閉ざした。確かに、大狼のもとに事件の協力要請が来ている以上、(小鹿と大狼の中では)有力な参考人である彼女の存在は大きかった。何の疑いも持たれず彼女の情報を受け取ってくれればよいが、なぜそんなデータを持っているのか、匿っているのではないか、と、あらぬ疑いをかけられるのは御免だった。


「とにかく、ようやく堂々と捜査できるんだ。小鹿くんが担当から外れたのは痛いが、君は君で、しっかりと職務を全うしたまえ」

「……腑に落ちないんですけど」

「仕方ないだろう」


 何度目かになるため息をついて、小鹿は立ち上がる。確かにこの場所に居続けていても進展はしないし、今後、表だって協力できることもないだろう。大狼の言うとおり、小鹿は自分の職務に戻らねばならない。


「ちゃんと解決したら、俺にもいろいろ、教えてくださいよ」


 その代わり、ねだるように言う。大狼はわかった、わかった、と適当な様子で笑い返したが、小鹿はしっかり頷き返す。


(事件のことだけじゃなくって……大狼さんの目的、とやらも)


 言外に含めた意味をきっと大狼は気づかない。小鹿は部屋を後にした。

 大狼の目的を知ったところで、小鹿に何ができるとも思っていない。そこまで深く、大狼に入れ込んでいるわけではなかったはずなのに。


(乗りかかった船なのに、俺だけ何も知らず、動かされるのは、いやだ)


 今回のように、好奇心、なんて曖昧な言葉で本質を覆い隠して、使われるだけなんて御免だった。たとえそれが小鹿のためを思ってのことだったとしても、小鹿は納得がいかない。それはきっと八生も同じで、だから八生は、大狼のことを「大狼さん」と白々しく呼ぶのだ。


(俺だって、力になれるはず、なんだ)


 大狼がどう思うのか知らないけれど。もう少しこちらを向いてくれてもいいのにと、思う。

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