第39話 東京高等裁判所

 傍聴席に座る森田は、原告席に座る小池の姿を見守った。東京高等裁判所、午前十時三十分、第二回の口頭弁論が始まった。

 周囲を見渡すと、傍聴席には森田と若林以外に、古島市選管委員長の長谷川と、古島市副市長および随行の職員数名の姿が見受けられた。


 ――古島市にとって、重大事ですものね。


 小池は第一回口頭弁論で、櫛山には古島市の居住実態がなく、被選挙権は否定されるべきであり、都選管の裁決は立候補の資格のない者を当選人と定めたものなので、取り消されるべきであるとの答弁書を提出した。

 都選管側は、櫛山の居住実態の問題を訴状で初めて知ったのだろう。答弁書は『追って主張する』としていた。今日の第二回で、都選管側の反論がわかるだろう。

 また、櫛山についても、大いに利害関係のある話であり、櫛山から補助参加人としての訴訟への参加請求がなされ、認められた。

 今回の訴訟の場合、都選管の裁決の取り消しを求めるものであるため、あくまで被告は都選管だった。当選人たる櫛山は、利害関係はあるが、被告にはなり得なかった。

 しかし、これでは、自らの身分に影響を及ぼす可能性があるのに、反論を述べる機会を持てない。そこで、被告としては当事者適格はないが、被告の補助参加人としては参加が可能なため、櫛山は補助参加人としての参加を求めた。

 また、当選無効訴訟は補助参加に関して、共同訴訟的補助参加であるとし、たとえ被告が原告主張の事実を全部すっかり認めたとしても、補助参加人が争う行為も認められていた。


 ――さて、私たちの主張に、どう返してくるかしら。


 固唾を呑んで、法廷をじっと注視した。

 都選管の反論は――、小池の主張を全面的に認め、争わなかった。


「ふざけるな! オレが一月に初穂市内にいたと、事実を証明してみろ」


 都選管が小池の主張を認めたと知るや、櫛山は血相を変え、喚いた。

 都選管は櫛山には気を払わず、淡々と自らの判断理由を述べ始めた。


「古島市選管の協力を仰ぎ、櫛山氏の生活の実態を調査しました。まず、光熱水費の使用実態についてですが、住所要件の判定に関わる一月の使用状況は、古島市、初穂市両地ともに、相当量ありました。ここで、実際にどちらで寝食をしていたか、考えてみます。まず、日々の使用状況を確認しますと、初穂市では毎日ある程度の変化が見られ、古島市では、ほぼ一定になっています。実際に生活をして、日々の使用量に全く変化のない状況を考えられるでしょうか。古島市での光熱水費の使用実態には、全く『生活感』を感じられません。むしろ、何らかの工作を行っているのではないかとさえ疑われます。従って、初穂市に生活の実態があったに違いないと結論付けられます」


 都選管――三十代後半と思しき女性が担当していた――は、手元の資料を読み上げている。法廷は初めてなのだろうか、遠目でも固くなっている様子が窺えたが、声には淀みがなかった。


「次に、古島市によると、一月十七日、櫛山氏の住所を管轄する自治会の自治会長より、何度訪問しても十二月に新たに転入してきた櫛山氏と一向に連絡が取れないと、地域振興課へ相談がありました。地域振興課は市民課へ通報し、市民課は住民票の職権消除を行うための実態調査が必要と判断しました。一月三十一日を期限とした調査文書を一月十八日に郵送、櫛山氏から期限までの回答は、ありませんでした」


 法廷に、都選管職員の高く澄んだ声が響き渡る。櫛山は、旗色の悪い状況のため、眉間に皺を寄せていた。


「二月四日、市民課職員による現況確認時も、生活の様子は全く窺われず、二月十一日付での職権消除を決定しました。ところが、二月八日、櫛山氏より、調査文書の回答書が送られ、一転、職権消除は見送られました。回答文書が送付された封筒の消印は、古島郵便局二月七日付です。ここで、我々は、職権で住民票を抹消する旨の重要文書に、理由もなく回答を行わないのは考えにくいと考えました。長期で家を空けていた櫛山氏が、二月七日に、自宅宛に調査文書が届けられていることに気付き、慌てて投函をしたと考えられます。仮に旅行に行っていたにしても、転入して即、一月以上も空ける状況は、あまりに不可解です。つまり、櫛山氏が、実際は古島市に生活の実態を置いていなかったため、対応が一切できなかったに違いないと結論付けられます」


 一つ呼吸を置き、都選管職員は、声のトーンを上げた。櫛山はしきりに目を泳がせているようだった。


「最後に、同時期に、初穂市で櫛山氏より五度の文書開示請求が行われており、いずれも窓口で直接行ったとの記録が残っていました。また、初穂市市民課、税務課においても、櫛山氏は幾度となく顔を見せ、各課長による詳細な交渉記録も、残っていました。古島との交通の状況、往復時間などを考えれば、初穂市に生活の本拠があるに違いないと結論付けられます」


 顔を赤く染めていく櫛山の姿が目に入った。全身を震わせ、今にも爆発するのではないかと思うほど、興奮をしているようだった。


「以上から、櫛山氏は、外形的に転入の形を整えさえすればよいと安易に考え、ただ被選挙権を得る目的で、古島に生活をする気がないにもかかわらず形式的な転入手続きを行ったとしか、考えられません。いくら櫛山氏が古島市内に生活の本拠を置いていたと主張したとしても、調査で積み上げた事実、状況を考えると、都選管としては、櫛山氏の住所は、実態調査の回答文書を古島市内で投函した二月七日以前は、初穂市にあると判断せざるを得ません。同日の、立候補予定者説明会に合わせて、初穂市から古島市に生活の本拠を移したことは、明白です」


 都選管は、はっきりと、小池の主張を認めた。


 ――やったわ。もう、勝ったも同然ね。


 あとは裁判所の判断だが、都選管と櫛山の言い分、どちらに説得力があるかは……。

 森田は、小躍りして喜んだ。

 副市長や長谷川も、しきりに頷いていた。特に、長谷川はホッとしているだろう。経過はどうであれ、当選人が当初の開票結果どおりに落ち着きそうなのだから。


「若林君、あなたの作戦が、見事に嵌ったわね」


 森田は隣席の若林に、そっと耳打ちをした。つい弾みそうな声を、抑えるのが大変だった。


「それにしても、最初は気乗りしなかったネガティブ・キャンペーンですが、結果的には大成功でしたね。あのとき、もし櫛山の身辺調査を詳しくやっていなかったら、居住の実態の問題には、思い至らなかったと思いますし」


 満面の笑みを浮かべて若林は興奮気味に喋った。自らの思いつきで小池を救えた結果がよほど嬉しいのか、徐々に声量を増してきたので、森田は慌てて若林を落ち着かせた。


 ――さすがの若林君も、よほど嬉しいようね。まるで子供みたい。


 森田は目を細めた。喜ぶ若林を見て、森田の愉悦感もますます強まった。

 住民票を動かして光熱水費も払っているんだから、居住の実態はあるだろうと、焦りの色を浮かべ、怒鳴り散らし気味に陳述をしている櫛山の姿を眼にした森田は、改めて小池の勝利を確信した。


 ――櫛山、無様ね。最後には、私たちが勝つ。


 歓喜に震える手を、森田は必死に抑えた。だが、込み上げる薄ら笑いまでは、抑え切れなかった。

 閉廷後に森田は、小池や若林と、若干ながら気は早いが、ささやかな祝勝会を銀座で上げ、ほぼ手中にした勝利を祝った。

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