第12話 クウちゃん、只今参上!
「——かあああつ!」
煩悩を捨て去るための座禅で、シンエンが住職に喝を入れられた。
「ううっ、私の煩悩がっ……。脳内エクスタシーがっ……」
ぐすんと涙ぐみ、己の煩悩を捨て去ろうとするランマの行いに、シクシクとシンエンが泣き続ける。
「ほら、シンエン先生。これが俺らの日常なんだから、もうちっと付き合えよな」
「いや、こんな日常、送ったことないでしょうが」
ジト目をランマに向けるソカも、同じように座禅を組んでいる。
「しかし、これが依頼人の希望を叶えることになるのでしょうか? シンエン先生は僕たちの日常を参考にすべく、今日一日、僕達に密着したかっただけなんですよ?」
「なら、こいつが望む通りに、俺らがまぐあうか?」
「……いや、これが僕たちの日常ですね。うん。座禅最高! これぞ僕達の日常ですよ!」
「かあああつ!」
間髪入れず、ソカにも喝が入れられた。
すっかり煩悩を捨て去るまで喝を入れられた【意馬心猿】は、境内の縁側で、一語句ぽつんと座っていた。お茶を啜り、「はあ」と溜息を漏らす。遠くでソカが住職と話しながらも、寺庭に咲いた紫陽花に水をやっているのが見える。
「んで、いいアイディアは浮かんだか?」
「え?」
隣に腰かけたランマに、シンエンは驚いたように顔を上げた。
「……スランプ、だったんだよな?」
「あ……気が付いていらっしゃったんですね」
ぎゅっと湯呑を握ったシンエンが、そこに視線を落とす。
「煩悩を捨て去った今、お前さんが本当に書きたいモノはなんだ?」
「私が本当に書きたいモノ……」
「本当にBL作品が書きたくて、作家になったのか?」
「あ……」
シンエンの脳裏に、初めて新人賞を受賞した場面が蘇った。
『——君の作品は素晴らしいが、欲望に欠けるんだよなぁ』
その新人賞に選ばれた作品は純文学で、人の心の機微は絶賛されたものの、人の欲については触れられていなかった。
『欲望……』
『君は【意馬心猿】だろう? ならば、もっと自らの〈意味〉に沿った作品を書いたらどうなんだい? 君は煩悩そのものじゃないか。それこそ、愛欲をテーマにした作品であれば、大化けするに違いない。男女でも、男同士でも、女同士でも、次回作は欲望渦巻く作品を期待しているよ』
新人賞を企画した雑誌の編集長からそう助言され、シンエンはその後、男同士の恋愛を描いた作品を執筆した。自らが持つ煩悩のままに、少しずつ作家としての認知度は高まっていくも、本当に書きたいモノが何なのか、次第に分からなくなっていった。
「……私は自分が何を書きたいのか、何を描きたかったのか、分からなくなってしまって……」
「今のお前サンは、自らの〈意味〉である煩悩を捨て去ったんだ。空っぽのお前サンが書きたいと思うコトこそ、お前サンが追い求めるモノなんじゃねーのか?」
シンエンが真っ直ぐにソカを見つめる。隣に座るランマとの絡みを想像しては、その欲望を文章に表してみるものの、それが本当に作り上げたい作品なのか分からない。
「私は自分の〈意味〉に、正直に生きてはいない。【四字熟語】として人格を与えられたにも関わらず、自らの人生を生きてはいないんです……」
この辞書界において、自らが持つ〈意味〉に反して生きることなど出来ない。誰もが与えられた〈意味〉に忠実に生き、そして――。
「——ああ、見つけたよ、【意馬心猿】。次は逃がさないんだな」
寺の屋根からひょいっと顔を出した少年に、ランマが警戒する。
「あっ……あなたはっ……」
「なんだ、シンエン。お前サンの知り合いか?」
俄かに震え出したシンエンの異変に、遠くにいるソカも気がついた。すぐさまシンエンに駆け寄り、「大丈夫ですか、シンエン先生!」と肩を揺さぶる。
「あーらら。ボク、そんなに怖がられるようなこと、したっけ?」
とぼけるように少年が地面に降り立った。灰色の衣を羽織り、さしずめ忍びのような恰好をしている。
「何モンだよ、オメー」
「ボクは【
可愛らしい見た目とは裏腹に、銀色の大きな瞳がランマを捉えて離さない。
■色即是空(しきそくぜくう)
現世の虚しさを表す仏教語。
「色」は、感覚で知覚できるすべての事物、現象の意。
「空」は、実体ではないこと。
「っけ。まーたサ行かよ。ほんっと、サ行にロクな奴はいねーなー」
悪態を吐くランマに、「すみませんね、ろくでなしで」とカチンときたソカが、ぶっきらぼうに謝る。
「まあ待ちなよ。ボクはキミ達と争う気はないんだな。ボクの狙いは、【意馬心猿】ただ一語句なんだな」
クウが震えるシンエンを指さし、笑った。
「ナニ言ってやがる。コイツは俺らの依頼人だ。どこの馬の骨とも分からねー奴に、黙って引き渡すはずねーだろ?」
「へえ。カッコイイんだな、おにーさん。けど、ボクも自分の役目を果たさないといけないんだな。【色即是空】……この世に存在するあらゆる事物や現象は実態ではなく、すべてが『空』で空しいものだ。だからこそ、迷いや煩悩は捨て去らなければならない。今ここに、煩悩まみれの我が同胞に、正しき仏の道を指し示そう」
そう言って、クウがかざした両手から、異空間のような渦が生まれた。それがシンエン目掛けて放たれた――。
「シンエン先生っ……」
ソカがシンエンの体を押し、窮地を救う。しかし、その渦はもろにソカの体を飲み込んだ。
「ううっ……」
「ソカさんっ……!」
渦に飲み込まれていくソカの窮地に、ランマが手を指し伸ばす。
「掴まれ、ソカっ……!」
「ら、らんまさんっ……」
必死にソカも手を伸ばす。
「ソカ? ああ、もしかして【四面楚歌】なんだな? あらら。仏教派生組じゃない〈語句〉が飲み込まれちゃうんだな。いやぁ、初めてなんだな。どうなるんだな?」
悠長に絶体絶命の危機を傍観するクウに、「おいこらクソガキっ! さっさとこの渦消しやがれ!」とランマが大声で叫ぶ。
「うーん。このまま結果を知りたいけど、
そう言って納得すると、クウがソカを飲み込みかけていた渦をパチンと消し去った。
「はあはあ……危なかったぁ」
九死に一生を得たソカが、ごくりと息を呑む。
「なんなんだよ、マジで。こんな急【転】、いらねーっつうの」
いつもとは異なるソカの危機に、ランマも内心、焦っていた。クウが砂利を踏みながら、シンエンに近づいていく。
「あ、あの、わたし……」
後ずさりするシンエンに、なおもソカが助けに入ろうと立ち上がる——のを、ランマが止めた。
「でもっ……」
「いいから、このまま見学といこうぜ」
先程とは打って変わって傍観を貫くランマに、ソカはただただ依頼人の無事を祈る。
「……へえ。キミ、煩悩が消え去っているようだけど、どうしたんだな?」
「え? ああ、先程、このお寺で座禅を組んだので、その時にしこたま……」
「そう。なら、心配はいらないんだな。ボクの狙いは、あくまで煩悩。そして、その〈意味〉を持つ仏教派生組。いやぁ、良かったんだな。滅せられなくて」
クウが立ち止まり、同胞であるシンエンに笑みを浮かべる。
「それじゃ、ボクは帰るんだな。でも、またキミが煩悩まみれになった暁には、次こそキミの〈意味〉もろとも、この辞書界から滅してあげるんだな」
可愛く言ったつもりでも、ランマとソカにはそれが伝わっていない。二語句とも怖い顔をして、クウに凄んでいる。それでもクウは、ふっと笑った。
「それじゃ、散っ……」
忍者らしく、その場から消え去ったクウに、「はああ」とシンエンがその場に崩れ落ちた。
「シンエン先生っ……」
「す、すみません。今度こそ駄目だと思ったもので……」
「今度こそって、前からアイツに狙われてたってコトか?」
「はい。私が煩悩まみれになるよう、自らの〈意味〉に執着したので……」
もっと売れる作品を書かなきゃ! もっとたくさんの欲望渦巻くサスペンスを! 心の機微じゃなくて、欲望そのものを書かなくちゃ!
そんな風に自分を追い込み、自らの〈意味〉を最大限に生かすため、無理やりにでも煩悩を引き出した。
「そうしたら、あの少年に着け狙われるようになって……」
「アイツもまた仏教派生組なんだろ? まあ、その〈意味〉からして、お前サンとは真逆の〈語句〉なんだろうが」
「ええ。彼らは仏教派生組の中でも、忠実に己の〈意味〉を守り、仏の道に背く煩悩をこの世界から取り除こうとしているんです。私のような〈語句〉は、彼らにとって、目障りでしかないのでしょう……」
「シンエン先生……」
「私の【馬】も【猿】も、元は人間の欲望が暴れる様を現したもの。それが煩悩となって、抑えきれない様子をたとえているのが、私の本当の〈意味〉。けど、私は自らの煩悩によって生み出された作品ではなく、私の【意】や【心】から生み出された作品こそ、本当に書きたいと思うものなんです」
切実に訴えるシンエン。その手を、ソカがそっと握った。
「ソカさん……」
「あなたは僕の依頼人です。最後まであなたが納得できるよう依頼を叶えることが、僕の仕事です。だからシンエン先生、あなたが本当に書きたいと思うものを教えてください。僕に出来ることは何でもしますから」
穏やかなソカの笑顔に、シンエンは自らの胸に問いかけた。
「私が本当に書きたいもの。それは——」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます