3.八生
七年前に墜落した隕石の影響で、日本全土でぽつり、ぽつりと現れ始めた「光化症」という病気。正確には隕石墜落に伴う眩い光線が原因であり、光線を浴びた人間――というと日本国民のほぼ全員、日本周辺の国々にも僅かながら影響が見られた――は発症のリスクを負っている。リスクを負っているだけで、実際に発症するか否かは個々人の運次第である。
「光化症」とは、光線の影響を強く受けた部位が暗闇で光る、言ってしまえばそれだけの病気だ。ただ付随して解明不能な「特殊能力」を得る患者がおり、それは例えば、触れたものの記憶を読み取ってしまったり、見つめたものの思考を読み取ってしまったり、と、そのような能力である。
八生は、三段階に分類される光化症の中で、最も重症とされる「重度光化症患者」であった。彼女の両足は暗闇で煌々と光輝き、それは日中に見てもぼんやり光って見えるくらいだ。
また彼女の両足が地面に触れると、布越しだろうが、靴越しだろうが、そこからにょきにょきと美しい植物が生え伸びた。触れている限り無限に成長し続け、大輪を咲かせ、両足が離れるときっかり三分で枯れてしまう。生え伸びる植物は地球上に存在しえないものだったが、研究しても研究しても、それが本質的に「何」であるのか、答えは出ていない。
「八生さん、久しぶり」
声をかけると八生はそろりとこちらを向く。薄く青色の乗ったサングラスの奥に佇む、八生の綺麗な瞳を小鹿は見つめた。
車いすに乗った八生との待ち合わせは、決まって施設近くの公園だった。大きな公園には鴨のいる池があって、池を眺めるように幾つかベンチが設置されている。その内、桜の木の傍の影ができるベンチに八生はいた。といっても、車いすならばベンチに座る必要がないので、近くの木陰で休んでいると言った方が正しいかもしれない。
「小鹿さん、お久しぶりです」
小鹿の存在を認めると、八生はふふ、と小さく笑って手を振った。相変わらず線が細い。立ち上がると、彼女の兄の大狼と同じくらいの体格と聞いたが、車いすの印象もあってか八生の方がもっともっと細く見えた。最も男と女だ、骨格に差があって当然だろうし、本当に兄の大狼と同じ体格なら、それは大狼の方に問題がある。
「暑くない?」
声をかけると八生はふるりと首を振った。はにかんだ笑みはいつも通り儚い。小鹿はそれに気づかなかったふりをして、付き添っていた施設職員に会釈をした。
「いつもすんません」
「いえ。約束の時間にまたお迎えに参りますので」
八生付きの職員もまた、小鹿に会釈を返すと、くるりと背を向けて去ってしまう。彼女の背中が遠く見えなくなるまで見守ってから、小鹿は車いすの後ろに回った。
「ごめんなさいね、歩けないわけではないのだけれど」
「いや、歩けないだろ、それじゃ。無理しなくていいよ」
夏になろうかという季節だったが、八生の膝の上には大きな膝掛がかかっている。足先まですっぽり覆い隠してしまうそれは、文字通り八生の足を隠しており、何かの拍子に落ちてしまわぬよう、端の方は車いすにしっかり固定されていた。膝掛の下で、八生の足がどのような状態なのか。まじまじと見たわけではないものの、小鹿は知識として知っていた。彼女の強すぎる光化症が周囲に影響を与えぬよう、植物の生えぬ鋼鉄の鎧でおおわれているのである。分厚いその鎧は見た目からして厳ついが、実際相当の重量があるらしく、女性はおろか、男性だってまともに歩ける重さではない。三日に一度、足の状態を見るのと健康を保つために取り外すらしいが、大の男四人がかりでゆっくりゆっくり取り外すというのだから、彼女が普段車いすで移動するのも仕方のない事だった。鎧の重量に耐えられるよう、車いすは特別仕様である。
「今日はどこに行きたい?」
「ええと、どこでも、小鹿さんの行きたいところでいいのですけれど」
行きたいところねえ、と小鹿は顔を顰めた。八生が施設の外に出られる時間は限られていて、具体的に言うと月に一度、「外出の日」に出られるだけだ。その日だけは、朝十時から十七時までの間、八生は施設職員の目を離れ自由に行動することができた。
大狼の紹介で小鹿が八生と知り合ってから、八生の「外出の日」に付き合うよう頼まれたのはすぐのことだった。聞けば、それまでは「外出の日」なのにもかかわらず、施設内の自分の部屋で読書をしたり、外の景色を眺めるだけで終わってしまったのだという。
「せっかく外に出られる機会だというのに、あの子はどうにも内に籠る質があるのでな。小鹿くんに連れ出してほしいというわけだ」
なぜ自分なのか? と問うた小鹿に大狼は理由を答えず、そう言っただけだった。断る理由もなかったので、以来「外出の日」は近くの公園で待ち合わせをし、職員が迎えに来る十六時半までの間、小鹿は八生と二人で過ごしている。
「ええと、たまには遊園地とか、そういう騒がしい所に行ってみようか」
「騒がしい所、ですか」
提案すると、八生はひょいと上を向いて小鹿と視線を合わせた。サングラスの隙間から、八生の大きな瞳が怪訝そうに小鹿を見ている。小鹿が人混みを嫌うことを八生は知っているのだ。人混みを嫌うのは八生も同様だったけれど。
「……本当に珍しいですね」
どうかしたんですか? と、八生の声が問う。小鹿は「なにも」と短く答えると、「たまにはデートでもどうかと思って」と適当な答えを述べた。
施設から借り出した介護用の車で遊園地へ向かう。一番近い遊園地は電車で行っても三駅程度の所にあったが、八生の移動を考えると電車は得策ではなかった。そのため、「外出の日」はいつも前もって車を借りている。
車内での会話はなかった。八生は「外出の日」をいつも楽しみにしていると告げるが、本心からそう思っているのかどうか、小鹿にはわからない。ただ通り過ぎていく街並みをぼんやりと眺めていて、その瞳が時折眩しそうに細まる度、「帽子取ろうか?」と小鹿は声をかけた。
「遊園地なんて随分久しぶりです」
八生が声を上げたのは、市内の小さなテーマパークへ到着してすぐ、小鹿が車いすを降ろし終えた時だった。広い駐車場には数台車が停まっていたが、やはり平日水曜日、車を使ってまで来るような――つまりは家族連れ――は少ないらしく、やや閑散とした印象を受ける。
「俺も久しぶり」
「最後に来たのはどれくらい前?」
「そうだな、高一の夏だから、随分前」
「それはそれは」
ふふ、と八生が小さく笑った。ようやく見せた楽しげな様子に、小鹿はほっと息を吐く。八生の抱える闇がどれほど色濃いものか小鹿には見当もつかないが、大狼とよく似た顔が変わらないのは見ていて何とも言えない気持ちになった。兄の大狼は、八生と違ってコロコロ表情を変える。
「八生さんは最後に来たのいつくらい?」
「そうですね、少なくても七年以上前ですね」
「そりゃそうか」
言われて肩を竦めた。八生の能力は光化症が発症してすぐに現れたと大狼から聞いていた。
チケットを買ってゲートをくぐる。駐車場で感じた通り、平日のパーク内は随分と空いていた。混雑していないならばもちろんその方がありがたい。小鹿もまた手袋をしていたが、うっかり誰かの記憶を読んでしまってはたまらなかった。八生も然りである。
「八生さん、何観たい?」
「そうですね、小鹿さんが観たいものから」
問えば、八生はそう答える。いつもそうだった。二者択一で提案しても、大抵「どちらも好きで決められませんから、小鹿さんが決めてくださいな」と躱されてしまう。その度、小鹿は悩みながらも答えを提示してしまうのだが、八生のそれは「決めたくない」というよりは「決めるのを恐れている」ようでもあった。
「……とりあえず、ぐるりと回ってみようか」
気になるものがあったら言って、と、小鹿は車いすを進める。きっと八生から「止まってください」の声は上がらないだろうと知りながら。
パークの入り口すぐにあるウェルカム広場を抜けると、土産物を売る店の通りを抜けて開けた道に出る。分かれ道を適当に右へ左へと選択しながら小鹿は進んでいった。
気になるもの、といっても、八生の状態では乗れるアトラクションと乗れないアトラクションとあるだろう。絶叫系などはまず乗れない。一時的に乗り物を止めてもらって、八生をシートへ移すことができれば不可能ではないだろうが、そもそも小鹿一人で八生を動かすことができなかった。
パークの奥まで進んでいくと、ショーハウスのような建物を見つけた。スタッフに話を聞くと、どうやらマスコットキャラクターたちが歌って踊るショーを見せてくれるらしい。丁度開演まであと十分程だと聞いたので、そのショーを観ることにした。
「やっぱり空いていますね」
丁度良かったです、と、八生が言う。車いすに気づいたスタッフに誘導されて、席は一階。指定されたスペースに車いすを固定して、すぐ隣の席に小鹿も座った。
ただでさえ人の少ない遊園地、加えて通常であれば家族連れで混むだろうショーハウスだ。ぐるりと周囲を見回しても観客はほとんどおらず、自分たちを含めて二、三組。少し休憩したい、あるいはゆっくり過ごしたいのだろうカップルが座っているくらいだった。
「貸切みたい」
「確かに」
閑散としていても、建物は立派な劇場である。人がいないというのは不思議な心地がして、殆ど貸切のような状態は少しだけ面白くあった。
開演前のブザーが鳴り響く。暗くなった劇場でポッと照らし出された舞台に、観客の入りなど関係なく、正しくショーが始まるのだと認識した。軽快な音楽が流れ始めたかと思うと、袖からひょこりと着ぐるみの大きな頭がこちらをのぞいた。
「かわいい」
思わず、と言った様子で八生が声を上げた。ひっそりとした声で、大きな音響のおかげか声は小鹿にようやく届いたくらい。「かわいい」という発言が何とも新鮮に思えて、小鹿はそろりと八生の横顔を盗み見る。
(笑ってる)
ちゃんと笑っている、表情が珍しかった。
薄い青色のサングラスの向こうで、きらきら瞳を輝かせてステージ上を見つめていた。ステージの方を確認すればいつの間にか緞帳も上がり、キャラクターが三人ほどに増えている。音楽のリズムに合わせて、その大きな体でどうやって動いているのか不思議なくらいキレの良いダンスをしてみせる。右へステップ、ジャンプ、ジャンプ、左へステップ、くるりと回転。
キャラクターは子供向けのずんぐりむっくりしたものなのに、舞台構成やダンス、歌は、なかなか大人も楽しめる。八生の体が少しだけ前のめりになっているのを見つけて、不意に小鹿は何とも言えない気持ちを抱く。
(よかった、ちゃんと楽しんでる)
今日は楽しんでいる、良かった、と胸をなでおろす。決定権を放棄した八生は、いつだって起こる全てを受け入れるのみで、それがつまらなくても文句を言わない。けれど長い付き合いになってくれば、鈍感な小鹿でも何を楽しんでいて何に飽きているのかわからないはずがなく、八生との「外出の日」は緊張の連続だった。
(普段死んだような目をしてるけど、八生さんだってちゃんと生きた目ができるじゃねえか)
なんて、口に出しはしないけれど。
ショーが終わると力強く八生が拍手をする。ちらほら、共に観ていただろう疎らな観客も同様に感極まった様子で拍手をしていた。絶対数は少ないのに、感覚で言えば大喝采だ。小鹿もまた負けじと手を叩いた。
「面白かった?」
劇場を出て車いすを動かす。丁度良い頃合いのため昼食を食べようと、車いすの入れる広いレストランを目指していた。
「面白かったです。すごく。久しぶりにショーなんて見たから、とても楽しかった」
問えば八生はくすくす笑って頷いた。それから、両手を使って「この振付の所が可愛くて」と再現して見せる。
(子どもに戻ったみてぇな)
それを子供じみているとも、不快だとも思わない。小鹿はうん、と優しく笑って同意した。
昼食はイタリアンのレストランで、天気が良いのでテラス席を陣取った。店内に入ると車いすの移動が難しそうだった、というのもある。
何を食べたいか聞けば、珍しく八生が「パスタにしてください」と言ったので、八生の注文はボンゴレビアンコにした。メニューページに大きく写真が載っていて、オススメと印字されていた。けれども気に入らないと困るので、小鹿の注文はたらこスパゲティにしておく。女性の好きそうな、もう少し洒落たパスタにしたかったが、単に小鹿の食べたい気分だった、というのもある。
八生と向かい合って座るのは初めてのような気がした。「外出の日」でどこかへ出かけたとしても、大抵隣に座ることが多く、もっと言えば昼食をとらないことも多いため、正面に八生の顔があるのはとても新鮮だった。
「私の顔何かついてます?」
「ああ、いや、こうやって座るのは珍しいなと思って」
まじまじと見つめていると、耐えかねた様に八生が笑って両掌で頬を包んだ。小鹿は首を振りながら、「いつも隣に座ってるでしょ」と答えを示す。
「確かに、小鹿さん、いつも私の面倒を見て下さってますもんね」
八生は一つ頷くと、いつもすみません、と眉尻を下げて謝罪した。心底申し訳なさそうな声色に慌てて、「好きでやってるんだし」「気にするな」と慌てる。口に出してから、小鹿は小さく首を傾げた。
(それじゃまるで、俺が八生さんのことを真実好きみたいじゃないか)
それはそれで困ると思ったが、八生はとりわけ何も気づかなかったようだった。にこにことしたままで、「いつも来てくださるのが小鹿さんで良かったです」なんて言っている。
「大狼さんじゃだめなのか?」
「大狼さんは……ああ見えてお忙しいでしょう。研究が上手く進んでいないようですし、毎日見ている顔ですから」
大狼、の名前を出すと途端に曇りだした八生の顔に、そんなもんかと小鹿は適当に頷いた。大狼と八生の間には、小鹿の理解し得ぬ大きな溝が存在している。そのため、八生は大狼のことを「兄」とは呼ばず、自らも大狼姓を名乗らない。実兄を「大狼さん」なんて苗字で呼ぶのは、きっと八生くらいなものだろうと思っている。
パスタが運ばれてくると、八生は特に文句も出さずにボンゴレビアンコを受け取った。ひとつひとつ、丁寧にあさりの殻を退けながら、「施設の食事を食べたことがありますか?」なんて問いかけられる。
「いいや」
「あんまり美味しくないんです。何故かしらと思って調理場へ聞いてみたことがあるのですが、被験者の健康状態を常に管理しているから、味付けは極端に薄く、足りていない栄養素を補うためにその時その時で食材を選んでいるんですって」
「人の手で選んでるのか?」
「いいえ、毎朝行う朝検診のデータをもとに、コンピュータが自動算出して、組み合わせとメニューを提示してくれるそうです」
時には作り方だって、と八生は言った。
「コンピュータの進歩はすごいですね。魔法みたい。私が言うのもおかしな話かもしれませんが」
ふふ、と笑った顔は先ほどまでの楽しげな様子が消えていた。何がそんなに急に落ち込ませてしまったのか。せめて頭くらい撫でてやろうと、伸ばしかけた左手をしまう。
(触れない)
例え布越しだとしても、強い光化症患者に同じ光化症患者が触れた時の影響を、小鹿は正確に覚えていなかった。うっすら記憶のどこかで、大狼が「共鳴することがある」と話してくれた言葉を見つける。共鳴し合った光化部位が互いに悪影響を及ぼし、深度があがる可能性が高い、と。
(第一、八生さんの記憶なんか覗きたくもない)
小鹿が自身の能力で読み取れる記憶はせいぜい一日前の記憶である。小鹿の左手は触れている時間が長ければ長いほど、読み取れる記憶の量が増えていく。その代わり代償が大きくなっていくため、あまり長時間記憶を読み取りたくはないのだけれど。
ふと考える。八生が施設に入る前、彼女はどんな人間で、どんな風に過ごしていたのか、なんて。
「小鹿さん?」
ぼうっとしたまま手が止まっていたらしい。皿の半分近くを食べ終えた八生が、未だ殆ど手つかずのたらこスパゲティを見て怪訝そうに首を傾げた。小鹿は「なんでもない」と首を振ると、たらこスパゲティに向き直る。ピンク色の粒、一つ一つが記憶の欠片のように思えて、眩暈に似たふらつきを覚える。
(知りたくもない)
八生が小さく笑った。ごめんなさいね、と、それから、
「なんで謝るんだ?」
「いえ、小鹿さん、私といるといつも眉間に皺を寄せていますから」
きっとつまらないんでしょう、と八生は笑う。いつものように楽しくなんかない笑みで、困ったように、曇りがちに。小鹿は苛立って「そんなことない」と否定した。些か早口で、強い口調に自分でも驚く。八生の目が一回り大きくなったようだった。
小鹿は八生の裸眼を見たことがない。見据える顔はいつだって薄い青のサングラスがかかっており、その瞳が本当は何色なのかいつも聞きそびれていた。ただサングラスの理由だけは知っていた。色の見えない八生のために、白が眩しすぎないよう光を抑えるためのものだ。色、という余計な情報が見えないのだから、きっと澄んだガラス玉のような瞳をしているのだろう、と勝手に推測をする。大狼は八生の瞳の色を知っているのだろうか。
(当然か、兄妹なんだから)
横に並ぶと双子のようにも見える、とは誰が言った言葉だったか。思い出せずに首を振った。他人の記憶はいつまでもいつまでも鮮明に残るのに、どうしてか自分の記憶ははっきりしない。こんな力無意味なばかりだった。
「……美味しいか?」
「ええ、とても」
問えば八生は頷いた。丁寧に少量のパスタを一口ずつ。確かに美味しそうに食べる様子を小鹿はじっと見つめていた。不思議と自分の腹は減らなかったが、食べぬわけにもいかず適当にかっ込んだ。たらこの味に顔を顰める。
「たまにはいいですね」
八生が呟くように言う。頷くことも首を振ることも出来なくて、小鹿は蚊の鳴くような声で聴いた。
「八生さん、楽しいか?」
返事はなく、八生もまた、頷くことも、首を振ることもしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます