第25話 投票~午後七時半~
午後七時半。大石は窓の外に目を向けた。夕方から降り出した土砂降りの雨も、いつの間にか、すっかり上がったようだった。ホッと胸を撫で下ろす。開票開始まで降り続けられたら、また余分な手間が掛かるところだった。
雨が降っていると、投票所から開票所へ投票箱を運び出すのに苦労をする。投票箱の中身が濡れないように、大きなビニール袋で覆いを被せたりと、何らかの防水処置を施さねばならないためだ。
天野は、投票事務従事者たちに「もし雨が降ったら、たとえ自分たちは濡れたとしても、決して投票箱は濡らすな」と、口を酸っぱくして言っていた。可哀想ではあったが、投票用紙が濡れたら、それこそ一大事だ。
天野が伝えた指示も、決して大げさではなかった。
投票用紙は、開票所に備えた、投票用紙読取分類機と呼ばれる投票用紙の分類機械に掛けられる。精密機械のため、投票用紙が湿っていると投票用紙が上手く機械の中を滑らず、詰まりの原因となる。開票の速度は、この読取分類機の力に頼っている部分が多々あるため、機械の不調は即、開票時間にダイレクトに反映してくる。
――上がってくれてよかった。小池さんと櫛山の激戦で、ただでさえ気を使うのに、これ以上あれこれ余計な心配をしなければならない状況は、正直、勘弁してもらいたいし。
ホッと人心地ついた。
夕方の荒天のためか、午後五時の第四回、午後六時の第五回、午後七時の第六回いずれの投票速報も、投票率の伸び悩みが見られた。特にひどいのが、やはり北地区であった。
投票終了まで、残り三十分弱。もう、投票率の伸びは期待できないであろう。
「大石さん、私は一足先に、委員さんたちを連れて開票所へ向かいます。あとは、頼んだわね」
天野が長谷川らを引き連れ、大石に声を掛けてきた。各候補者から一名ずつ選出されている開票立会人たちに、開票の流れを説明する必要があるため、天野らは早めに向かう必要があった。
大石は頷き、天野らを見送った。
しばらく事務局職員は大石一人になる。心細いが、少人数の部署の宿命だろう。寂しさを紛らわせようと、大石は、投票本部入口の『めいすいくん』に笑いかけた。『めいすいくん』も、大石に微笑み返してくれているように感じ、うれしくなる。
そうこうしている間に、午後八時、投票の終了時刻が迫ってきた。応援職員が、各投票所からの投票の最終報告を受けるため、電話のそばへとやってきた。
「大石君……、何やってるの?」
応援職員が、苦笑していた。『めいすいくん』に向かってにやけていた姿を、見られてしまったようだ。
大石は、顔から火が出るかのように熱くなった。恥ずかしすぎる……。
午後八時、ついに投票が締め切られた。五分ほどすると電話が鳴り始め、各投票所の最終投票人数が報告されてきた。
大石は速報集計表を更新し、最終的な投票率を算出した。雷雨のせいか、結局は前回の市長選を下回る投票率に終わった。
「北地区は前回市長選に比べるとマイナス十%か。相当に落ちているな」
北地区以外の投票率が、前回市長選比マイナス一%程度であったが、北地区については最後まで朝からの傾向が変わらず、大幅なマイナスとなった。
――これは、小池さんかなり危ないかもしれないぞ。
結果を都選管と警察へFAXし、投票本部の撤収作業を応援職員たちに任せると、大石は、開票所へと向かった。
森田は窓の外を、じっと凝視していた。
もはや、投票速報の数値を聞きたいとも思わなかった。午後八時を少し回った。投票はすでに締め切られたはずだ。幸い、七時前には雨も上がったが、投票者数の伸びは、絶望的な状況だと思われた。
「結局、北地区は、市長選比マイナス十%らしいです。厳しいですね」
窓辺に若林がやってきた。森田は若林に一瞥をくれると、再び窓の外に視線を送った。
「そう……。混戦は、確定的ね。全く結果が読めなくなったわ」
森田は、大きく息を吐いた。吐いた息が掛かった窓に、曇りができると、人差し指で大きく丸を描いた。勝利の、丸。
――先生の当選は疑っていないわ。でも、できれば華々しい勝利を飾り、堂々と市議会へ、送り出したかった。
情勢を読めば、櫛山を大きく引き離すのは難しいかもしれない。もはや、完勝は望めないだろう。残念であった。
八時半、そろそろ開票所へ向かう時間だった。すでに、開票立会人を頼んだ事務所関係者は、先行していた。
「私は、開票所へ向かいます。若林君、事務所はお願いね。小池先生も間もなく事務所にいらっしゃるはず。支援者の方々も、ぞくぞく詰めかけてくると思うわ。対応をよろしくね」
若林は頷いた。
「開票速報が出るたびに、こまめに連絡を入れるようにするわ。勝利報告を、楽しみに待っていて」
さすがに夜は冷えるため、スーツの上に薄手の紺のコートを着込み、ハンドバッグには、参観席から覗き込めるよう、オペラグラスも潜ませた。
腕時計に目を落とすと、八時四十分を指そうとしていた。頃合だった。
「じゃ、行ってくるわね」
森田は選挙事務所を後にした。
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