第七章 覆された結果
第31話 異議申出
開票を終えた翌日、大石は事務局で残務整理をしていた。小笠原が開票所の撤収作業で不在のために、大石一人で物品の整理を行う必要があった。
各投票所から戻された器材を整理し、倉庫へしまい、ノートパソコンなどの精密機械の掃除を入念に行った。
疲れ切った体で、記載台などの物品の整理を行い、大層骨が折れたが、小笠原から「ここで手を抜くと、次の選挙の準備のときに、泣きたくなるほどの後悔をする破目になるぞ」、と脅されてしまっては、やらざるを得ない。
――愚痴を言ったって、いつまで経っても片付かないよな。肉体労働は、下っ端の役目だし、ね。
大石は、苦笑いを浮かべつつ、畳んだ投票記載台を倉庫へと運び、投票所別に綺麗に並べていった。
大石が倉庫から事務局へ戻ろうとすると、事務局の入口に立っている男の姿が目に入った。サイズの合わないダボダボの白いシャツに、くたびれたジーンズ姿の、櫛山だった。
反射的に、背に冷や汗をかいた。
――やはり、来たか。
櫛山の姿を見て、異議の申出に来たのだと大石は直感した。
大石よりも先に櫛山の姿に気付いたのだろう、事務局から児玉が出てきて、対応を始めた。
「昨日の結果は不当だ、異議の申出がしたい」
まるで感情のこもっていない、冷たい声だった。
大石は、櫛山の表情を遠目で窺うが、どうやら、気が高ぶっている様子は感じられなかった。昨晩はあのまま警察署に連れて行かれ、頭を冷やすように諭されたそうだ。落ち着きを取り戻した櫛山は、早朝に解放されたらしい。
「こちらが、異議の申出の書式となります。文書による提出が必要となりますので、必要事項を記載し、提出をお願いします。異議の申出ができる期間は、当選人決定の告示の日から十四日間となります。ご注意ください。なお、告示は、本日付で行っております」
児玉は余計な感情を交えず、淡々と説明をした。
「明日、書類を提出に、また来る」
櫛山は頷き、書類を受け取ると、早々に去っていった。
櫛山の姿が視界から消えると、スーッと背中の汗が引いていった。
――気にしすぎだろ、大石。
あまりに素直すぎる自身の体の反応に、大石は自嘲した。
小池と櫛山の接戦に、おそらく異議の申出がなされると踏んだ天野は、事前に事務局内で異議の申出について勉強会を行っていた。
異議の申出は、選挙の結果に不服がある選挙人や候補者が、市選管に対して選挙の効力や、当選の効力の無効を求める制度である。大まかな流れを、大石は思い出す。
櫛山の件は、当選の効力の無効を求めるもので、当選人決定の告示の日から十四日の間に文書で行われる必要がある。市選管の異議申出の決定に不服がある選挙人または候補者――異議申出人とは限らない――は、都選管に対し、異議申出に係る決定書の交付の日または決定書の要旨の告示日から二十一日以内に審査の申立てができる。
さらに、審査の申立ての裁決に不服がある場合には、高等裁判所への提起が認められ、出訴期間は審査申立てに係る裁決書の交付日または裁決書の要旨の告示日から三十日以内となっていた。
櫛山は、おそらく自身が当選とならない限りは、審査申立て、高裁提訴と進むと思われた。かなりの長期間を要するだろうと、大石は覚悟を決めていた。
翌日。櫛山は約束どおり事務局に現れ、異議申出書を提出していった。内容は、小池の当選を無効とするよう求めるものだった。
天野は、すぐさま長谷川に連絡を取り、櫛山から異議の申出がなされたと報告をすると、異議申出期間の経過を待ち、五月十六日に、臨時の選挙管理委員会を開催したい旨を相談した。
長谷川は了承し、臨時の選挙管理委員会の開催が決定した。
大石は天野の指示を受け、委員会開催通知を作成し、各委員に送付する準備をした。異議申出の決定に関する委員会だ。
「当然、オレたちは自らが行った開票に誤りはないと思っている。申出を却下する決定を下すだろう。櫛山は間違いなく、都選管へ審査申立てを行うだろうな」
開催通知を封入している大石のそばに、小笠原がやってきた。
「長期戦に、なりますかね」
「まず、高裁までは行くだろう。万が一、都選管の裁定で、オレたちの開票結果が覆ったとしても、今度は小池さんが黙っていないだろうし、な」
小笠原は切手入れから切手を取り出し、大石に渡した。
大石は、受け取った切手を封筒に貼りながら、小笠原の話に耳を傾けた。
「異議の申出人になっていなくても、下された裁決に不服な候補者は、審査申立て、高裁提訴は可能だからな。逆転の結果になれば、小池さんも戦うだろう」
――櫛山が逆転したとしても、どちらにしても、長期戦になるのか。
年末には、市長選に向けた準備を始めなければならない。今度の市長選は年の瀬も押し詰まった、クリスマス選挙となる。十一月には本格的な準備に入りたい事情もあった。
あまり訴訟が長引くのは、喜ばしくはなかった。
「まぁ、成行きを見守ろう。週末になれば、一月半ぶりの休みが取れる。オレは釣りにでも行くつもりだけど、大石も来るか?」
「いやぁ、さすがにボクは、先輩ほどの元気は残っていませんよ。週末は、ゆっくり睡眠を摂らせてもらいます。見てくださいよ、これ。ズボンがブカブカ」
苦笑を浮かべながら、大石はズボンのウエスト摘んだ。小笠原は、大石の様子にニヤリと笑った。
「ハハッ、オレも最初の選挙は、かなり窶れたよ。でもな、二回目になれば、おおよそのペース配分もわかってくるから、心配しなくても大丈夫さ」
小笠原は、大石の頭を軽く叩いた。
確かに、大石はペース配分がめちゃくちゃだった。とにかく目の前のものに全力投球のため、息を抜くべきところが全くわからなかった。
だが、実際に一回やってみると、どこに力を入れて仕事をすればいいのかが見えてきたし、次は、もう少し上手く立ち回れるだろう。机上ではわからない、多くの経験を積め、一回り成長したと、大石自身が明確に感じていた。
――この経験を、生かさないとね。
クリスマスの市長選。もう半年後には、今回の経験を生かす場が、さっそく与えられる。いつまでも半人前ではないと、周囲に見せ付けるのみだ。
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