第八章 住所は正当か

第35話 居住実態

 森田は自席へ座り、焦点の定まらない、ぼんやりとした視線を窓の外へ向けていた。

 思いもよらずひっくり返された結果を眼前に突きつけられた森田は、色を失い、呆然として、小池に慰められつつ後援会事務所に戻ってきた。


 ――私よりも、先生のほうがもっと落胆しているはずなのに。これじゃ、駄目よね……。


 小池を補佐する立場たっだはずが、逆に、小池に心配をさせてしまう結果となった。森田は羞恥のあまり、頭を抱えた。


「さて、これからどうするか、だが」


 ソファーに深く腰を下ろし、背凭れに凭れ掛かっている小池が、低い声で話し出した。


「都選管の審査の説明を聞いた限りでは、正直なところ、再逆転は難しいかもしれない。だが、訴訟継続中は、現在の身分が保証されるので、わずかでも櫛山の議員就任を遅らせる目的で、高裁へ提訴する意味は、大いにあると思う。皆の意見は、どうだ」


 小池は、森田と若林に目をやった。


「ありだと、思います。私も先生の仰るとおり、再逆転が厳しかろうとも、高裁への提訴は、すべきかと」


 ――訴訟が長引けば、櫛山逆転の結果の確定は遅らせられるわ。ささやかかもしれないけれども、たとえわずかでも、抵抗しておきたい。無駄な足掻きと笑われてもいい、古島のために、このまま、すんなりとヤツを議員にさせたりはしない。


 森田は頷くと腰を上げ、小池のそばに立った。


「若林君は、どう思う」


 小池の問いかけに、若林は目を閉じ、顎に手を置きながら、なにやら深く考え込んでいるようだった。


 ――何か、考えでもあるのかしら。


 訝しがりながら、若林の姿を注視した。


「先生、実は、ネガティブ・キャンペーンのために櫛山の身辺を洗っている最中、気になる話を聞いたんです」


 若林は静かに目を開くと、躊躇いがちに話しだした。


「櫛山が住民票を置いているアパートに聞き込みに行った時の話なのですが、近所の住民の話ですと、櫛山が実際にアパートに姿を見せ始めたのは、二月の上旬。つまり、立候補予定者説明会頃らしいんです」


 若林の話を聞き、森田はピンと来た。


 ――居住実体がなかった。とすると。


「立候補するための、被選挙権がなかった。こう言いたいのね、若林君」


 若林は、満足げに頷いた。


「さすが森田さん、仰るとおりです。居住実態について高裁で主張をすれば、上手くいけば櫛山の被選挙権が否定され、都選管の審査の裁決が取り消される可能性が、出てくるのではないかと」


 自らの思いつきに自信があるのか、若林はニヤリと笑った。


 ――さすがは若林君ね。居住要件にまで、きちんと気が回っているなんて。


 細かいところまで目が届く自身の片腕に、森田は心強さを感じた。


「まだまだ、再逆転の目はあるな、若林君」


 小池も、気力が蘇ってきたのか、表情は明るい。


「選管の調査しだいでは、大いにありうるかと」


「では、高裁提訴を行いましょう。戦略は、若林君の提案する、櫛山の居住実態を攻める方向で。櫛山には候補者たる資格がないため、都選管の裁決は無効である、と主張しましょう」


 森田が方針の確認をすると、小池も若林も同意した。


 ――再逆転へ、曙光を見出せそうね。


 一度は落胆し、気の抜ける思いをした森田だったが、眼前に新たな可能性を見つけ、全身に再び一歩を踏み出すための力が蘇ってくる感覚を覚えた。

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