第41話 皇帝、去る……

 小池が上告し、一週間が経った。大石は、忙しく書類の整理をしていた。

 不意に、電話が鳴った。コール音から、どうやら内線電話のようだ。整理の手を止めると、大石は受話器を取った。


「市民課です。実は、櫛山さんの件なのですが」


 ――櫛山の件で、市民課が何の用件だろう……。


 大石は首を捻った。


「櫛山英作さん、確か今、市議選関係で係争中でしたよね。先ほど、古島市外への転出届が出されました。念のため、お伝えしておきます」


 ――えぇっ! 櫛山が古島を出て行った?


 信じがたい知らせに、度肝を抜かされた。まだ訴訟が続いているのに、住所を抜くとは。全く考えもしていなかった事態だった。

 大石は呆然と受話器を置き、天野へ顔を向けた。


「局長、市民課からだったんですが、思いもよらない情報が……」


 意表を突かれたために声が裏返った。


「どうしたの? 落ち着きなさい」


 大石の只事ではない様子に、天野は眉を顰めた。


「櫛山が……、櫛山が古島から転出したそうです……」


 全員が絶句して、沈黙が事務局内を支配した。


「ちょっと、からかうのは――」


「からかっていませんって!」


 慌てふためいた天野に、即座に大石は否定をした。


「おいおい、まだ係争中だぜ。状況が不利なわけでもないのになんなんだよ。古臭い田舎丸出しの古島に嫌気でも差したのか? やはり、本土のほうがいいってか? あんな高級マンションに住んでいたくらいだしな。くそっ、とんだ市議会議員候補者様だな」


 小笠原は、侮蔑と、若干の怒りを交えたような表情を浮かべていた。


 ――ほいほいと出て行ける程度にしか、古島を想っていなかったって話だよな。その程度の覚悟で、市議になろうとするなとしか、言えないよ。


 悩みの原因が去った事実は、喜ばしかった。だが、この居た堪れない思いは何だ。大石は、故郷を馬鹿にされたような気がしてならなかった。


「初穂市の高級マンションを借りっぱなしにしていた理由が、古島が嫌になったらさっさと逃げ帰れるようするためだったとは……」


 なんとも腹立たしく、馬鹿馬鹿しい理由だったとわかり、大石は呆れるしかなかった。


「古島市外に転出すれば、公選法第九十九条で、その時点で当選人としての身分は失う。たとえ最高裁で櫛山が勝ったとしても、当選人の身分はないんだから、もう裁判の意味はなくなるね」


 児玉が静かに話し出した。しかし、静かではあったが、怒気も含まれているように感じた。


「勝ち目のある裁判をほっぽり投げてでも、古島の生活には、何の魅力も感じなくなったんだろうな。なんか、悔しいよね……」


 ずいぶんと気分を害しているのか、児玉は顔を顰めていた。

 大石はもちろん、天野も、児玉も、小笠原も、皆が古島に生まれ、古島で育ってきた。大切な故郷であった。

 表情を窺うと、皆、大石と同様に憤っているに違いないと感じられた。故郷を貶められた、と。


「どちらにしても、もう櫛山さんは市外へ出て行った。振り回されるような事態にはならないわ。頭を切り替えて、クリスマス選挙、市長選を頑張りましょう」


 天野は、大石らの気持ちを切り替えさせようと、大きく手を叩いた。



 森田は耳を疑った。


 ――櫛山が、古島から出て行った?


 何が何だか、皆目わからない。まだ上告審が係争中だ。いったい、櫛山の心境に、どのような変化があったのだろうか。何か裏があるのではないかと、森田は、つい疑心暗鬼になった。


「森田もいろいろと思うところがあるだろうが、今までどおりの古島に戻ったんだ。思い悩む必要は、全然ないよ」


 小池が温かい声を掛けてきた。

 よほど困惑のために醜態を曝したのだろうか。森田は、羞恥を覚え、顔が熱くなるのを感じた。


「そう、ですよね。すみません。全く考えもしていなかった話でしたので」


「気持ちを切り替えよう。当選人たる櫛山が、市外転出で当選人の資格を喪失したんだ。裁判も終わる。スッキリしない結果だが、私たちの当選には変わりない」


 小池も、口では気持ちを切り替えるように言ってはいるが、どうにも釈然としない顔を浮かべていた。


「市長選も目前に迫ってきた。森田には、また現職の手伝いをしてもらう手筈になっているから、今のうちに、しっかりと体を休めておいてほしいんだ」


 小池の言うように、モヤモヤした結末ではあった。しかし、小池が当選人に確定した事実に変わりはない。気にしすぎることは、ないだろう。

 間もなく本格的に市長選の準備が始まる。森田は、四年前と同様、現市長の陣営の手伝いをする話になっていた。ほぼ、現職の勝利が見えているとはいえ、何があっても困らないよう、準備は入念にしなければならない。


 ――もう、櫛山については、あれやこれやと考えないようにしましょう。私たち常人には理解不能な男だったと割り切って……。忘れるに、限るわ。


 森田は頭を振り、脳裏からニット帽の姿を消し去った。

 脳のメモリーから削除をすると、森田の千々に乱れた思考は、整理し直され、はっきりとしてきた。気持ちの切り替えは、できた。


 ――所詮は余所者。古島には何の愛着もなかったのね。斯様な人間に、古島を荒らされずに済んで、本当に良かったわ。


 机上のコーヒーカップを手に取り、冷めかけのコーヒーをグイッと一気に飲み干すと、森田は思わず、ホッと一つ溜息がこぼれた。


 ――さぁ、市長選よ。

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