第29話 開票~午後十時五十分~
午後十時四十分。大石は疑問票審査係に呼ばれ、審査をしているテーブルに向かった。
疑問票が仕分けられた容器を覗き込むと、どうやら、ほとんど審査は終わっているようだった。
疑問票審査係の他に、天野、児玉、小笠原もおり、どうやら一枚の票について、あれこれと議論をしているようであった。
「この票、どう思います?」
天野が、テーブルに置かれた問題の票を指し示した。
大石はテーブルを覗き込むと、票に記載された文字が目に入った。
『小 長』
――これは、いったい?
投票用紙には、『小』の字が記入欄の枠の上方に、『長』の字が枠の下方に、相当の間隔を置いて記されていた。
「私は、小池候補の有効票だと思うの」
天野は、全員の顔にサッと視線を送った。
――この票が小池さんの有効? どういう理由だろう。
見当のつかない大石は、腕を組み思案した。
「と、いいますと?」
疑問票審査係の一人が、やはり意図が掴めないのか、首を傾げた。
「『小』と『長』の間に、数文字書けるだけの空きがあるわよね。つまり、『小池議長』の『池』と『議』の二文字が脱落しているだけ、と捉えられない?」
皆、一様に考え込んだ。大石も腕を組んだまま、問題の票を凝視した。
「特別の事情のない限り『選挙人は候補者中の何人かに投票したものと推定すべきである』とされているし、立候補者名とは無関係の事項が書かれた、いわゆる他事記載票は無効になるけれど、『誰々市長』のように、職業や敬称の類は他事記載に当たらず、有効とされるわ」
天野の説明を、皆、口を挟まず聞いていた。
「つまり、『小池議長』は有効。また、『何人かに投票したものかを推定すべき』とされており、かつ、『諸般の状況から当該候補者に投票する意思で記載したものと認められる限り、これを当該候補者の有効投票と解すべき』とされているわ。以上を考慮に入れると、この票は小池候補の有効票と判断すべきだと思うの」
――なるほど……。確かに、局長の説明、納得もできるかな。
疑問票審査係の面々も、同様なのか、特に異論は挟んでこなかった。
「わかりました。では、天野局長の判断で行きましょうか。選挙立会人への説明も、今のとおりで」
疑問票審査係のリーダーがざっと全員を見渡し、同意を求めると、皆頷いた。これで、すべての票の有効無効が判断された。残るは、選挙立会人たちの意見を聴取するのみとなった。
――やっと、終わりが見えてきたかな。
大石は、判断された疑問票の結果を、開票集計システムに入力した。
小池と櫛山が、一票差であった。小池が一票、上回っている。
ゾワリと大石は悪寒が走り、背中には不快な汗が浮き出てきた。
――一票差……。まさか、ここまで激しく競るとは。
予想以上の大接戦だった。果たして、各陣営は、結果を素直に受け入れてくれるだろうか。まだ、もう一悶着ぐらい起こりそうな予感を、大石はひしひしと感じた。
集計を済ませた大石は、選挙立会人たちを集めて疑問票の審査結果を説明しようと準備をしていた天野に、そっと耳打ちをした。
一票差に、天野の顔が険しくなったのを、大石は見逃さなかった。
天野は、すぐさま傍らの児玉に囁き、また、長谷川にも伝えた。
児玉も長谷川も、やはり難しい顔を浮かべていた。
――当然だろうな。一票差なら、まず間違いなく異議の申出が出る。どうやら、市議選は今日で終わり、とはいかなそうだ。
天野も児玉も小笠原も、事務局職員は全員、異議の申出を受けた経験がなかった。今後は全員が未知の領域突入となる。心細さを感じないといえば、嘘になる。
大石がぼんやりと考え込んでいる間に、疑問票審査係の担当が、疑問票の有効無効の判断について、選挙立会人に説明をしていた。
櫛山陣営から出された選挙立会人が二~三の意見を言ったが、他の選挙立会人は、事務局の判断にけちをつけてはこなかった。
櫛山の選挙立会人も、単に頼まれ仕事なのか、強くは反対してこなかった。
――櫛山は、やはり味方がいないんだろうな。
何時間も口論になる事態は、どうやら避けられたようだった。大石はホッと安堵した。
いずれにせよ、選挙立会人はあくまで意見を述べられるだけだった。最終決定は、選挙長たる長谷川にあるので、櫛山の選挙立会人がいくら強硬に反対をしようと、今この場でひっくり返るような話ではなかった。
長谷川が、事務局の説明どおり決定する旨を宣言し、選挙立会人たちは自席へと散っていった。
「大石さん、確定よ。午後十時五十分でお願い」
天野が目配せをしてきた。大石は頷くと、開票集計係のテーブルへ戻り、システムに確定時刻を入力、結果をプリントアウトした。
――これで、確定っと。
打ち出された開票結果用紙を、天野に渡した。
さっそく、広報課長がマイクを持ち、アナウンスを始めた。
「会場の皆様、大変長らく、お待たせいたしました。二十二時五十分、開票確定報告を、させていただきます。木村、泰助、七百四十五。三浦、康子、六百三十二――」
十時半の開票速報で、すでに小池と櫛山以外の陣営の当選は決まっていたが、やはり、小池と櫛山の動向が気になるのだろう、参観席は変わらぬ熱気を放ち、あちこちから大きな喚声が上がった。
「――小池、栄作、二百十。櫛山、英作、二百九。繰り返します。二十二時五十分、開票確定報告をさせていただきます――」
櫛山の得票数が場内に流れるや、間髪を容れず、参観席から怒声が響いてきた。
「ふざけるな! 何でオレの負けなんだよ!」
大石は参観席に視線を送った。大声の主は――櫛山だった。
「しかも、一票差って、何だ? おまえら、票を操作しているんじゃないだろうな?」
顔を真っ赤に染め、櫛山は怒鳴り散らした。
――あぁ……、思ったとおりだ。
騒ぎ出した櫛山を見て、大石は頭を抱えた。櫛山の性格だ、すんなり治まるとは思っていなかった。抱えた手に、汗がじっとりと浮き出てくる。
不意に櫛山は、参観席から廊下へと駆け出していった。
「おい、なんだ? どうしたんだ?」
ただならぬ参観席の様子に、開票集計システムから打ち出される選挙録を受け取るため大石の隣に来ていた小笠原も、顔を曇らせていた。
激しい足音がアリーナの入口から聞こえてきた。
「おいっ、櫛山が開票所へ走り込んでくるぞ!」
小笠原が叫んだ。
大石は、言葉を失い、身の毛がよだつ思いだった。足が竦み、ただ成行きを見守るだけしか、できなかった。
櫛山は怒り心頭に発し、アリーナへ飛び込んできた。
「開票をやり直せ! オレが負けるはずがない!」
勢いに任せ、櫛山は開票所へ一歩、足を踏み入れようとした。
「おいっ、待ちなさい!」
開票所入口に詰めていた制服警官が櫛山の腕を掴み、引っ張っると、勢いあまり、そのまま櫛山はバランスを崩して倒れ込んだ。
警官は、倒れこんだ櫛山にのしかかると、櫛山はしきりに「放せ、放せ!」と叫んだ。警官は全く意に介さず、騒動に気付き駆けつけてきた会場外の警備についていた警官と協力し、櫛山を抱えると、外へと連れ出した。
「おいおい、勘弁してくれよ。何がしたいんだ、あの人は……」
櫛山が摘み出されていったアリーナ入口を、小笠原は呆然と見つめていた。
拘束された櫛山を見て、大石もようやっと、落ち着きを取り戻せた。
「全くです。暴れたところで、結果が変わるでもない。取り押さえられるであろう結果は容易に想像もつきそうなものですけどね」
――事前審査のとき、自分で、カッとなりやすい性質だと言っていたけど、それにしても、ひどすぎやしないか。これで議員になりたいだなんて……。
もはや、呆れるしかなかった。
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