第16話 表の顔
「――大丈夫ですか、韋編先生! アンさん、救急車をっ……」
「いえ、その必要はありませんよ」
そう言って起き上がったのは、他の誰でもない、【韋編三絶】だった。
「へ? 韋編せんせ……?」
「うふ。驚かせてしまって、すみません。私のファンがいらっしゃるということだったので、ドッキリを仕掛けてみました。どうです? ビックリしたでしょう? ソカちん」
「え? ソカちん? まあ、びっくりはしましたけど……本当に韋編先生ですか? なんか話し方や雰囲気がテレビで観るのとは違うというか、妙に女性っぽいというか……」
「あら? 私は正真正銘、【韋編三絶】ですわよ? その昔、孔子が『易経』を愛読し、何度も読む内に、その綴じ紐が三度も切れたという故事から生まれた【韋編三絶】――。それが私のことよ、うふん」
■韋編三絶(いへんさんぜつ)
書物を繰り返し読むこと。読書や学問に熱心なたとえ。
【故事】孔子が『易経』を愛読し、何度も繰り返して読む内に、その綴じ紐が三度も切れたことから。
ウインクを飛ばすイヘンが、思い描いていたイメージと異なり、意気消沈するソカ。
「え? 本物はこういう〈語句〉だったの? テレビって怖い」
そうブツブツと呟くソカに、「すみません、ソカさん。もっと早くお伝えすればよかったのですが」とシンエンが憐れむ。
「もぉ! テレビの中の私が好きだって言うんなら、それは偏見よぉ! 本当の私にこそ魅力を感じるのが、ファンってものでしょう?」
「いくらなんでも、テレビの中のお前の本性に気づくファンなどいるものか」
冷めた表情で、アンが言う。
「ちょ、部外者は黙ってて頂戴! もう、失礼しちゃうわね! もう一人連れてくるのなら、最初から言っててよね、お姉ちゃん!」
「え? おねえちゃん?」
イヘンの視線がシンエンに向けられている。
「あ、そうか。同じア行で、【意馬心猿】と【韋編三絶】。たしかに姉妹のような並びですね。……って、姉と弟か!」
危ない危ないと、ソカがイヘンを女目線でみていたことに焦った。
「ごめんなさい、イヘン。でも、噂通り、優秀な探偵さん達なのよ」
「探偵……」
その時、イヘンの視線が真っ直ぐにソカに落ちてきた。その動向を、アンは見逃さない。
「――韋編先生、スタンバイをお願いします! 間もなく本番が始まります!」
控室にテレビ局のスタッフが入ってきた。すっと立ち上がったイヘンが、「はい。では今日もよろしくお願いします!」と、男の声で、しゃきっとしたイケオジの顔に変わった。
「ではソカ君。また後でお話ししましょう。では本番が始まりますので、失礼」
このイヘンこそ、ソカが憧れた【韋編三絶】であり、ずっと会いたかった〈語句〉だ。
本番中は、テレビの中と同じ【韋編三絶】による解説が行われている。政治や経済などに対するコメントを発するその姿からは、どうしても本性である女のような話口調は想像できない。作られた【韋編三絶】の語句像に、ソカの興奮はすっかり冷めていた。
「――はあ。こういうことになるんだったら、会いたいなんて言わなきゃ良かったな。なんというか、憧れは憧れのままの方が良かったのかも……」
隣に立つアンに向かい、げんなりとソカが言った。
「まあ、有名人なんて、所詮は作られた幻想に過ぎないからな。不確かな幻に魅せられて、大金を叩く馬鹿もいるし、そういう不均等によって成り立つ世界だろうしな」
アンの見解に、ますますソカは落ち込んだ。そんなソカに、シンエンは申し訳無さそうに口を開いた。
「本当にすみません、ソカさん。イヘンは仕事中は男性語句なのですが、プライベートは、完全に女性語句なんです。幻滅したでしょう?」
「ううーん、それを口にして良いものか、迷います」
「あれでも昔は男らしい〈語句〉だったんですが、いつからかああいう風に変わってしまって。やはりア行というプレッシャーがそうさせたのかもしれませんが」
「ア行のプレッシャー、ですか?」
「ええ。私達ア行は、この世界に早く生まれた分、あらゆる特権が与えられていますが、それはすべて、年長者としての威厳を保つためのものなんです。私は作家ですから、表舞台に立つことはほとんどありませんが、イヘンは世の中に知れ渡った〈語句〉。しかも故事上がりと差別されることもあったことから、誰よりも勉強して、今の立場があるんです。勉強し続けなければ、また故事上がりだと差別される。そのプレッシャーを払拭しようとした結果、ああいう人格が生まれたのかもしれません」
「韋編先生、その〈意味〉は、〈勉学に熱心なこと〉。僕は同じ故事という理由だけでファンになったんじゃない。そうだ、その〈意味〉に憧れて……」
イヘンへの並々ならぬファン心を思い出したソカは、もう一度イヘンに視線を向けた。本番中の彼と目が合い、イケオジからウインクを飛ばされる。
「〜〜〜ううっ、ずるい。やっぱり韋編先生はかっこいいじゃないか」
その色気に赤面するソカが、ばっと顔を手で覆った。
本番を終えたイヘンが控室へと戻ってきた。そこで彼の帰りを待っていたソカに、「ああーん、本番疲れちゃった〜」と女の表情で抱きつく。
「本番、お疲れ様でした、韋編先生」
しっかりとプライベートな彼の姿を受け止めたソカに、「ありがとう、私の可愛らしいファンボーイ」とイヘンも笑う。
「そうだ、イヘン。この後みんなで食事なんて、どう? 久しぶりにあなたとゆっくり話したいわ?」
「ごめんね、お姉ちゃん。私も久々にお姉ちゃんとお話ししたいんだけど、この後は打ち合わせが入っているの」
「そ、そう。私も新作の執筆が残っているし、また今度ね」
「ええ。……でも、ソカちんとは、まだお話しがしたいわ?」
「へ?」
「もしよかったら、貴方も一緒に打ち合わせに参加しない? その後、お夕食もご一緒したいし」
「えっと、どうしましょう、アンさん……」
「まあ、いいんじゃないのか。ぼくももう少し、この〈語句〉について知りたいと思っていたところだ」
「え? アンさんが他の〈語句〉に興味を持つなんて、珍しいですね」
「別に。ぼくの可愛いソカを一時でも執心させたんだ。ぼくの崇拝者であるソカの目を覚まさせるためにも、コイツを叩きのめす必要がある」
「叩きのめすって言い方やめてください。それから、僕は貴方の崇拝者ではありませって、何度言わせれば気が済むんですか!」
「死ぬまで言わせてやるぞ、ぼくの可愛いソカ♡」
「うげえええ。この〈語句〉は放置して、さっさと行きましょう、韋編先生。もう僕の付き添いは結構ですから、ついてこないでくださいね、アンさん!」
「なっ! ぼくはお前の保護――」
二語句の後に続かんとしたアンを、ソカの青い壁が四方から囲う。
「おいソカ! このぼくを閉じ込めるなんて、どういうつもりだ! ぼくはお前の番だぞ! お前が他の〈語句〉に奪われるのを、指を咥えて見ていろということか!」
ぎゃんぎゃん喚きながら壁を叩くアンをよそに、ソカがイヘンと共に控室を出ていく。
「大丈夫ですよ、アンさん。その壁は30分程で消滅しますから、それまでゆっくり休んでいてください」
そう言い残し、二語句は消えていった。
「おい待つんだ、ソカ! 不運なお前がそいつと一緒に行動して、ただで済むはずがないだろう! どうせぼくに頼ることになるんだから、ここからぼくを出せ!」
「アンさん、二語句はテレビ局を出ていきましたよ」
「くそう! 【韋編三絶】、あいつは絶対危険だ! このぼくの疑いが外れるはずがないってのに!」
ぐうっと悔しがるアンの視線の先に、風に揺られて波を打つカーテンがある。ここはテレビ局の一階控室。人が出入り出来るほど大きな窓は、不自然なまでに開けられたままだった。
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