第36話 衝突と亀裂
依頼人【意馬心猿】が黒塗りされたことを、「快刀乱麻探偵事務所」の四語句の探偵達は、「明正辞書」の該当ページを開き、改めて確認した。
彼女の最期に立ち会ったアンは、その場に姿を現さなかった。あれからずっと自宅に引きこもっている。そのアンからシンエンの【心】を受け取ったランマは、それを辞書の表紙に流れ込ませた。そうしてシンエンの想いとともに、金色に輝く文字で辞書の中に収められたのである。
彼ら探偵達は、美麗語句連続失踪事件の犯人――【韋編三絶】が秘密裏に釈放され、その後行方知れずとなった事実は知らない。それが表沙汰になることはなく、有名コメンテーター【韋編三絶】がテレビから姿を消しても、誰もそれに触れることはなかった。
ランマもメイもバンも、【韋編三絶】が逮捕された事実を、内心では訝しがっていた。
あいつはア行語句。いくら本人が望もうが、ア行語句として逮捕送検、ましてや裁判が行われることはない。そう踏んでいた。
ただソカだけは、彼が今もまだ、拘置所の中で裁判を待つ身であると信じている――。
◇◇◇
今回、統監本部の【一網打尽】から依頼を受けたメイに、報酬として多額の謝礼金と慰謝料が振り込まれた。それを所長であるランマに還元し、自身は涼しい顔で笑うのであった。
「――メイ君、元の髪の色に戻したんだね」
事務所の自席に座ったメイに、紅茶を淹れてきたソカが言った。
「ええ。ぼくはもう【春花秋月】ではありませんからね。髪の色も地毛である緑に戻しました」
メイは透き通るほど綺麗な緑色の髪を耳にかけた。短髪ではあるものの、サラサラヘアーの長身。グレイのシャツを着て、髪と瞳と同じ、緑色のネクタイをきっちりと結んでいる。シャツの淵も緑で統一され、見るからに好青年。希少価値のある美麗語句の中でも、断トツイケメンと称されるほど、その顔面力は高い。それなのに――。
「ほんと、髪と瞳の色を変えただけなのに、どうしてソカ先輩はぼくだって気付いてくださらなかったのでしょう?」
探偵にとって、耳の痛いことを平気で言う、メイ。
「うう……ほんと、ごめんって」
「まあ、それが貴方らしくて良いんですがね」
そっと笑みを浮かべるメイが、空席となっている2つの席に目を向けた。
「バン先輩は新たな依頼で暫くお会いすることはないでしょうが、あの偏見ヤローはまた今日も欠勤ですか?」
「ああ。……まあ、こればっかりは仕方ねーだろ」
所長席でパソコンを眺めていたランマが言う。
「これだから引きこもりは。といっても、元々日陰語句だし、【四字熟語】が黒塗りされることも、自身が黒塗りすることも、日常茶飯事だっただろうに。何を今更……」
アンが暗殺者として暗鬼を名乗っていたことは、探偵達の中では周知されている。彼は「快刀乱麻探偵事務所」の中で、唯一「五体語」ではない〈語句〉だ。とある事件をきっかけに、五語句目の探偵として採用された【疑心暗鬼】。その心中を案じるソカは、そっと目を伏せた。
「――ぼくは日陰語句なんかじゃないぞ」
その時、事務所のドアからアンの声がした。
「アンさん!」
「ソカああああ! ぼくを心配してくれていたんだなああああ!」
出勤してきたアンを立ち上がって迎えたソカに、
アンが満面の笑みで両手を広げて近づく。
「うげえええ」
慌ててソカがランマの後ろに隠れ、「だから無闇やたらと僕に抱きつこうとしないでください!」と声を張って、拒絶した。
「なっ……! お前の苦しみを理解してやれるのは、この広い世界でぼくただ一語句なんだぞ! ぼくこそがお前の運命の
「だから気持ち悪いこと言わないでください!」
「ガーン! き、きもちわるいだって? このぼくの愛が伝わらないなんて……」
絶望の表情でアンが床の上で項垂れる。
「……相変らずの偏愛っぷり。ほんっと、日陰語句にロクな奴はいませんねぇ?」
「ああっ? なんだと、ヒヨッコ! この天才語句、【疑心暗鬼】に向かって、大層無礼な物言いだな!」
「天才って、ただの仏教派生組の中での位置づけでしょ? ぼく知ってるんですから。仏教派生組の祖である【愛別離苦】が、この世界に生まれた仏教派生語句それぞれに、二つ名を与えていることを。たまたまその場のノリで天才を冠されただけのことでしょう?」
鼻で笑うメイが、「ぐぐぐっ……」と悔しがるアンを見下す。
たしかにメイの言う通りだった。アンの脳裏に、その時の場面が蘇る――。
この世界に誕生した【疑心暗鬼】。まだ幼い風体の彼に、【愛別離苦】が『うーん』と思い悩む。
『そうじゃのう。【疑心暗鬼】じゃし、他の〈語句〉とは一線引いておる方が良かろう。“闇に昂りし孤高の天才“もしくは“光の祝福を受けた馬鹿“、どちらか好きな方を選ぶが良い』
(――は? なにいってんだ、こいつ?)
その頃から穿った物の見方しか出来ないアンは、冷めた表情で仏教派生組の祖――【愛別離苦】を見上げた。
『すまぬのう。数多おる同胞らの二つ名を考え始めたら、夜も眠れんようになってな。本当はもっと厨二感のあるものの方が良いじゃうが、“馬鹿と天才は何とやら”とも言うしのう。どちらも世間から一線隔しておるに違いかなろう。この二つから選んでくれ』
(だからこいつはずっと何をいっているんだ? 厨二感とか心底どうでもいいんだが)
長々と説明する【愛別離苦】に同胞愛など感じるはずもなく、アンは自身の〈語句〉に則す闇を選んだ。それでも自分が【疑心暗鬼】であることに対しては、絶対の自信があった。
『ぼくは天才だ。馬鹿は他のやつにでもやれ』
それだけ言って、【疑心暗鬼】は、孤高の天才を名乗るようになった。闇に昂りし――の部分は、その後、自身の中に本当に闇に昂ぶる暗鬼を見つけたことで、今ではもう、その過去ごと屑箱に捨て去ったのだが。
回想が済み、アンは【愛別離苦】が始めから自分の本質を分かっていたことに、改めて気付かされた。
「……ちっ」
舌打ちするのは、【愛別離苦】が、その〈語句〉の本質を見定める力を持っていることに対する、苛立ち、焦燥感からだった。
「おや? 言い返してこないところを見ると、図星ですね。むざむざと依頼人を黒塗りされといて、何が孤高の天才なのやら」
やれやれとアンの失態を指摘するメイに、「ちょ、メイ君! もっと言葉に気をつけて……!」とソカがアンの気持ちに寄り添う。
「……っ、ただの美麗語句風情が生意気なんだよ! お前こそ他の美麗語句が【韋編三絶】に辱めを受けているのに、みすみすそれを見逃して、あいつの罪を助長させてきたんだろうが! なんでもっと早くにお前の【鏡】を使わなかったんだ! お前ならあいつを止めることが出来ただろう! そうすれば【意馬心猿】はっ……」
そこまで言って、ぎりっとアンが奥歯を噛み締めた。二語句の間に険悪なモードが流れ、ソカはその間でオロオロと狼狽えた。
「ア、アンさんも落ち着いてください! メイ君だって、被害者の立場でもあるんですから!」
「――ふん。別に同情なんていりませんよ。あんなものは、痛くも痒くもなかったので。それに、美麗語句が他の〈語句〉の道楽に付き合わされることなんて、日常茶飯事でしょう?」
プイッとメイがそっぽを向く。アンが虚しくも卑しく笑った。
「……っふ。美麗語句なんて、所詮は蹂躙されるだけの〈語句〉だろう? この辞書界では、狩られるだけの存在。ア行語句の奴隷の分際で、成り上がろうとするな」
「なんだとっ! もういっぺん言ってみろ、偏見野郎っ……!」
「ちょ、二語句とも、いい加減に……!」
プツンと理性の糸が切れたメイが、アンに殴りかかろうとしたところで――。
「――いい加減にしろ、てめえら」
大分ドスの効いた声で、二語句の一触即発を止めた、ランマ。アンとメイの間で、鬼の手と拳を素手で止めた。
「ランマさん……!」
「……止めるなよ。これはぼくとコイツの死合いだ」
本気の様相で、アンがギロリとランマを睨みつける。
「そうですよ、ランマ先輩。こればかりは、貴方には関係ないことです」
メイもまたブチギレていて、聞く耳を持たない。二語句の手首を取るランマが、表情を隠し、言った。
「確かに俺は関係ねえよ。けどな、ソカを見てみろ。コイツの顔を見て、それでもまだ死合いを続けるってんなら、俺がてめえらを殴ってでも止めてやるっ……」
ランマの声の先に、今にも泣き出しそうなソカの表情があった。それに思わず眉間を突かれた、アンとメイ。二語句の体から、すっと殺気が消えていった。
「……わるかった」
先に謝ったのは、何が何でもソカに嫌われたくない、アンの方だった。
「いえ。ぼくも大人気なかったです。すみませんでした」
メイもまた、自分の沸点の低さを反省し、謝った。
「いいか、てめえら。それぞれがそれぞれの役割を担うのが、探偵業の鉄則だ。そして、それぞれに事情がある。それは言葉に表すことも出来ないほど、辛いものもあるだろう。今回は、どうしようもない事情があった。それだけだ。これ以上、今回の事件について、仄暗い気持ちを残すな。救えなかった〈語句〉の分まで生きる――。それしかねえんだよ、残された俺らには。そうだろうが」
そこまで言って、ランマがニッと顔を上げた。そこに浮かんでいる笑みに、泣き出しそうになっていたソカも、つられて笑った。
アンとメイは、互いに気持ちを爆発させたことで、ようやく今回の事件から、踏ん切りをつけることが出来た。それでも目が合った二語句は、互いに相容れぬ語句同士、照れながらもそっぽを向いた。
◇◇◇
数日後、統監本部の【一網打尽】は、亡き弟【一陽来復】の墓参りに訪れた。墓前で手を合わせるジンが、そっと瞼を開け、弟の墓を見上げる。
「……今度こそ、踏ん切りをつけてくるよ、ヨウ。家族を切り捨てなければ、僕の正義は貫けないようだ」
覚悟を決めたジンが立ち上がった。その背後に現れた、同じく統監本部に所属する【虎視眈々】。
「今日が命日だったな」
「……ええ」
「例の失踪事件、被疑者は始めから存在しなかったらしいな」
「……っ」
拳を握るジンに、トラは尋問を続けた。
「それで、あの事件に『
その問いかけにジンは振り返ると、部下であるトラを見上げ、はっきりと言った。
「――いいえ。『花牌』は未だ行方知れずのままです」
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