第36話 勝負は高裁へ
大石は、都選管からの電話を受けていた。都選管の裁決の告示からは十日あまりが経過していた。
「やはり小池さん、提訴しましたか」
「えぇ、それでですね。今日お電話したのは、一つ、市選管さんに調査をお願いしたいものがありまして」
――調査? 何の話だろう。
訝りながら、関口の二の句を待った。
「櫛山さんが古島に居住の実体がなかったのではないかと、小池さんが主張しているんです」
――え?
思わず受話器を落としそうになり、大石は慌てて掴み直す。聞き間違いではないだろうか、と耳を疑った。
――古島に住んでいなかったなんて、そんな馬鹿な話があるのか?
「ど、どういうことですか?」
泡を食って、関口に詳しく説明を求めた。にわかには信じがたかった。
「小池さんの関係者が櫛山さんに関していろいろと調べていた中で、住民票を置いているアパートの住人の話から、櫛山さんが実際に古島に住み始めた時期が、選挙二ヶ月前の立候補予定者説明会の頃だとわかった、と主張しているんです」
――つまり、三ヶ月の住所要件を満たしていなかったっていうのか。
たまにニュースで、地方議員の住所要件に疑義があるのでは、と揉めている事件を耳にする。このようなニュースが流れると、あの国会議員は地元に住所がないぞ、と騒ぎ出す人をよく見かける。
しかし、国会議員や、地方自治体の首長は、被選挙権に国籍要件と年齢要件しかなく、住所要件はない。
地方議会の議員の被選挙権に、特に、住所要件があるのは、地方公共団体が地縁的社会であるという特性を考慮したためであり、住所要件を満たすためには、引き続き三ヶ月以上該当の区域に住所を有する必要がある。
「住民票だけを古島に異動し、体は前住所のままだった可能性があります。住所については、形式的な判断ではなく、実際に生活の本拠があったのかどうかが重要となってきますので、実態調査をお願いしたいのです」
――住所があったと言えるかどうか、詳しい調査を行わなければならない、という話だな。
「わかりました。事務局内で協議し、必要な調査を行ないます」
「お手数をお掛けします。よろしく、お願いしますね」
関口は電話を切った。
「都選管から?」
目の前に座った小笠原が尋ねてきた。小笠原の自席は、大石の席の対面であり、大石と向かい合うように座っている。
「関口さんからでした。なんでも、小池さんが櫛山の住所について疑義があると主張をしているらしくて――」
大石は、関口から聞いた話を、掻い摘んで小笠原に説明した。
「なるほど……。実態調査ね」
小笠原は腕を組み、なにやら考え込んでいた。
――何を考えているんだ、先輩。
小笠原はニヤリと笑うと、大石の顔をじっと見やった。大石は、嫌な予感がした。こんな顔をするときは、たいてい小笠原は……。
「大石。住所の考え方は研修で習っただろう? 覚えているか?」
やはり、試してきた。
――住所要件って、基本は住民票を元にしているから、実は、細かい部分はあまり覚えていないんだよな。
背中に冷や汗をかいた。慌てて、大石は研修で使った資料を机の引き出しから引っ張り出して確認した。
「えぇっと、住所は、事実上の生活の本拠で、形式上の手続きによって決まるものではないとされています。特に選挙については、必ず一箇所に限定すべきとされていますね」
小笠原は頷いた。
「あぁ、そうだな。選挙は、複数の住所を持つと、二重投票等の危険性も出てくるし、重要な問題だ。住所に関する考え方は、それでいい。では、住所を認定するためには、どんな点に注意が必要だ?」
どうやら、間違ってはいなかったようだ。ホッと胸を撫で下ろした。
「選挙では『一定の場所との特別の結合関係の有無の事実』に対して選挙権を付与します。この事実があるかどうかは、客観的事実によって判断する必要があるので、あくまで、本人の意思は、その判断のための一資料として考慮するに留まるとされていますね」
「主観的な意思ではなく、客観的事実を重要視する必要があるって話だよな」
――住所認定のあたりは、もうすっかり忘れていた。櫛山のおかげで、いい復習ができたよ。
大石は勉強不足を思い知らされ、苦笑した。このような、細かいけれど、重要な問題についても、きちんと理解をしておかねばならない、と。
「では、判断すべき客観的な事実って、いったいどんなものがある?」
「起居、寝食、家族同居の事実が最も重視されていて、『たとえ他に事務所を有し、そこで社交上、経済上、政治上の活動を営んでいるとしても、それだけでは、そこに住所があるとはいえない』とされているんですよね」
「よし、上出来だ。まぁ、簡潔に纏めれば、形だけ住民票を移しました、形だけアパートを借りました、では駄目って話だ。きちんと、その場所で寝起きをし、食事を摂ったりと、きちんとした生活の実態があるかどうかが、重要なんだ」
どうやら、この辺りの実態の調査が、必要となるのだろう。
――手間の掛かりそうな調査になるな。
大石は小笠原に礼を言うと、関口からの調査依頼について、天野に報告をした。
天野は、すぐさま事務局の全職員を集めると、櫛山の居住実態に関する調査方針を示した。
「公選法上、選管には選挙人名簿の登録のための資格調査権限が与えられているわ。ここを見て」
天野は、公職選挙法令集を取り出し、付箋の貼ったページを開いた。
「公選法施行令第十条の二第二項で、被登録資格の確認のために、関係人に出頭を求めたり、資料の提出を要求できると規定されているわ」
法令集を閉じると、天野は、大石と小笠原に視線を送った。
「大石さん、小笠原さん。この条項を根拠に、櫛山さんの光熱水費の使用実態を調べてほしいの」
常時詳しい実態の調査が行えればいいのだろうが、予算的にも、人員体制的にも現実的には難しい。そもそも『選挙人名簿の登録は、住民基本台帳に記録されている者で選挙権を有する者について行う』と住民基本台帳法十五条で定められているので、実務上は住所の認定については、住民基本台帳法の定めから住民課の判断を尊重する形を取っている。
櫛山の件のように、住所の認定に疑義がある場合のみ、詳しく調査をする形を取らざるを得なかった。
「転入届出日以降の毎月の使用量等の資料を、請求して確認するわけですね」
大石が確認をすると、天野は首肯した。
「資料を見て、通常の生活をしているとは思えないような使用状況であれば、居住の実態無しとして判断できるわね」
大石は小笠原と顔を見合わせ、頷いた。
「じゃ、悪いけれど、お願いするわ」
大石らは、「わかりました」と応じ、打合せは解散となった。
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