第33話 Leap in the dark

 何者かによって背中をナイフで刺された【意馬心猿】は、病院に搬送されるも、今なお危険な状態で生死を彷徨っている。緊急手術が済み、オペ室からシンエンが運び出されてきた。待合室で待っていたアンが立ち上がって迎え入れる。


「手は施しましたが、今なお予断は許さない状況です」


 医者に言われ、「そうか……」とアンがベッドの上で眠るシンエンに視線を落とした。


 そのまま個室へと移り、月明かりが射し込むだけの病室からアンが出ていく。リストリングを耳に向け、ランマに状況報告を行った。


 未だ意識が戻らないシンエン。その病室に、医者の恰好をした初老語句が入ってきた。シンエンの脈を測る。そうして点滴に繋がれるシンエンの腕に、注射針を向けた――。


「ぼくの前で堂々と殺人か?」

 病室に戻ってきたアンが医者の腕を掴む。


「おや。もう戻ってきたんすね」


「ぼくは【疑心暗鬼】だ。愛する一語句を除いて、この世界のすべての〈語句〉に疑いの目を向けているからな」


「おやおや。なら、あっしのことも疑っておられると?」


「当たり前だ。これだけの手術の後だ。普通、オペを執刀した医者が様子を診に来るだろう。なのにお前は誰だ? オペに携わった医者の中にはいなかっただろう?」


「……クク。さすがは【疑心暗鬼】。その観察眼は褒めて差し上げやすよ? ケド、所詮はソレだけに特化したような〈語句〉でやんしょが」


 そう言うと、医者がアンと対峙した。その表情には、薄っすらを笑みが浮かんでいる。アンは挑発には乗らず、ぐっと目の前の男を見据えた。


「お前が【意馬心猿】の口を封じた〈語句〉か?」


「エエ。あっしはどんな依頼でも必ず完遂させる、必殺請負語句――。人呼んで、暗躍ヒーローでさぁ。以後お見知りおきを。暗鬼あんきさん」


「ぼくを暗鬼と呼ぶな。その名は捨てたんだ」


「おや? あっしら【四字熟語】に、己の名は捨てられねえでやんしょ? せっかく裏稼業界隈では、名の知れた暗殺語句だったのに、今ではしがない探偵業。勿体ねえでやんすねぇ」


「うるさい。これ以上ぼくを苛立たせるな。何が暗躍ヒーローだ。日陰語句の分際で、英雄気取りも甚だしいんだよ。名乗るならちゃんと名乗れ……!」


 アンが鬼の爪で男を攻撃する。それをひょいっと避けた男が、ニッと笑った。


「ならご期待通り、名乗って差し上げやしょう。あっしは“Leap in the dark”――。【四字熟語】界隈では【暗中飛躍】と呼ばれる、この世界の暗躍ヒーローでさぁ」


「だからお前のどこがヒーローなんだよ!」


 苛立つアンが俊敏に攻撃を繰り返すが、ひょいひょいと何の焦りもなく、【暗中飛躍】がかわしていく。


「人知れず世界の裏で活躍するのが、暗躍ヒーローたる所以でさぁ。同じ【暗】を持つ者同士、仲良くしやしょうや〜。まあ、お互い相容れない間柄でしょうがね〜」


「うるさい! 裏でコソコソと小癪なマネをしているんだろう! 明るい場所にも出てこられないような奴に、ヒーローを語る資格はないんだよ!」


 アンの鬼の手が【暗中飛躍】の腕を掠った。


「おや。血が流れてしまいやしたね。これは残念。あっしの敗けでやんす」


「ああっ?」


「あっしは仕事で自分の血を流さない主義なんでね。イレギュラーは嫌いなんす。……と言っても、仕事は完遂させやしたがね」


 シンエンを見て、ふっと笑う【暗中飛躍】。俄に酸素マスクを付けたシンエンの呼吸が乱れ始めた。


「なっ……!」


「では今宵は失礼させて頂くでやんす。またお会いしましょう、同じ【あん】のむじなさん」


「待てアンチ野郎っ……!」


 逃げる【暗中飛躍】を追いかけようとしたところに、「……さ、ん」とシンエンの声が届いた。


 はっとして、アンが振り返る。その隙に【暗中飛躍】の走り去る音が遠くに消えていった。


「ちっ……!」


 勝利など微塵も感じない中、アンは意識を取り戻したシンエンの横に座った。

 弱々しく震える手が、アンに伸びていく。


「こ、れを……ソカさ、……と、ランマさん、に……」


 そう言って、アンに手渡されたもの――。それは【意馬心猿】の【心】であった。


「お前、これはどういうつもりだ?」


「……報酬、です。彼らなら、きっと……イヘンを救って、くれる、から……」


 その意味を強く感じ取るも、ぐっと堪えたアンは、ゆっくりと拒絶した。


「……お前の薄汚い【心】なんかいるか。成功報酬なら、もっと別なものを寄越せ」


 シンエンが薄っすらと瞼を開けた。


「それは、たとえば……?」


 シンエンがそう返してくるとは思わず、アンは言葉に詰まった。決して泣きそうになっているとか、そういうことではない。ただ、すぐには声を出せなかったのだ。


「……っ、ぼくに聞くな。そういうことは、依頼を受けた探偵に直接聞け」


 素っ気なく言うも、完全に目に涙が浮かんでいる。シンエンはそっと笑った。


「アンさん、貴方と同じ、仏教派生組で、ほんとうによかった……」


 ぐっとアンが視線を逸らす。シンエンがゆっくりと目をつぶった。


「お願いが、あります。手を、つないで……」


 力無く伸ばされた、シンエンの手。彷徨うように宙を舞う。


「……【馬】と【猿】が、人の煩悩を、表すように、あなたの【鬼】は、人の【心】の【くらやみ】を表す。どうか、すべてを、【疑】わないで。わたしたち、すべての〈語句〉に、生まれてきた【意】味が、あるの、だから……」


 シンエンの手を握る、アン。その温もりに、そっとシンエンが微笑む。


 この辞書界において、自らが持つ〈意味〉に反して生きることなど出来ない。誰もが与えられた〈意味〉に忠実に生き、そして――。


 そして、その〈意味〉に反すれば、この世界から強制的に排除される。【意馬心猿】は自らの〈意味〉である〈煩悩〉を捨て去ったのだ。そうして最後に残った【心】を手放した今、『明正辞書』から【意馬心猿】が徐々に黒塗りされていく。


「……ありが、と……ヘン……――」


 心肺停止音が鳴り響く病室で、アンは一語句、声を押し殺すように項垂れた。


 ◇◇◇

 荘厳たる仏閣連なる、〈釈迦〉地区――。


「――あれ? おかしいんだな。あの煩悩を手放したはずの【意馬心猿】が、黒塗りされたんだな」


 仏閣の屋根の上で『煩悩語句帳』を開いていた【色即是空】は、そこに連なっていた仏教派生組の【意馬心猿】が黒塗りされたことに、ひどく混乱した。


「不慮の事故か、それとも誰かに滅されたか」


「――クウよ、これも仏の導きによるものよ。生きとし生けるもの、いつかはみな死ぬ。その悲しみに耐えてこそ、仏の道は開かれるのじゃ」


じじ様……」


 いつの間にか隣に立っていた作法衣姿の老人に、クウは納得するように頷いた。


「この世は虚しいことばかりなんだな。でも、だからこそ、生きている間は、思いっきり遊びたいんだな」


「そうじゃのう、クウ。どれ、修行がてら、このワシが遊んでやろう」


 白髪の老人が、チリンと鈴を取り出し、それを腰紐に結んだ。


「このワシ、【愛別あいべつ離苦りく】から鈴を奪い取ってみせるのじゃ」


「よし! 今日こそ爺様から鈴を奪い取ってみせるんだな!」


「その意気じゃ、クウよ。ただし、制限時間内に鈴を奪えねば、朝飯はなしじゃぞ?」


「わあああ! それは絶対イヤなんだな! 本気でいくんだな!」


 そうして始まった、師弟による熾烈な鈴取合戦は、朝日が昇るまで続いたのであった。

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