第34話 覆る結果

 都選管による票の点検作業が続いていた。

 大石は、先ほどからいやに胸騒ぎがし、周囲を窺った。櫛山の姿が目に入り、気になった大石は櫛山の表情をそっと確認した。

 櫛山は、笑っていた……。胸騒ぎの原因は、櫛山か。


 ――意気消沈している局長の姿を見て、さては事情を察したな。


「櫛山のヤツ、笑っているぞ」


 小笠原には珍しく、怒気を孕んだような表情を浮かべていた。


「見ろよ、『どうだ、オレの勝ちだろう』と言わんばかりの、あの顔」


 馬鹿にされていると思ったのだろう、小笠原は櫛山を睨みつけていた。

 大石も、確かに胸糞が悪くなった。いちいち癇に障る男だ。あまりにも、大石たちとは相性が悪すぎた。


「でも実際、強気でヤツの主張を突っぱねた経緯もあって、笑われても仕方がない部分はありますよね。むちゃくちゃ悔しいけれど……」


 小笠原も、やはり痛い部分なのだろう、沈黙した。

 大石は視線を都選管へと戻し、再び作業を注視した。

 テーブルを見ると、どうやら、審査は残り数票まで進んでいた。実例判例集と首っ引きになりながら、議論をしている様子が窺えた。


 ――議論? もしかして、また何か見つかったのか?


 一票では終わらない雰囲気に、天野と児玉の顔がますます強張ってきたのがわかる。小笠原も溜息をついていた。周囲の空気が、凍りついた。もう一波乱ありそうだと、大石は生唾を飲み込んだ。

 集まっていた都選管職員たちは議論の声を止め、全員で一つ頷くと、関口が再び大石たちに声を掛けてきた。


「市選管の皆さん、すみません。もう一度、いいですか?」


 大石は関口の言葉に、心臓が跳ね上がりそうな感覚を覚えた。額から垂れる脂汗を袖で拭き取り、落ち着かせるように、一つ大きく息を吐いた。


 ――もう、どうにでもなれっ。


 大石は、やけくそ気味に覚悟を決め、関口の呼び掛けに応じた。

 大石らが集まるのを確認した関口は、一枚の票を指し示した。


『小   長』


 ――あっ、この票は!


 瞬間、天野の顔が引き攣る様子を目にした。

 開票時に、最後の最後まで残った一票だった。判断に最後まで迷ったこの票も、駄目だったというのだろうか。


「こ、この票の判断に、いったい何か?」


 震える声で、天野は関口に問い質した。

 天野の動揺が、大石にもはっきりと伝わってきた。


「この票は、小池候補の有効票となっていました。根拠を確認させてください」


 関口は、申し訳なさそうな顔を浮かべていた。関口の表情から、大石は、どうやらこの票も残念な結果になりそうだと感じ取ってしまった。


「私たちの判断は、『小池議長』と書こうとしたところの、『池』と『議』の二字が脱落したものとし、小池候補の有効としました」


 都選管の職員たちは腕を組み、しばし考え込んだ。


 ――駄目、なのか? 小池さんの有効票じゃなくなると、くじ引きどころじゃない。櫛山の文句なしの逆転当選となるぞ……。

 考えたくない。そんなはずはない。もう一度、よく見てくれ。様々な思いが、大石の胸に浮かんでは、消えていった。


「実は……、大変、申し上げにくいのですが、このような事例がありまして……」


 関口は、一つの冊子を取り出した。どうやら、投票の効力判定に関する判例を独自に纏めた資料のようだった。


「この例は『林谷 主計』という候補者のいる選挙で、『林   長』と記載された票についての判定なのですが、林谷候補は現職の市長で、また、『林長』の姓は候補者中にはいないという状況です。また、文字は明瞭に書かれていたそうです。仙台高裁は、この事例に対し、かなりの字が欠けており、『林谷市長』と書こうとして二字が脱落したとは考えられない、と判断、記載が不明瞭な投票として無効としました」


 天野は頭を抱えた。今の説明を聞く限りでは、指摘を受けた票は……。


「さて、問題の票ですが、候補者名は『小池 栄作』さん。小池候補は現職の市議会議長でしたよね? また、候補者中に『小長』という名の方もいらっしゃらない。字は、確かに、それほど明瞭とはいえないかもしれません。しかし、字間があまりに開きすぎています。とすると、この『小   長』も、今あげた事例と、同じように考えられませんか?」


 ――関口さんの言うとおりだ。無効にせざるを得ない……。


 大石は、横目で天野や児玉の姿を窺った。

 天野は口を半開きにしたまま、言葉を失っていた。児玉も、天を仰ぎ見ている。


 ――櫛山の逆転だ。局長も、辛いだろう。


「疲労の極限の中、必死で遺漏のないよう開票事務をなされている状況を、我々も重々承知しています。ですから、このような結論を下すのは、非常に、非常に心苦しいのです。しかし、過去の事例、判例を精査すると、今お話したとおりの、残念な結論を、申し上げざるを得ません」


 都選管の審査は、どうやら今の票で最後だったようだ。最終的な結論としては、次のとおりとなった。


○選挙会決定

 小池 栄作  二百十票 当選

 櫛山 英作  二百九票

○今回審査による修正後

 小池 栄作  二百九票

 櫛山 英作  二百十票 当選


 都選管の選挙課長が各陣営を呼び、審査の結果について説明を始めた。

 逆転という思いもよらない結果に、当然のように両陣営とも真逆の反応を示した。大石は、青褪めている小池と、頬を上気させている櫛山を、交互に見やった。複雑な気持ちだ。


「私が……、落選?」


 小池が呆然と口にした。隣に立つ小池の参謀の森田も、「嘘よ……」と頭を抱えていた。


「そら、見たか! やはり、オレが当選だったじゃないか。まさに、『正義は勝つ』ってやつだな」


 櫛山は高笑いをして、吼えた。


「どうだ、クソ婆あ。いくらあんたが屁理屈を捏ねたところで、オレ様が正しい厳然たる事実は、変わらないんだよ」


 天野は悔しさに体を震わせていた。顔も真っ赤に、血管が切れんばかりに筋を立てていた。

 いつもの天野であれば、確実にヒステリック・スイッチが入り、大暴れするところだろう。だが、今この状況では、さすがに暴れるような真似はできなかった。グッと堪えている様子が、大石にもよくわかった。


「今日は久しぶりに気分がいい。一杯、引っ掛けて、祝勝会でもやるかな」


 櫛山はケラケラ笑いながら、会議室を出て行った。


「議長、すみません……」


 茫然自失の天野に代わり、児玉が小池に謝罪をした。


「いや、私の実力不足だったんだ。気にするな」


 小池は首を横に振った。


「私たちは、これから支持者と今後について相談しなければならない。失礼するよ」


 小池は、森田と若林を引き連れ、帰って行った。


 ――小池さんも辛いところだろうに、懐の、深い人だ。


 小池の後ろ姿が、大石にはいつも以上に大きく感じられた。さすがに、議長を何期も務めただけの人物であった。


「長谷川委員長、申し訳ない」


 都選管の事務局長が、長谷川に謝罪をしていた。


「いえ、私たちのミスですから、お顔を上げてください」


「しかし……」


「これから、おそらく小池さんが高裁へ提訴するでしょう。そうなれば、また、都選管さんにご迷惑をお掛けする事態になりましょう。謝るのは、私たちのほうです」


 長谷川は頭を下げた。都選管の事務局長は、恐縮しきりであった。


「厄介な話になったな」


 小笠原が、長谷川らのやり取りを視界に入れつつ、大石に話し掛けてきた。


「えぇ……。こうまではっきりと根拠をつけて判定を覆されましたからね。小池さんが高裁に提訴しても、どうなるか……」


 ――最悪、櫛山の議員就任も、覚悟しないといけない。


 これから、古島市は、いったいどうなるのだろうか。大石は、先の読めない状況に、胸が締め付けられる思いだった。


 ――前向きに考えたい、でも、さすがに、状況が厳しすぎる。


 荒れ模様の外を見やり、大石は、込み上げてきた負の感情を、必死に振り払おうと、頭を強く振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る