第30話 開票終了

 森田は、そっと目を閉じると、苦しんだ選挙戦を思い返した。

 小池の勝利だった。逆上して怒鳴り散らし、警官に摘み出されていった櫛山を横目で見つつ、森田はホッと胸を撫で下ろした。一票差とはいえ、勝ちは勝ちだ。


 ――薄氷を踏む思いだったけれど、どうにか、先生を再び市議会へ送り出せるわ。


 立候補予定者説明会、新人を立てる予定だった森田の眼前に突如現れた謎の男、櫛山英作。四十年ぶりの全く想定をしていなかった投票に、知名度の問題で、急遽、引退を表明済みだった小池へ再登板を依頼、紆余曲折の末、どうにか固辞する小池を担ぎ出せた。

 選挙戦が始まれば、思いの他かなりの支持を集めた櫛山に、不本意ながらもネガティブ・キャンペーンを張り、一時は確かな風を手繰り寄せられた。

 しかし、櫛山は狡猾にも、偶然――ではなかったに違いない、おそらくは――子供にポスターを悪戯された事件を逆手に取り、小池を悪役に仕立て上げてきた。あのポスター事件が、手繰り寄せていたはずの風を逃し、混戦を演出する大きな分岐点となった。

 最終的には、有権者の誤解を解けたとは思う。が、いかんせん、政治に無関係な話題で批判合戦を繰り広げた代償として、地盤の北地区の有権者の離反を招き、投票率が低下、一票差の苦戦を強いられる結果となった。


 ――想定外は、選挙では当たり前とはいっても、正直、辛かったわ。でも、どうにか、報われたわね。


 目を開き、息を大きく吐ききると、今まで溜め込んでいた負の感情が、すべて体外に排出されたかのように、森田は妙に体が軽く感じられた。足取り軽く廊下へと出ると、携帯電話を取り出し、選挙事務所へ勝利報告を行った。


「先生の勝利で終わったわ。一票差だったけれど、勝ちは勝ち。私も、すぐ事務所へ戻るから、待っていてね」


「当選ですか! わかりました、お待ちしています。戻りましたら、今までの労苦を偲びつつ、全員で万歳三唱をしましょう」


 若林の弾む声が、森田の心をさらに明るくした。勝利の実感が、徐々に、徐々に湧いてきた。

 森田は携帯電話を切り、ハンドバッグにしまうと、頬を緩めながら、足早に駐車場へと向かった。



 午後十一時半。開票所の簡単な撤収作業を終え――本格的な撤収は、翌朝に委託業者とともに行う予定だった――大石たちは、市役所へと戻った。


「何とか、日付が変わる前に戻ってこられましたね」


 大石は自席へと戻り、椅子に座ると、一仕事どうやら終えた解放感から、今まで押さえ込んでいた疲労感が一気に押し寄せてきた。背凭れにだらしなく凭れ掛かり、ぼんやりと天井を仰ぎ見た。


 ――疲れた……。長い、長すぎる一日だったな。


 連日の残業で疲労のピークに達している中、朝四時半に起床し、十九時間ぶっ通しだった。混濁する意識の中で、大石は徐々に睡魔に襲われてきた。

 不意に、天野の手を叩く音が耳に入り、大石は呆けた頭を覚醒させられた。

 大石が天野へ視線を送ると、天野は「みんな、集まって」と呼びかけた。

 大石は立ち上がり、天野のそばへ行くと、小笠原、児玉も後に続いた。


「長時間の事務、お疲れ様でした。どうにかこうにか、無事に確定まで漕ぎ付けられたのも、係長以下の皆が確実に、事務をこなしてくれていったおかげです」


 天野は三人に視線を送り、労いの言葉をかけた。


「しかし、結果を見て、全員もう覚悟はできているかと思いますが、まず、間違いなく櫛山さんから、異議の申出がなされるでしょう。ただ、私たちの開票手順に誤りがあったとは、決して思っていません。自信を持って、異議の申出には対処をしましょう。まだまだ、気を抜けない状況が続くと思われますが、もうしばらく、辛抱してください」


 選挙の一大イベントたる開票が終わり、緩みがちな雰囲気を締めるためだろう、天野は大石らに、しっかりと緊張感を保っているよう、訓示をした。


 ――局長の言うとおり、気を抜くわけにはいかないな。櫛山のヤツ、大暴れして警察に連れて行かれたけれど、終わりだとは、とても思えない。


 緩めたネジを締め直し、大石は、明日以降へと備える気構えを持った。


「さぁ、そうは言っても、一旦ここは頭の中から消し去って、今日はゆっくりと休みましょう。しっかり英気を養い、また明日、元気な姿を見せてください」


 大石らが返事をすると、解散となった。

 長い、実に長い一日が、ようやく終わった。

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