第32話 審査申立

 異議の申出期間が経過した。結局、異議の申出は、櫛山からの一件のみだった。

 予定通り、異議申出の決定に係る臨時の選挙管理委員会が開催された。天野と長谷川の事前協議どおりに、他の委員からの反対もなく、開票事務に特段の問題はなかったとして、全員一致で却下の決定となった。

 大石は、すぐさま異議申出決定通知書を作成し、櫛山へ郵送する準備をした。


 ――果たして、どういった反応を櫛山が返すか……。


 手のひらが汗ばみ、封筒を持つ手が震えた。考えないようには努めているが、どうしても、顔を赤く染めて怒鳴り散らす櫛山の姿が脳裏に浮かぶ。

 大石は頭を左右に強く振り、雑念を振り払うと、意を決して封筒をポストに投函した。

 翌日、案の定、櫛山が怒鳴り込んできた。


「おい! 開票結果が不当だといっただろう。なぜ却下なんだ!」


 青筋を立てながら、櫛山は吼えた。天野がすかさず駆け出すと、櫛山に対峙した。


「私たちは、開票の結果については確信を持っています。ですから、申立てについては、却下をさせていただきました。ご理解ください」


「また、お前か、クソ婆あ」


「……ご、り、か、い、く、だ、さ、い!」


 天野は、握った拳が震え、白い肌が徐々に赤らんでいった。口調がおかしくなってきており、通称認定のときに揉めたあの日の、あまり思い出したくない光景が大石の脳裏をよぎった。


 ――またか?


 天野の様子に、間違いなくスイッチが入ったと確信した大石は、力なく頭を振った。だが、今回は児玉がいち早く間に入った。


「局長、落ち着いてください。あとは私が話しますから」


 天野は、不満そうに「そ、そう?」と呟くと、身を引いていった。どうやら、本格的に頭に血が上る前だったのか、冷静さを取り戻したようだ。

 児玉は、天野を睨みつけている櫛山に向き合った。


「櫛山さん、我々の決定に不服があるのでしたら、異議申出決定通知書にも記載させていただきましたが、都選管へ審査の申立てができます。審査の申立てをなさったら、いかがですか?」


 児玉は興奮する櫛山を宥めるよう、ゆっくりと冷静に説明した。


 ――絶妙のタイミングだった。さすが係長だ。どうにか、この場は治まりそうだな。


 真っ赤になっていた櫛山の顔が、落ち着きの色を取り戻してきていると大石にもわかった。


「そうか、わかった。都選管へ行けばいいんだな」


「すみませんね」


 児玉が軽く頭を下げた。


「オレは、オレの勝利を全く疑っていない。お前たちが誤っていたという厳然たる事実を、はっきりと示してやる」


 櫛山は、表情は落ち着いていたものの、怒気を孕んだ声で吐き捨てると、事務局を後にした。

 櫛山の後ろ姿を見送ると、児玉は大きく溜息をつき、自席に座り込んだ。


「ふぅ……。相変わらずの沸点の低さだな、あの人も」


「彰ちゃん、悪いわね。つい挑発に乗って……」


 天野は缶コーヒーを児玉に渡した。表面に滴が見え、しっかりと冷えている様子がよくわかった。自販機から買ってきたのだろう。児玉は礼を言って受け取ると、プルタブを開いて一気に流し込んだ。


「あとは、都選管からの連絡待ちですね。状況によっては、票を開くようになるかもしれない」


「そうね……。まさか結果がひっくり返る事態にはならないと思うけれど、気がかりでは、あるわ」


 ――票を開く……? 投票用紙を入れた袋の封印を、解くのかな。


 開票時、選挙立会人の点検を済ませた票は、大きめの宅配袋に入れられ、選挙長および各選挙立会人の印で封印をされていた。


 ――そうなると、かなり大がかりな審査になるぞ。


 湧き上がる不安を抑え込み、大石は窓辺に立つと、窓を開いた。

 ゴールデンウィークも終わり、初夏の陽気が気持ちよかった。一つ深呼吸をし、空を仰ぎ見ると、西から徐々に黒く厚い雲が流れてきているのが目に入った。


 ――雨に、なりそうだな……。



 一週間後。大石は作業スペースで、各立候補予定者から提出された選挙運動費用収支報告書の整理をしていた。収支報告書は、要旨の告示を行わなければならないため、告示用に纏め直す必要があった。


「お疲れさん。順調かい?」


 小笠原が、隣に腰を下ろしてきた。

 大石は横目で小笠原の姿を一瞥し、「もちろんですよ」と応じた。


「櫛山が怒鳴り込んできてから、一週間だ。そろそろ、都選管に審査の申立てでもしている頃かな」


 小笠原は、頭の後ろで腕を組み、背凭れに凭れ掛かると、所在無さそうに椅子を揺らした。大石に収支報告書関係の処理を覚えてもらおうと、あえて手を出さないようにしているらしい。


 ――次の選挙のときには、先輩はもういないかもしれない。今のうちに一人でやれるようになっておかないと、困るのは自分だから。


 収支報告書の事務は、期限に追われているわけでもなし、独力でこなしきろうと、大石は決めていた。


「そうですね。ぼちぼち、都選管から連絡が来るんじゃないですか?」


 大石は、一旦整理の手を止め、考え込んだ。あの櫛山だ。早々に審査の申立てを行いに、本土に行っているに違いない、と。


 ――本土へ行く時間等を考慮しても、そろそろかな。


 大石が止めた手を再び動かし始めると、事務局内に電話のコール音が鳴り響き、児玉が受話器を取った。


「出ましたか。え? 会議室を、ですか? わかりました、手配をしておきます」


 ――会議室? 何の話だろう。どこからの電話だ?


 気になって様子を窺うと、電話を終えた児玉が自席を立ち、大石らのところへとやってきた。


「都選管の関口さんからだった。どうやら、今日付で櫛山から審査の申立てが成されたらしい」


「ついに、来たな」


 小笠原は凭れ掛かっていた椅子から、勢いよく立ち上がった。待ってましたと言わんばかりだった。


「会議室って聞こえましたけれど」


 ――票を開くのかな?


 会議室が必要という話なら、おそらく広い場所が必要なのだろう。


「あぁ、うちの会議室を使って票を開き、再確認をしたいそうだ」


 やはり、大石の想像通りだった。大がかりな作業になりそうだ。


「一週間後に作業をしたいらしいので、会議室を確保してほしいと頼まれたよ。大石さん、悪いけれど、手配をしておいてくれるかな」


 大石は自席へ戻り、ノートパソコンを開いた。グループウェアを起動し、施設予定表を確認する。

 どうやら、立候補予定者説明会や立候補届出受付会場として使った会議室が空いているようなので、利用予約を入れた。


「一番大きい会議室を確保できました。票を開くのであれば、好都合ですよね」


「関係者も多数になるだろうし、ちょうどいいね」


 大石らが話をしている間、席を外していた天野が事務局へと戻ってくると、児玉が報告をした。天野は報告を受けるや、小笠原と大石を呼んだ。


「小笠原さん、大石さん。来週の審査までに、開票関係の書類や、封印した投票用紙の準備を、しっかりお願いね」


 大石は首肯した。もう、腹はできている。ドンと来いだ。

 小笠原も、覚悟は決まっているようだ。大きく肯いていた。

 天野は自席に座ると、頬杖を突きながら天井を見上げた。不機嫌そうにしている。


「うーん、やっぱり、票を開かなければならないのね。あまり気分のよい話じゃないわ」


 ――確かに、自分たちの事務執行を否定されるような気分を、感じちゃうよな……。


 大石は心中で天野に同意をした。開票結果には間違いはないはずだ。

 しかし、外部の人間に再確認をされるのは、疑われているようで、大石の心も穏やかではなかった。票を開く覚悟はできているとはいっても、やはり、ぞっとしない。

 審査は来週、おそらく櫛山も姿を見せるだろう。果たして、何事もなく無事に終わるのだろうか。


 ――気にしすぎ、かな。

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