第42話 前哨戦は終わった
大石は、朝から大忙しだった。今日、十一月十八日は、古島市長選挙の立候補予定者説明会の日であった。
「大石! そっちのテーブル、ここに持ってきてくれ」
小笠原の声が飛ぶ。
大石はテーブルを移動し、指示された場所へ運び込んだ。
「よし、おそらく出席は二陣営、現職と、革新系からの新人さんだと想定される。テーブルは四つ用意しておけば、足りるだろう」
てきぱきと、小笠原は指示を出した。
――今のところ、野党の新人さん以外に立候補を表明している人は、いないんだよね。このまま、結果の見えている一騎打ちってところかな。
窓を開けて舞い上がった埃の換気をしながら、大石は、ふと空を見上げた。
朝晩は、かなり空気が冷たくなってきた。間もなく、本格的な冬が訪れる。春の選挙と比べ、冬の選挙は、暖房の心配をする必要があるなど、あれこれ勝手の違う部分がある。
「同じ選挙など一つもないわよ」と天野には言われたが、確かに、選挙によって作らなければならない書類も異なれば、執行される季節もばらばらだ。市議選の経験を生かしつつも、市長選ならではの新しい要素を、どんどん身につけていかなければならない。
流れる雲をじっと眺めつつ、大きく深呼吸をした。新たな戦いを前に、しっかりと気合を入れ直さねば、と。
「大石。そろそろ時間になるから、受付に入ってくれ」
大石は「わかりました」と応じると、窓を閉め、受付に立った。
開会二十分前、さっそく革新系の新人がやってきた。
「こちらの受付簿に、記入をお願いします」
「ご苦労様、いろいろお手間を掛けさせると思いますが、よろしくお願いします」
新人さん――四十代と思われる――が、にっこりと笑いかけてきた。物腰の柔らかな人のようだった。
――よかった……。また櫛山みたいな人物が現れたら、どうしようかと思ったよ。
新人は受付を済ませると、会場の最前列へと座った。
「お、ご苦労さん。受付は、ここでいいのかな?」
市長が現れた。選管委員や市議などには、もちろん礼を持って丁寧に接するが、職員に対しては気さくな人物だった。傍らには、小池議長の参謀を務めていた森田もいた。前回の市長選でも市長を助けていたらしいので、今回も協力をするのだろう。
大石は、森田とも軽く会釈を交わした。
「やはり、予想どおり野党系の新人さんが一人、か」
受付簿に記入しつつ、市長は呟いた。表情は明るい、余裕の表れなのだろう。
「今のところは。我々も、他に立候補の話は聞いていないので、おそらくは一騎打ちかと思いますよ」
市長は頷き、新人の後ろに着席した。
大石は腕時計を確認すると、九時五十五分を指していた。説明会は十時からだ。間もなく、時間になる。
――さて、そろそろ受付は撤収するかな。
受付簿を片付けようと、大石が下を向くや、不意に声を掛けられた。
「久しぶりだな」
低く冷たい声だった。
大石は悪寒を感じ、手のひらにべっとりと汗が湧き出てきたのを感じた。体が震え出す。
「説明会に参加したい。ここに記入すればいいんだな」
大石は、ゆっくりと、できるだけゆっくりと顔を上げた。
――櫛山……。
絶句した。心臓の鼓動が早くなり、苦しささえ覚えた。震えが、止まらない。
――どうして。古島を出て行ったんじゃないのか?
「受付表は書いたぞ。さっさと資料をよこせ」
呆然と、大石は言われるがまま、震える手で櫛山に資料を渡した。
――お、落ち着け、大石。動揺するな。
大石は必死で自身に言い聞かせた。櫛山の雰囲気に呑まれたら駄目だ、と。
櫛山は資料を引ったくると、悠然と会場内に入り、市長の後ろの席へと座った。会場内から、ざわついた声が聞こえた。
当然だろう。いるはずのない人物が、現れたのだから。特に、小池の参謀を努めた森田の狼狽振りがひどかった。森田は頭を抱えて会場を飛び出すと、トイレに消えていった。
――森田さんも、櫛山には一杯を食わされているから、心中かなり穏やかじゃないだろう。
「何で、櫛山がいるんだ?」
控え室から出てきた小笠原が、会場の櫛山に気付いて囁いてきた。
「わかりません。ただ、受付を済ませたので、市長選に出るつもりなのは、間違いなさそうなんですが……」
「なんてこった。てっきり、古臭い因習に縛られた古島に嫌気が差して本土へ逃げ帰ったものとばかり思っていたけど、どうやら、違うみたいだな」
小笠原は、力なく首を左右に振った。
――え? どういうことだ?
わけのわからない大石は、首を傾げた。小笠原は、いったい何を言っているんだろう。
「オレの推測だけど、ヤツは最初から市長選が目的だったんじゃないかと思うんだ。市議については、なれればラッキー程度で」
――最初から市長選が目的……。そんな、まさか。
にわかには信じがたく、大石は、ぽかんと口を開けるしかなかった。
「市長選に出る以上は、もはや勝とうが負けようが、市議選の裁判を長引かせて、無駄に訴訟費用を掛ける意味合いがなくなったんだろう。裁判費用を、市長選の選挙運動に使ったほうが、よほど有意義だしな」
話しながら、自説に自信が持てるようになってきたのか、小笠原は声の調子を次第に上げてきた。
「住所を古島から抜いたのも、他の陣営を油断させるために違いない。もう、古島には興味がないポーズには、なるからな。実際、オレたちは皆、櫛山はもう古島とは縁を切ったと、すっかり安心しきっていた。ヤツの作戦勝ちさ」
「そうか……。市長選には、住所要件ありませんしね。古島市在住じゃなくても、立候補はできる」
小笠原は渋面を浮かべ、頷いた。
「要は、市長選を睨んだ、櫛山の巧みな事前運動だったんだろう。売名目的の、な。オレたちは、まんまと騙されたんだ」
最後に、小笠原は吐き捨てた。
なんということだ。古島の騒動は、まだ治まってなんかいなかった。いや、むしろ、これからが本番なのかもしれない。
――櫛山英作……。一筋縄では、いかないな。
会場に目を移し、壇上で説明をしている児玉を睨むように見つめている櫛山の姿を注視すると、大石は、頭を振り、ギュッと拳を握り締めた。
――いつまでもびくびくしているボクじゃない。ドンと来い。受けて立ってやる。
END
皇帝の乱 ふみきり @k-fumifumi
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