2.小鹿
部屋に入ると、黙したままの容疑者が浅く椅子に座りこみ、忙しなく視線をきょろり、きょろり、動かしていた。机に乗ったライトのスイッチを押すでもなくいじりながら、担当刑事が苛々と声をかける。昨日の夜何をやっていたのか、執拗に問う声に容疑者は黙したまま。
刑事が小鹿の存在に気が付いたのは、視線をあちらこちらへ向ける容疑者と小鹿の視線がぱちりと合ってしまったからだった。一瞬の視線の交わり、から生まれた容疑者の戸惑いを刑事は見逃さず、それでこちらの存在に気が付く。小鹿からしてみれば、呼ばれてきたのはこちらの方だから、「気が付く」ということ自体に多少腹が立っていた。
「小鹿か。やるならさっさとやってくれ。さっきからこんな調子なんだ」
刑事が言いながら席を立つ。古いパイプ椅子はぎしぎしと音を立てて、狭い室内でよく響いた。
小鹿が一歩、近づくと、容疑者は窺うようにこちらを見上げる。小鹿の身長が平均よりも随分高いというのもあるだろう。細身だが、小鹿が立つと圧迫感がある。見下ろしたままの小鹿が何も言わないので、容疑者の男は「なんだよ」と震える声で問うた。
「いや、ちょっと、気持ち悪かったら悪いな」
別段、断りを入れる必要もないのだけれど。何となく小鹿はそう声をかけて、左手を覆っていた手袋をとる。薄い黒の手袋はそのままジャケットのポケットに突っ込んで、今にも逃げ出しそうな男の頭をがしりと掴んだ。
今は昼だから、左掌は光っていない。室内の明かりがあるというのも幸いだろう。それでも、ぼんやりと何か瞬いているような雰囲気はあって、刑事の視線が小鹿の左手に集まったのを感じた。どうにも、この瞬間は慣れない。
小鹿の掌が男の頭を掴んでいたのは、きっかり三分の間だった。ストップウォッチやタイマーを使わずとも、慣れてしまった行為に小鹿の体内時計は正確である。
何も言われず頭を掴まれ続ける、という奇妙な体験をした容疑者が、目を白黒させながら小鹿を見上げる中、小鹿はそのまま踵を返す。外した手袋を直して、担当刑事に軽く会釈をした。
「な、何なんだよお前っ!」
その様子は、確かに一般人――この場合小鹿の事を知らない、という意味だが――からしてみれば奇妙極まりなかっただろう。もっと言えば不気味だ。扉を開けて出る瞬間、容疑者の声が背中に当たる。小鹿は軽く振り向いて、何か言おうと口を開いて、そのまま。
何かを答えるよりも早く、刑事が男に向き直り「あいつのことは気にせんでいいから、お前はさっさと真実を吐け」と、すっかり取調べモードに戻っている。小鹿の視線は再び男を捉えたが、それきり。
部屋を出る。ぐう、と盛大に腹の音が鳴って、ぐらりと体が揺れるのを感じた。これさえなければ便利なんだけど、とは口中で呟いて、待機していた先輩刑事からリンゴを一つ受け取った。
基本能力は高く、何でもそつなくこなす反面、自己表現能力に著しく欠け、端的に言えばコミュニケーション能力がない。
思考速度が速いのだろう、会話をしていると突然脈略のない話をしてしまうことがある。が、それは小鹿の中では筋の通った先回りの結論でしかなく、戸惑いを見せる相手に小鹿が戸惑って会話が止まってしまう、という現象がよく見られた。小鹿自身、そうした欠点を認めているためかあまり人と話をしたがらず、それが余計にコミュニケーション能力の低さに拍車をかけている。
とはいえ、親しくなろうと思って会話をすると奇妙な会話になるだけで、何か頼まれれば渋々だが引き受けるし、最後まできっちりやるところを見るに根はやさしくまじめな男なのだろう。慣れた人間には随分荒い口調を使うが。
そうした面があって、小鹿は光犯課の中でも他課の協力要請を受けることが多かった。
「小鹿、それ、経費で落ちてるってホント?」
食堂の窓際一番奥のテーブル。厨房に一番近い席は、大体小鹿の指定席だった。密やかに「小鹿ゾーン」なんて呼ばれていることを本人は知らないが、取調べ後に小鹿がその席を陣取って、大量の食べ物と格闘・ひたすらに食べていく様は署内で有名である。
今日もまた、取調べ室から出たその足で「小鹿ゾーン」を陣取っている。隣に座る有馬は、いつまでたっても見慣れぬ光景をげんなりとした様子で眺めていた。
「そーですよ。俺、有馬さんと違って代償でかいんで」
「大小で言えば俺の方が重要かつ貴重だろうよ……まあそりゃそうだよなあ、捜査費用みたいなもんだしな」
小鹿が他課の協力要請を受けるとき、光犯課は必ず付き添いの刑事を一人つけるようにしていた。小鹿が一番新人だからというのもあるが、「もしも」の時の介抱要員である。
「ま、有馬さんの能力は使いすぎたら廃人まっしぐらですしね。俺は飯さえ食えば記憶覗けて超ラッキー、な使い勝手抜群な能力なんで、引っ張りだこになってもしょうがないですね」
「……お前その言い方なんか棘あるな」
「棘含めて言いましたもん」
有馬のジト目を余所に、小鹿は何杯目かになるカツカレーを平らげた。目の前には空になった皿が幾つも積み上がっている。厨房で忙しなく動く調理師の女性たちは、誰に言われるでもなく適当なメニューを作っては小鹿の机の上に追加していった。食堂に入るなり、「今日は九十キロ」と小鹿が告げたので、彼女たちはきっかり九十キロ分の食事を作っているのである。九十キロ、とは、カロリーではなく量の話だ。小鹿によって大量の食糧が消費されるため、厨房の大型冷蔵庫には他地域の食堂より数倍多い食材が詰め込まれている。
小鹿は
小鹿の光化症は左掌に現れる。つまり、例えば夜道を歩いていると、左掌だけ異様にぴかぴか光ってしまうのだ。光るだけならまだいいが、小鹿のそれはある特殊な能力を持っていた。
「ま、人の記憶覗くのなんて趣味じゃ絶対やらないけど」
カツカレーを空にしたのと同じタイミングでチャーハンが机に出された。忙しなくスプーンを動かしながら、その細身の一体どこへ吸収されるのか、不思議なほどの量を摂取していく。有馬が苦い顔をして水を飲んだ。小鹿の食事の匂いは周囲一帯に広がるため、近くに寄るだけで満腹感が襲う。
「気持ちはわからんでもないが」
あんまり文句を言うな、と有馬は言って、こつんと小鹿の頭を小突いた。小鹿は返事をせぬままチャーハンに向き直る。
小鹿の左手は記憶を読んだ。脳を持つ生命体に限り、脳に近い部位に左手で直接触れると、触れた分だけ多くの記憶を遡り、読み取ることができた。その代償として大量の食事を摂取する必要があったけれど。
「記憶の整理は大量のエネルギーが必要なんですよ、っと」
今日は小鹿を気に入っている年配の主婦が厨房にいるようだ。デザートらしい、生クリームが山盛り乗った大きなコーヒーゼリーを前に、小鹿は「頂きます」とようやく律儀に挨拶をした。記憶を読み取った後の食事で小鹿は挨拶をしない。から、恐らく読み取った分の食事は完了したのだろう。
「……お前、そのゼリーは自腹で払えよ」
「ええ? いいじゃないですかたまには。食堂のお姉さん方のご厚意ですし」
まだ食うのか、という呆れ半分、味を占めて日常の食事まで経費計上されてはかなわない、と有馬が忠告すると、小鹿の頬がふくりと膨れる。厨房から「そうよぉ、有馬さん! あたしたちのサービスなんだから気にしないで!」と、小鹿曰くお姉さん方の援護が飛ぶ。
小鹿は幸せそうにコーヒーゼリーをつついた。有馬はため息を吐いて、まあ、サービスなら良いけどよ、とうなだれた。
協力要請を受けて小鹿がやることと言えば、容疑者なり犯人なり関係者なりの元へ行って、左掌で直接頭に触ることだった。
つまるところ、証言などアテにならないからてっとり早く記憶を読み取って、得た情報の裏付け的に証言を確認していこうという算段だ。そちらの方が早いし正確で、事実一昔前に騒がれていた誤認逮捕や取調べの実態なども格段に良くなった。
(もっとも、)
小鹿の能力に理解を示しているのは、光犯課以外であればごくごく僅かである。小鹿の、というよりは、光犯課に対する理解の低さは常々感じていた。上の人間が光犯課への協力要請を指示するため、刑事たちは不満げな顔をしつつ小鹿の資料を受け取るが、眉唾と思っている人間も少なくない。そうした刑事たちは大抵、実際に提出した資料と容疑者たちの証言が重なることで、苦い顔をしつつも小鹿を認めざるを得ないのだが。
デスクに戻った小鹿は読みとった記憶を打ち出しはじめた。読み取った記憶は自分の記憶よりも鮮明に、長い間残ってしまうため、小鹿としては長時間向き合いたい代物ではない。その分体力も気力も使われるのだ、初めて捜査協力した時、人が人を殺す記憶に強烈な吐き気と寒気が止まらなかった。今でも思い出せる、生白い腕が強い力で被害者の首を掴み、強く、強く握りこむ。どんな感情だったか、うっすらとしかわからない。もがき抵抗していた被害者の、次第に力の抜け弱弱しくなっていく様、さあ、と血の気の失せていく顔色、虚ろな視線は上を向いて、半開きの口から涎が垂れたところも思い出せた。自分は殺していないのに、小鹿の脳にははっきりと人間が冷たくなるまでの過程が記憶されているのである。
はあ、とため息を吐く。どれほど否定していようと、忘れたふりをしようと、根底に刻まれた記憶を消し去ることなどできない。事件の詳細を確認するでもなく、小鹿はレポートの一番上に、「傷害時死亡未確認、凶器果物ナイフ、背中に四回、腹部に十回、顔面から首筋にかけて三回斬りつけ」と情報を書き足した。黒である。
「その重たいため息は捜査協力帰りだな、小鹿くん。レポートの真っ最中と見える」
「大狼さん」
ことり、と、デスクにマグカップが置かれて顔を上げた。鬱々とした気分でパソコンに向きあっていたために、漂うコーヒーの香りはどこか緊張をほぐしたようだった。苦いコーヒーが飲めない小鹿のための、砂糖とミルクがたっぷり入った……コーヒーというよりはカフェオレである。
「順調ではなさそうだな」
大狼は来客用のコーヒーカップを片手に、断りなく隣のデスクから椅子を引っ張り座り込んだ。
その特質柄、光犯研究室と光犯課の付き合いは深い。大狼は中でもよく光犯課に「遊びに」来ては、刑事たちとコミュニケーションをとっている。光化症研究、と聞いただけで初めは皆良い顔をしないものだが、大狼と向き合うと不思議と打ち解けてしまうのだった。光犯課所属の刑事の八割は、己自身も光化症を持ち特殊能力に苦しむ者たちである。まだ存在が知られてからいくばくも立っていない光化症患者は、それだけで迫害を受け、好奇の目に晒される。研究などもってのほかで、光化症患者コミュニティにおける「光化症研究所」とそれにまつわる機関・組織は忌み嫌われたものだった。言ってしまえば、光犯研究室もその同類である。
が、大狼は他の研究者たちと異なって、押し付けがましい同情も、不必要なまでの好奇心も持ち合わせていなかった。淡々と、けれど熱中して研究を進めている。
小鹿はディスプレイから視線を大狼へ向け直し、出されたカフェオレを一口飲んだ。小鹿好みの丁度良い甘さである。大狼が光犯課へ入り浸っては皆に茶を出していくので、光犯課の面々は自分以外の者の茶の好みを知らない。
「今日も遊びに来たんですか?」
言外に研究は大丈夫なのか、と問うと、大狼は小さく肩を竦めて「いかにも」と頷いた。今日も今日とて遊びに来たらしい、大狼の大きな釣り目がぱちりと一つ瞬きをする。座り込んだ椅子は大狼には少し背が高く、足がぶらりと浮いていた。人並み以上に大きい小鹿と比べるまでもなく、大狼は小柄な男である。
「興味深い事件を見てな。そろそろこちらに舞い込んでくるのではないかと思い、様子を見に来たのだ。まだ何も来ていないようだが」
続けて、知らないか? と首を傾げた。大狼が興味深い、というのだから、光化症患者が関わるとみられる事件だろう。小鹿もまた、首を傾げた。
「最近あんまりニュース見ないようにしてるから……知らないです」
申し訳ない、というよりは無知が恥ずかしくて、視線は自然と下を向いた。大狼の皺のよった白衣が見える。相変わらず汚れたままの白衣だが、すすけたような汚れは一体何で付着するのだろうかと小鹿は見つけるたびに詮無い思考に捕らわれた。大狼がけらけらと笑う。別にいいさ、と明るい声だった。
「小鹿くんはただでさえ頭を使う仕事をしているからな。余計な情報を仕入れたくない気持ちはよくわかる。聞きたくないなら話さないが、どうする?」
「ええと、どうぞ」
「ありがとう。最初に見つかったのは、丁度一週間前のことだがな」
大狼はぶらつかせていた足をきちんと整えると、両手に抱えたマグカップを膝の上に話しはじめた。
事故とも、事件とも判断されていないらしい。その死体は、市内のホテルの一室にいた。
ビジネスホテルに分類されるが、女性層をターゲットにサービスを充実させたことで市内では有名なホテルである。件の死体はホテル十三階の一三一七号室、チェックアウト時刻を過ぎても手続きに来ない客を不審に思った男性スタッフが発見した。
「死体はホテルの肘掛け椅子に深く座って、眠るように手を組んでいたらしい。しわくちゃの皮膚、抜け落ちた髪の毛がばらばらと床に散らばっていたそうだが、不思議なことにそれは黒い毛と白い毛と入り混じっていた。落ち窪んだ目は固く閉ざされ、乾いた唇は動かない。
第一発見者の男性ははじめ、この部屋の客は高齢の男性だっただろうかと首を傾げて、熟睡しているんだろうと思ったそうだ。起こそうと声をかけて、反応がなかったので近づいた。
触ってみて、初めて死んでいることに気づいたらしい」
大狼はそこで一度言葉を切った。コーヒーの湯気がゆらゆらと昇っていく。小鹿は瞬きするのも躊躇われ、話しの続きを促す。
すぐさま救急車手配された死体は、近くの大学病院に搬送された。この時点で誰も事件の異常さに気づいておらず、警察への連絡はあくまでホテル内で死亡事故があった、という一点のみ、事故、として通報をしたから、到着も遅ければ確認も遅かった。
病院は老人の死体から、死因を「老化による衰弱死」と断じた。身体的な異常も、持病も何も見られず、至って健康な状態で日々を過ごし、年齢的な寿命で亡くなられたのだろう、と。
違和感を見つけたのはそれからだった。事後処理に追われていた事務の女性が、その部屋の客は二名のはずで、若い男女だった、と主張したのだ。
「若い男女?」
「そう。不思議だろう、若い男女が泊まっていたはずの部屋で、老人の死体だけが見つかった。その段階でようやく、フロント係も監視カメラも確認が入り、やはり、チェックインしたのは若い男女だったと判明した」
「入れ違った可能性は?」
「細かく調べたそうだが、その可能性はなかった。二人は一度外出したらしいが、部屋に帰ってきたところをたまたま宿泊客案内をしていたスタッフに目撃されている。なにより、各所の監視カメラが件の二人が部屋に入った証明をしている」
「じゃあいったい、その二人はどこへ消えてしまったんです」
妙な寒気を覚えて、小鹿は姿勢を正した。大狼はにやりと楽しげに笑うと、「消えてなんかいないさ。少なくとも一人はな」と意地悪く言う。答えは簡単だったのだ、と続ける大狼に、小鹿はまた、首を傾げた。
「どういうことですか?」
「解剖の結果、何のことはない、老人の死体が宿泊客の男性の方だと判明したのだ。詳細は省くが、とにかく宿泊客の男性の指紋と、死体の指紋とが合致した。一件落着、というわけだ」
「え、ちょ、ちょっと待ってください。それって……」
「警察は一晩にして若い男性が老人の死体に変貌してしまった原因を、何らかの病気と見るか否か、何の見解も出していない。だが俺たちはわかるだろう? 小鹿くん、これは光犯課案件だ」
きっぱりと言い切った大狼に、何も言えず小鹿は唾を飲みこんだ。なるほど確かに、大狼が好きそうなネタである。
「……と、考察したところまでは良かったのだが。こちらに情報が来ていないのなら俺が動けることは何もない」
先ほどまでの楽しげな様子はどこへやら、はあ、とため息を吐くと、大狼は残りのコーヒーを飲み干した。
「邪魔をして悪かったな、小鹿くん。集中できない時は少し目を休ませると良い、君の能力は君の脳に多大な負荷をかけるからな、くれぐれも使い過ぎに注意してくれよ」
「わかってます」
とにかく、大狼は話したいことを話し終えたらしかった。腕時計で時間を見ると、立ち上がり小鹿の頭を一度撫でた。ぐしゃぐしゃにかき混ぜるような撫で方は、時折出る大狼の癖、のようなものだろう。以前何故頭を撫でるのか聞いたところ、「小鹿くんは背が高いが、唯一座っている時は俺の方が高くなるからな」と含み笑いをしていたので、単純に目線が上だということを主張したいだけなのかもしれない。
「それから、話した事件のことだが。もし光犯課へ回ってきたら、すぐに俺まで繋いでほしい。言われずとも優秀な君たちならば俺の元へ情報を持ってきてくれるだろうが、優秀な君たちのことだ、俺を介さず進めてしまうことも多々あるからな」
いたずらっ子のように、大狼はくすりと笑って踵を返した。頼んだよ、と念押しをして、その小柄な背中は台所の方へ消えていく。
(……結局何だったんだ?)
小鹿には不明だが、ふと壁の時計を見ると時刻はもうすぐ十五時になろうとしていた。それで思い至る。
(ああ、八生さんの所に行くのか)
大狼には重度の光化症患者である妹がいる。血の繋がった妹だが、どうにも妙な隔たりがあるらしい、大狼は妹のことを「八生さん」と呼ぶし、妹はまた、大狼のことを「大狼さん」と苗字で呼んだ。小鹿は彼の妹の口から、彼女自身を示す姓を聞いたことは一度もない。
「小鹿ぁ、レポート終わったのか」
大狼と入れ替わるように扉が開いたかと思うと、数人の先輩がこちらを見とめて意地悪く笑って見せた。その中に有馬の姿を見つけて、小鹿は肩を竦めてみせる。
「今やってますよ」
二日後のことだ。小鹿の元に不機嫌そうな捜査一課の刑事がやってきていた。時折捜査協力の依頼を持ってくる、馴染んだ顔である。
「どうかしたんですか、大和刑事」
「どうしたもくそもあるかよ、最終報告だ、最終報告」
「最終報告……ってーと、この間の」
思い出そうとして、気持ちの悪い記憶に顔を顰めて思考を止めた。大和はそれに気づいた様子も見せず、「そう」と一つ頷くと、小鹿のデスクに報告書を置いて見せる。
細かい字で綴られている報告書は、読むまでもなく、小鹿の読んだ記憶と同じことが書かれてあった。男の使った凶器、刺した箇所、回数、死亡確認の有無。言ってしまえばその時どんな感情を抱いていたのか、大まかだって小鹿は答えることができる。もし容疑者が口を割っていなければ、小鹿は悪びれもなく答えただろう――「容疑者の男は、彼女を刺し殺す時、怯えと同時に僅かな快楽を見出していました」と。
けれども男は素直に犯行を認めたようだ。刑事の持ってきた出所不明の情報が、あんまり自分の状況を再現し言い当ててしまったものだから、頷かざるを得なくなったともいう。小鹿の関わった事件は九割方解決され正しい犯人が逮捕される。残り一割はたまにいる、「どうやっても嘘を崩せない人間」なので、小鹿の知るところではない。
「これでまた貸しひとつ、ですね」
「……
苦笑して、大和は乱暴に小鹿の頭を撫でた。
座っていると幾分他の人より目線が低くなるからか、小鹿はよく頭を撫でられた。大狼然り、今の大和然りだ。大方理由は大狼と同じなのだろうが、時折、子供じみた行為に反論したくなって、その度口で言い負かされる。
「何かあったら思いっきり助けてもらうんで、別にいいですよ」
光犯課にとっての「何か」とは、一体何か。
大和が眉間に皺を寄せる。小鹿はなんでもないと薄く笑うと、報告書を手に取って「ありがとうございます」と軽く頭を下げて見せた。
「大丈夫か?」
変わらず不機嫌そうな顔で大和が去ってしまうと、様子を見ていた有馬が小鹿の傍に寄ってきた。デスクが通路を挟んだ隣同士なのだ、よく気にかけてもらっている自信はあるが、眼鏡越しとはいえ有馬の瞳に見つめられると、何とも言えない気分になった。小鹿と同じ光化症を患う有馬の瞳は、相手の思考を読み取る特殊能力を持っている。
「大丈夫です。内容も相違なし、俺の能力がまた一つ確かめられただけですよ」
肩を竦めて小鹿はおどけてみせる。ならいいけど、と有馬が引き下がるのは簡単だった。
「無理すんなよ」
続けられた言葉に首を傾げた。無理をしているつもりなどなかったし、たとえそのように見えていたとしても小鹿に自覚はなかった。有馬の顔がどんどん顰められていって、「なに怒ってんですか、有馬さん」とおどけて返す。
「別に、怒ってねえよ」
それきり有馬は口を閉ざした。小鹿は「なら良いですけど」と答えて、報告書に受領印をとん、と押した。中身など流し見しかしていないが、印を押して上司に提出すればこのくだらない書類ともおさらばだった。
(一緒に記憶も手放せりゃいいのにな)
呟きは心中のみで。耳の奥の方で女性の甲高い悲鳴が聞こえた気がした。実際には聞いたことのない、記憶だけの断末魔。
あーあ、と小鹿は伸びをした。耳に残る断末魔は幾つも幾つも消え去らない。仕方のないことだ、と少し笑えば、有馬が不服そうな顔でこちらを見ていた。
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