第33話 混記無効

 都選管の連絡から、一週間後。大石は、古島市役所の会議室へ一堂に会した関係者を見わたした。荒天のため、室内は湿気で蒸し暑く、大石は袖をまくった。関係者も、皆上着は脱いでいた。

 市選管関係者のほかには、都選管から選管委員四名、事務局長、選挙課長、選挙係長、指導係長、指導担当係長四名、の計十二名。櫛山陣営は、櫛山本人のみ。小池陣営は、小池、森田、若林が姿を見せていた。


 ――やはり、櫛山は一人か。それにしても都選管は、ずいぶんと来たな。


 都選管は多くとも四~五人と思っていた大石には、意外だった。

 机上には、投票用紙が封印された袋と、選挙録等の開票関係書類が置かれていた。

 都選管の委員長が開始の合図をすると、都選管職員たちの手により、票の再点検が始まった。

 封印された袋を開き、疑問票扱いとなった票を取り出すと、分担して中身を確認していく。各々、ところどころ手を止めては、判例集等を確認していった。

 大石は審査の様子を、ただじっと注視していた。握った手のひらが汗ばみ、妙に気に障る。たまらず、ハンカチで拭き取るが、拭ったそばからまたジワリと染み出して、無性にイライラした。


 ――緊張するよなぁ……。


 都選管職員の手が止まるたびに、何かあったのかと、ひやひやした。審査が始まる前までは、自信を持っていたはずだが、いざ始まると、どうしても弱気が頭を擡げてくる。

 天野らも、審査の様子を固唾を呑んで見守っていた。皆、一様に心が騒いでいるだろう。

 一方、櫛山は、無表情で都選管職員のせわしなく動く手を見つめていた。


 ――櫛山……。いったい、今あいつは何を思う……。


 すっかり見慣れた黒尽くめの服装で直立し、一点を凝視している櫛山の姿を、大石は意識して視界に入れないようにしていた。うっかり見てしまえば、また雑念が湧いてくるに違いないと。


「おい、大石。あれ見ろよ」


 隣に立つ小笠原が耳打ちしてきた。小笠原が顎で指し示す方向へ視線を送ると、複数の都選管職員が集まり、どうやら一つの票を取り囲んでいるようだった。周囲とは明らかに空気が異なっている。張り詰めた空気、とでも言えばよいだろうか。


「なんでしょうね……。考えたくはないですが、おかしな票でも見つかったんでしょうか」


「わからないな。なんか、嫌な流れだ」


 小笠原は顔を曇らせた。


 ――まさか、判定が覆されるような事態には、ならないよな……。


 大石も顔を顰め、票を取り囲んでいる都選管職員を見守った。胸がざわついてくる。


「すみません、市選管の皆さん、少々よろしいですか?」


 関口が声を掛けてきた。


 ――嫌な予感の、的中か?


 気が重い。

 関口に呼応し、長谷川ら選管委員と、天野以下事務局職員が、都選管職員の集まるテーブルへと顔を揃えた。


「実は、この票なのですが……」


 関口は、取り囲んでいた票を指し示した。

 大石は覗き込み、内容を確認した。


『櫛山 栄作』


 ――これは、無効にした票かな?


 開票時の微かな記憶を、大石はどうにか呼び起こした。たしか、混記で無効にしたはず。


「無効票に含まれていた票です。無効と判定した理由を、確認させてもらってもいいですか?」


 関口は大石らに向き合うと、尋ねてきた。


「その票については、『小池 栄作』と『櫛山 英作』の、氏と名を取り違えた『混記投票』として、どちらに投票したかが判断しがたいと結論付け、無効にしました」


 関口ら都選管職員は、天野の説明に頷いた。


 ――なにやら、意味ありげな頷き方だ。やはり、何か問題でもあるのかな。


 気が張ってくる。目に脂汗が入りそうになり、すかさず大石は袖で拭った。


 ――落ち着け、落ち着け。


「実はですね。こういう事例があるんです」


 関口は、選挙関係実例判例集と書かれた本を取り出し、ページを捲った。


「『大内 博』と『大山 廣』という候補者に対し、『大内 廣』と『大山 博』と書かれた票があり、いずれも混記無効と判断したものを、前者は『大内 博』についての、後者は『大山 廣』についての、名を一字誤記したものとして有効とした国の判断があります」


 続いて、関口は別のページを捲った。


「同じような事例ですが、『落合 九一』と『田所 久一』という候補者に対して、『落合 久一』と『田所 九一』と書かれた票があり、やはりいずれも混記無効と判断したものを、前者は『落合 九一』についての、後者は『田所 久一』についての、名を一字誤記したものとして有効としたものもあります」


 関口の説明に、天野の顔が曇った。

 天野の顔色の変化に気付き、大石は、傍らの小笠原に尋ねた。


「これはいったい?」


「つまり、こういう話だろう」


 小笠原は、赤鉛筆を取り出し、端紙に走り書きをした。


○最初の事例

・候補者

 大内 博

 大山 廣

・投票用紙に記載された事項と判断

 大内 廣  混記無効→大内候補の名の一字誤記による有効

 大山 博  混記無効→大山候補の名の一字誤記による有効

○二番目の事例

・候補者

 落合 九一

 田所 久一

・投票用紙に記載された事項と判断

 落合 久一  混記無効→落合候補の名の一字誤記による有効

 田所 九一  混記無効→田所候補の名の一字誤記による有効

○今回の開票の事例

・候補者

 小池 栄作

 櫛山 英作

・投票用紙に記載された事項と判断

 櫛山 栄作  混記無効→?


 ――なるほど……。


「じゃあ、もしかして」


 大石の囁きに小笠原も、「おそらく、な……」と呟いた。考えたくなかった事態が、今まさに起ころうとしている目前の光景を、大石はただ呆然と見つめた。にわかには信じがたかった。


「以上を踏まえて、この『櫛山 栄作』と書かれた票を考えてみます。候補者は『小池 栄作』と『櫛山 英作』で、姓は全く異なり、名は、読みは同じですが、漢字が一字だけ違っています。これは、先ほど実例判例集でお示しした事例と、同じだと、我々は判断しました」


 ――やはり……。


 想像どおりだった。市選管の判定を、覆された。全身の力が抜けていった。


「つまり、混記無効とした私たちの判断は、誤っていたと……」


 力なく天野が呟いた。顔面蒼白になっている。


「残念ですが、我々の結論としては、この票は混記無効ではなく、櫛山候補の有効票と判断せざるを得ません」


「そう、ですか……。わかりました、そこまでの根拠があるならば、反論の余地はないですね……」


 言いにくい結論を申し訳なさそうに告げた関口に、天野はすっかり意気消沈していた。


「皆さんの判定を覆す結果になり、非常に心苦しいのですが……。ごめんなさい」


 頭を下げようとした関口を、児玉は慌てて制止した。


「いえ、我々の判断が甘すぎたんです。混記は無効と、頭から決め付けてしまっていた、我々の完全なミスです」


 児玉は力なく頭を左右に振った。


 ――これで、小池さんと櫛山が同数に並ぶ状況になったぞ。このまま確定すれば、最下位同数で、くじ引きで当選者を決する事態になる……。


 最下位が同数で並んだ場合は、選挙長によるくじ引きで当選者を決めなければならないと公職選挙法で定められていた。

 大石は、先日の開票作業時、万が一のためと、くじ棒およびくじの抽選録は会場に持ち込んでいた。使う事態が起こらないように祈りながら。

 幸いにも、使うような状況にはならなかったが、どうやら、出番が来そうな気配になった。まったく、うれしくもない話だ。


「それでは、我々は引き続き票の点検を続けます。すべての点検が終了してから、各陣営の関係者には説明します」


 関口は、呆然と立ち尽くしている天野に告げると、作業へと戻っていった。

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