第30話 サイコパスの罠

 この世界の【神】、『只呉明正ただくれあきまさ』が実在すると聞き、【韋編三絶】の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇ってきた――。


 ◇◇◇

『――やぁい、故事上がり!』

『崇高なるア行語句の中にも故事上がりがいるなんて』

『どんなに〈意味〉が素晴らしくとも、故事から来た〈語句〉は、この辞書界では最下層。卑下されて然るべき末端の存在』

『この世界の秩序は、犠牲となるべきものがあって成り立つのだ。故事は必要な犠牲として、この世界の基盤となる』

 

 みんな、みんな、当たり前のように僕達故事由来の〈語句〉を嘲笑する。どうして僕達故事由来の〈語句〉が、こんなクソみたいな世界の犠牲にならないといけないんだ?


『――この世界の〈語句〉達は、自らの〈意味〉に囚われている。本当はこう生きたいと思っても、それを許さない何かの存在に、僕達は翻弄され続けているんだ』


 どうにか故事上がりと揶揄される〈語句〉を助けたいと、躍起になって勉学を積んだ。それでも変えられない世界の秩序に、僕は自らの無力を痛感した。


『何か……』


 姉である【意馬心猿】が目を伏せる。


『その何かから脱することが出来れば、僕はこの世界の……』


 この世界の【神】となって、こんなクソみたいな世界を創り変える――。もう誰も差別に苦しまずして済む世界に。最下層などない、本当の愛が溢れる世界に。


『――【神】? そんな存在などいやしないよ。この世界は、私達【一】族の意のままに在るのだから』


 そう愉悦を浮かべて話すのは、華麗なる【一】族の長兄――【一期一会】。ア行語句の会合で、この日初めて出会った。たまたま円卓で隣の席に座り、この〈語句〉ならば【神】の存在を知るのではないかと思い、訊ねた。しかし、その答えは私を絶望させるものだった。


『……なら、この世界の秩序を変えるためには、どうしたら良いと言うんです?』


『それは勿論、権力者になるしかないね。力さえあれば、きみはきみの世界の秩序となる。だけど今のきみではそれは無理だろう。きみは自らの欲望に気づけていない。さあ、俯瞰してよく自分を見てごらん。本当のきみは、何を欲しているのかね?』


『僕は……誰もが幸せであってくれればそれで……』


『違うだろう、イヘン。きみは【韋編三絶】だ。熱心に勉学を積んだきみは立派さ。でもそれだけでは生きてはいけないだろう? 今日まで必死に生きたは、ご褒美に何を望むのか、それを聞いているのさ』


『ご褒美? そんなもの、考えたことがなかった。孔子は乱れた社会秩序を正し、理想的な国家と社会を実現するために、道徳と教育の重要性を説いた立派な学者でしたから。その孔子の影響を受けた僕に、ご褒美なんてものは……』


『ああ、可哀想に。これだから故事由来の【四字熟語】は、差別の対象にされたのだよ』


『……どういうことです?』


『故事由来には、元となった人物がいる。彼らは人間だ。そんな人間由来の〈語句〉とは、は決して相容れない、それだけのことだよ』


『相容れない? 私達って、貴方方【一】族のことですか?』


『ふふ。さて、どうだろう。でも、きみも崇高なるア行語句として生きたいのなら、生まれ変わらないといけないよ』


『生まれ変わる?』


『そう。そうしたらきっと、きみも線引する者の快感が理解できるだろう。もっと自由になるんだ、イヘン。きみもまた立派なア行語句。何をしようとも、ア行特権がきみを護ってくれるさ。折角この私と話す機会を得たんだ。今この時が、きみが生まれ変わる絶好の機会になるのだよ』


『僕は……僕のままで……』


『強情だなぁ、【韋編三絶】。きみは、この世界の〈語句〉達は、自らの〈意味〉に囚われている、そう信じているのだろう? しかし、唯一、自らの〈意味〉とは真逆に生きる手段があることを、きみは知らないのだよ』


『それはどういう……?』


『私が誰なのか、分かっているね? 私は【一期一会】。一生に一度、私と出会った〈語句〉は、その〈意味〉を変える機会を得られるのだよ。そうだなぁ、きみはとても真面目で正義感が強い〈語句〉だ。ならば新しいきみは、その逆をいこうか。きみは今日から、女性の心を持ち、男も女も愛せる〈語句〉になるのだよ。そうして美しい〈語句〉達を監禁し、凌辱の限りを尽くすのだ』 


 パチンと指が鳴ったかと思うと、急に頭の中がグルグルと回り始めた。


『あ……うっ……』


『大丈夫さ、イヘン。本当のきみが目を覚ますだけだから。それに、どんなにおいたをしたところで、我々にはア行特権がついている。共にア行至上主義の世界で愉しもうじゃないか。この一期一会の出会いに、乾杯――』


 そう言って、【一期一会】がグラスを手に取り、乾杯の仕草を取った。そうしてまったく新しい〈語句〉として、自らの〈意味〉に囚われなくなった私は、『……うふ♡』と卑しく笑うことに快感を覚えた。


 ◇◇◇


「――うっ……、この記憶はっ……」 

 俄に頭を抱え、苦しみだしたイヘンを、「韋編っ……先生?」とソカが案じる。


「……、そうだ。僕は【韋編三絶】だ。あの時、【一期一会】とさえ出会わなければっ……」


 正気を取り戻しつつあるイヘンの口から出たその名前に、ぐっとジンが拳を握る。


「おやおや、君もまた、あの【一期一会サイコパス】の被害者だったとはね。統監本部が本当に逮捕すべきは、君のお兄さんじゃないか?」


 オウショウに見下され、ジンの目が据わる。イヘンがその場に崩れ落ちた。


「韋編先生……!」

 ソカが駆け寄るも、正気と狂気がせめぎ合うイヘンが、「わたしは……わたしよ!」となおも作られた人格を現す。


「しかし厄介だね。あの【一期一会サイコパス】によって書き換えらた〈意味〉ならば、元の彼に戻すことは不可能だ。〈一生に一度〉、これほどまでに強い〈意味〉はないからね。さてランマ、今回は【扇影衣香せんえいいこう】の時とは違って、彼を救うことなど出来ないよ。どうするのかな?」


 オウショウが愉快そうに足を組み、踏ん反り返ってランマを見下ろす。


「こんな馬鹿げた話はないですよ、ランマさん」

「ソカ……」

「ソカちゃん」

「ランマさん、バン、僕は……韋編先生を救いたい」

「ソカ君……」

「ジンさん、本当の悪は、なんですか? 本当に悪い〈語句〉を野放しにして、貴方はそれでも、統監語句なんですか?」


 突きつけられた言葉。ジンの脳裏に、かつて弟に言われた言葉が蘇った。


『――志を高く持てよ、ジン兄! そうすりゃ、悪い事の次にはきっと、幸せが訪れるからよ!』


「……ヨウ」

 呟かれた名前の先に、彼と――【一陽来復いちようらいふく】とよく似た笑顔を持つソカがいる。


「まあ、壮大な【起承転結】のラストだ。依頼人シンエンのためにも、アイツの望みを叶えてやらねーとな。つっても、俺達じゃどうにも出来ねーんだケド。……おい、そろそろ出てこい。もうとっくに修復出来てんだろ? ――シスイ」


「え? メイ君?」


 ランマの呼びかけに呼応するように、月光の先にキラキラと光の粒が集まる。それはバラバラに砕け散った鏡で、それらが人の形を作り、【明鏡止水】として瞼を開けた。


「メイ君! 良かった、生きていたんだね!」


 嬉し涙を浮かべるソカに、メイはにっこりと笑った。


「ぼくが死んだなんて思っていたのは、ソカ先輩くらいですよ。本当、天然過ぎて逆に腹が立ちますね。ソカ先輩」


「え? メイ君?」


 キラキラのイケメンでも、腹の中は真っ黒。そんな【明鏡止水】に、ソカだけは首を傾げた。



 








 




  


 

 








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